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 武士道とは、武士階級の間に発達した道徳律の事で有り、忠誠・名誉・尚武等を重んじる。そして、権威有る基準と成る格律、規律、自律が有ります。

 現在は空手の技を戦争の為に使用すると言う事は無いだろうが、聖士會館の空手道は武術として、徒手空拳としての空手と武器を持った空手を稽古する武事訓練で有る。裏技として、怪我や病気等に対処する為の医術と食事学を学ぶ。武術と医術の両方を兼ね備えた武道空手で有る。武道空手の動きは武器を持った時の動きと同調して居る。

 空手は沖縄を発祥として日本に伝わって来たが、聖士會館の空手は、生活の中に溶け込んだ形として発展させて来た。沖縄空手と日本古来から有る古武道とを合体した空手です。

 スポーツ空手に見られる大技は、実戦では中中使え無いし、意外に隙が有るものです。実戦では、隙の無い小技が主に成ります。

 徒手空拳としての実戦技では、私の場合、手技は中指一本拳、親指一本拳、掌底、目打ち、裏拳、肘当て、引っ掛け、関節技(返し、逆、締め)を主に用います。そして、中指一本拳は壺に当てます。足技は中段前蹴り、関節蹴り、中段回し蹴り、膝蹴り、踵蹴り、引っ掛けを主に用います。組み手構えは半身です。

 武器の使用は、実戦性に於いて非常に有効です。相手がナイフや武器等を持って居る場合や、複数を相手にする場合、子供や女子の場合には簡単に自分を優位に持って行く事が出来ます。周りに有る物全てを武器にする事を普段から稽古しておくと、武器を持った相手に対峙した時に、瞬時に其の武器の特性を見出し、自分を有利に導く事が出来ます。

 自分の命、家族の命、友人の命等が、相手の暴力に因って危険に晒される事が一生の内には一度位は有るかも知れません。そんな時に空手の技は最高の判断と対処をする。

 武士道に命を懸ける意気込みは世欲を捨てる覚悟で無ければ成ら無い。剣を抜いたら生か死を選ぶ事で有り、抜いた剣に責任を持つのが武士道で有る。武の道は人格を磨く人の道で有り、人間完成(心の完成)への道で有る。頭脳と技の空手を目指し、生涯稽古を行い、心と技を磨いて行く。

 空手道とは、多くの人は「習うと強く成る」とか「精神修養の場だ」とか思って居る。然し、実際強く成ると言うのは「喧嘩に強く成る」と言う事だろうが、道場での組み手が強くても、其の外で喧嘩に強く成るには度胸が強くならないと喧嘩には尻込みして仕舞う。又、ピストルや刀を持った相手に素手で向かうには尚更尻込みして仕舞う。「精神修養」とは心を錬磨し優れた人格形成をする様に努めると言う事で有る。こう言う風に「喧嘩に強く成る」、「精神修養」と言う事を追求して行くのが本来の武道なのだろう。
 古武道の観点から見ると、武道とは、武器学、徒手空拳、礼儀作法、食事学、医術(和方)、精神修養、神道と成るのだろう。此を現代風に短時間で難しい所は省略して「健康と勝敗争いの快楽」に絞って行くと「力で勝敗を争う」と言う風に変化して行き、スポーツに成って仕舞う。力で争うと言う事は壊れるものが多い。
 生涯を掛けて追求して行くものとは奥の深いものでなくては成らない。奥の深いものとは心で有る。武道とは心を育てて行くもので有るから死ぬ迄追求して行く事が出来ます。
 道場とは神聖な場所で有り、武術を修業する場所で有り、其れには習い研究して行くものだから、きちんとした礼儀作法は必要で有る。全ての基本の上に展開されて行く技の修業は奥が深過ぎて簡単には会得出来ない。何時しか技を研究して行くと宇宙の秩序に気付き、「ある様にしてあり」、其れは「自然である」になり、光を見付ける。光とは心の中心的存在です。習得には膨大な時間が掛かるのは、心と技は見え無いものだから。

 道場内は無駄な思いや動きは無いから静かで有る。一般の人から見ると、独特な歩き方や稽古を見ていると異次元の世界に感じるのかも知れない。

 聖士會館は食生活全般に於いて最高の生き方を目指します。

 

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