空手道は沖縄を発祥として数百年を経て現在に至って居るが、多くはスポーツ化され、競技としての勝敗を争う為の目的で練習する「スポーツ空手」として新しい分野の空手が蔓延って居る。其れは本来の武道としての空手道から大幅に外れて仕舞っては居るが、競技(規定内での勝敗争い)だけを目指す者、健康だけを目的とした者には良いのかも知れません。然し、武道としての空手は最強でなければ成らないと思います。最強で有る為の思いと想いを持って日々の稽古をする。
聖士會館は武道空手術で有り、競技を目的とした稽古はしません。武道とは「精神(想いの心)、肉体(食生活)、技術(武術、医術)」を研鑽し、其れを心に残し(想いと思い)、文に変えて(文明、文化)残し、社会に溶け込む。後世に其れを継承し、更に研鑽して行く。生涯を修行者として空手の道に精進すると心に決めた者が集まります。基本を中心に何時も気を研ぎ澄ませた稽古をし、心身共に武士道の道を歩む。人を超える武道家を目指します。
聖士會館の空手術は両利き空手で、体中の筋肉を使いバランスを養います。そして、力では無く、頭脳と技の空手です。だから食事を正すと上達が速い。然し、最終の目的は、「心の形成」で有り、人を育てる事です。
聖士會館の体系は、殺法(剛法、柔法)、活法(和方、漢方、聖士會館医術)です。殺法も活法も心が備わり匠と成ります。心・技・体と言う言葉が有りますが、心が備わった技は身体を修めます。武道を追求して行くに連れて、人が出来、技が極まり、身体が整い、最後に心を形成して行きます。
空手道術(武道)とは人生と一体です。先人が作られた心と技を受け継いで、其れを発展させ、後世に伝えて行く。自分の人生と共に年相応に学ぶ事、気付く事が沢山有る。又、残す事も沢山有る。そんな沢山の心と技を生涯掛けて追求して行き晩年に完成する。大器晩成とは生涯を修める事。技は30年経って覚え40年経って完成する。心は40年経って見えて50年経って修まって来る。
齢と共に体力は落ちるが、技は向上して行く。更に心を形成して行く。
忍者は玄米正食をして居たそうです。其の理由は、健康を保つ為と、体臭を敵に嗅がれ無い為だそうです。
確かに、動物性蛋白質を摂取すると身体が腐る為に体臭が強く成ります。又、ウイルスの感染等も引き起こし易くなるし、身体が壊れて行くので病気を引き起こし易く成ります。腸の中で腐敗してガスが発生するのでおならが出ます。口臭も強く成ります。此等を敵に嗅がれると存在を簡単に気付かれて仕舞います。
確かに肉食の人は体臭は酷いし、体力が無い。頭(能力)も技も大雑把で、心は獣です。ですから、武士道たる本質を体得するのは無理です。先ずは挨拶が出来無い、自分に有利な事(利己主義)しか考え無いから、当然労りの心は無い等です。武士道とは最高の人格を作る道だからです。
忍者と言う武士道の達人は玄米正食をして、心も頭も身体も浄化して武の道に邁進して居た訳です。「空手道
聖士會館」もそんな武士道と良く似て居る。
研ぎ澄まされた心は、頭も身体も、そして、技をも成熟して行きます。本来、武道とは人の道です。其れを極めるには食生活を正す事からなのです。
食生活を正すと、「物(者)の見方、考え方」が変わって判断力が向上して来ます。
空手の道に入門して早64年経った。聖士會館を創設して41年経った。今思えば遠回りも有ったが、先ずは基本を真剣に稽古し追求して来た事、技を稽古・研究して来た事、そして礼儀作法を学んだ事・・・・・・思い出せば武道を学んで良かったと思う。そして武道を通じて心を養う事が最大の得る(悟る)もので有った。 |