12月から翌年の3月迄は基本中の基本と言う特殊な稽古を致します。武道空手を提唱する聖士會館ならではの稽古と言えます。 稽古始めには、各自で、バランスコントロール運動、胎児運動、犬歩き、同側同調運動と、倒立歩行と言う順番で、聖士會館独自の準備運動を行って身体を整えてから稽古を始めます。稽古終わりは、皆で一緒にバランスコントロール運動を行って、終わります。最後に犬歩きの代わりに、道場の床を雑巾掛けをします。こうして身体を整えると、多くの慢性病等も好転して行きます。
武道とは、本来生活に密着したものだと考えて居ます。最近の空手では使用し無い(スポーツ空手では試合を目指しての稽古をして居るから)聖士會館独自の稽古方法に因って、実戦と言う事を考えて稽古をします。身体の有らゆる部位を武器にする・・・・・・そんな空手で有りたい。又、背が小さくても其の人成りの技を身に付けて欲しいと思います。歳には関係無く心身共に強い武道家で有りたいし、生涯を空手の魅力に取り憑かれて行きたい。そして、いざ戦えば人間凶器と成る最強の武道空手で無ければ成ら無い。其れが故に、心身共に健康で無ければ成らない。
私が40年遣って来た空手は、最近のスポーツ空手の、試合の為の稽古(多くの場合、基本を遣ら無い)を主とした「空手着を着たキックボクシング」とは随分違う。現代人には受け入られ難いが、武道とは斯う言うものだと思う。何十万回も同じ事を遣り、頭に身体に覚えさせて行く。基本は完璧な迄に修得し無ければ行け無い。武道とは、力では無く、「心と其れを現す技」を生涯に於いて修行し修得して行くもので有る。
直接打撃制を取り入れ、スポーツとは違い、生活の全ての中での実戦を想定して居る。体系は、剛法と柔法には、叩く、蹴る、投げる、体捌き、関節技、武器学等。医術には、活法・救急処置・治療。教育・学習・研究は、礼節、無双原理、精神修養で有る。
完全成るものを追求すると言うのに、そして、精進するのに心や身体が歪んで行くと言うのは矢張り可笑しい。本物を追求すると言うのは心身共に完成されて行かなければ成ら無い。だから、心身に故障が有っても稽古を積んで行くと修復されて行く。
聖士會館の稽古生は、特別筋肉隆々、拳は胼胝だらけ等と言う身体には成ら無い。外観は普通の人で有る。其れは、肉食を中心とした食生活をせず、本来の穀菜食だからです。だから、病気も殆どせず、若々しく、体力に満ち、本物の身体を造る。機械を使用せず、倒立歩行や這い、拳立て、指立て、拳歩き、蛙歩き(前後)、腹筋運動、背筋運動、屈伸運動、加速運動、超ゆっくり運動、超ゆっくりの基本技、柔軟運動等を呼吸を調整して行う稽古をするからです。
完璧なる基本の追求・・・・・・・基本の中に全てが有る!基本とは、心も、技も、身体も含めて、全ての「気の元」で有る。だから、生涯を通じて追求する!基本の修練は無限の技に繋げます。
特殊な突きや蹴り、構え等は聖士會館独自のものが多く、聖士會館流と言える技です。
我々は、健全成る心を磨き、物事の根本を学び、個人を越え、優れた人格を形成する様に努める。技は力を超え、心は肉体を超える。心境を高め、体術・想念術を駆使し、稽古を積む。「本物の人を作る」武道なので有る。
殺法(剛法・柔法)技の極めは、身体因り先に幽体が自然に動き(幽体が技を出す=自然体の無動作から始まり静かな動き)、叩いたり蹴ったら、其の力の移動は相手の身体を突き抜けて行く。
活法(和方、漢方、聖士會館医術)技の極めは、想いを極め、自分の心身を知り、相手の心身を知り、自然に返ると言う事です。
我々は、食生活全てに対応する「聖士會館流(独自)の武道」を目指しています。 |