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2001年4月2日(月)〜2001年11月12日(月)

 

正食日記 2 2000.11. 5.〜2001. 3.31.
正食日記 1 2000. 7.20.〜2000.11. 4.

  

 

 11月12日(月)
 ばあちゃん 其の七
 
私が妊娠に気付いた2、3日後は、主人、義母との旅行の予定が入って居ました。旅行は、全行程、長時間車に乗る予定です。山道も通りますし、可成りハードなスケジュールなので、一寸心配に成りました。「え〜。何でまた・・・ヤバイなぁ。」と一瞬思いました。が、直ぐに、「ばあちゃんが連れて来てくれた魂だから、全てタイミング良く進む筈。悪い事態は起こる訳が無い。つまり、此は旅行も赤ちゃんも両方無事で、楽しんで来られると言う事だ。」と逆に思え、安心しました。ただ、妊娠の事を話すと心配されるので、主人にも話さずに旅行に出発しました。
 計5日間の間には、途中、身体が辛い時も有りましたが、殆どは体調も普段と変わりなく、無事に終え、とっても楽しい思い出の旅行と成りました。矢っ張り、決行して良かったです。
 ただ、旅行から帰って来てからは、経過が順調かどうかは全く自信が無くなりました。過去にも度々妊娠した事が有りますが、毎回、流産して居ましたので、またもや同じ事を繰り返しそうな気がします。「今回も、お腹の中で死んじゃったのでは・・・・・。」と悪い方に考えて仕舞い、イライラする日が続きました。元気なんだろうか?今回もダメなんだろうか?どっちだろう?そして、其の重圧に負けて、今回もダメに違いないと勝手に自分の中で結論を出して仕舞いました。其れからは、自暴自棄に成り、食生活が乱れたり、逆に、身体を再生させなければと思い立ち、ジョギングやサイクリングをしたり、又、仕事で無理をしたりと、今、考えれば恐ろしい事を繰り返して居ました。
 一ヶ月程、悶々と過ごしたでしょうか。或る日、心の中でお腹の赤ちゃんに、「元気に育ってる?会いたいね。」って、話しかけてみた所、お腹から身体全体が温かく成り、目の前が明るく優しい光に包まれました。過去に妊娠した時には此の様な返事は返って来ませんでした。今回が初めてです。此の時、もしかしたら、順調なのかも知れないとの希望が芽生え、今までの行いを反省しました。其れまでの一ヶ月間の生活を振り返ると、冷や汗が出て来ます。妬け食いに走った事も有りましたので、赤ちゃんにダメージが有るのではないだろうか・・・・・・。凄く心配に成りました。「此からは、きちんとした生活を心掛けます。だから、なんとか赤ちゃんの事を守って欲しい。」私は、ばあちゃんを始め御先祖様に御願いをしました。
 其の後、病院で診察を受けた所、御陰様で、元気に育って居ます。其れまでのハードな環境にも耐えてくれて、今回は、とても強い子に思えます。此の子が宿った時、咄嗟に、ばあちゃんが連れて来てくれたんだと思いましたが、ばあちゃんの他にも多くの御先祖様に見守られて居る事だと思います。中でも、赤ちゃんの誕生を心待ちにしながら、前の子とほぼ時を同じくして他界して行った義父や父方の祖父母もきっと此の子の存在を喜んでくれて居る事だと思います。折角、多数のお導きで此方の世界に宿った大切な命。無事に此の世へ送り出せるかどうかは私の責任です。自分の子だけど、自分だけの子じゃ無い。見えない世界からの多数のリレーで送り出されて来た神の子です。其の使命のバトンタッチを受けて、とても感慨深い物が有ります。其の重みを認識すれば、決して自分の些細な欲で貴重な魂の輝きを曇らせて行く事の無い様にしなければと思います。此の様な大役を仰せつかり、今は、有らゆる存在に感謝の気持ちで一杯です。 

 11月11日(日)
 ばあちゃん 其の六
 
ばあちゃんには、8人の孫と4人の曾孫が居ます。曾孫もスクスクと成長して、一番上は現在高校生です。皆は殆どがばあちゃんの近くに住んで居り、孫同士、曾孫同士の仲が良くて、しょっちゅう交流して居るので、ばあちゃんは楽しい余生だったと思います。
 私達夫婦には子供が居ません。近年、ばあちゃんの具合が悪いと聞いてからは特に、なんとかばあちゃんが生きて居る内に、「私にも子供が出来たよ。」と報告したいなぁとずっと思って居ましたが、結局、其れも実現せず、今回、ばあちゃんが亡くなったと聞いた時は、其の事が一番残念でした。
 しかし、ばあちゃんが他界した翌月、私は妊娠して居る事に気付きました。結婚して10年。最近では子供を持つ事を殆ど諦めかけて居り、全く予想をして居なかったので、俄には信じられませんでした。でも、直ぐに、「きっと、ばあちゃんが赤ちゃんを連れて来てくれたんだ!」と思いました。其れ以外には考えられません。
 此の1〜2ヶ月間の出来事、特に、最後に見送った時のばあちゃんの安らかな寝顔が思い出されます。私は、ばあちゃんと一緒に暮らして居た訳では有りませんので、昔、ばあちゃんが偶に遊びに来てくれた時の良い思い出だけが記憶に残って居ます。そして今回、ほんのりと笑みを浮かべて居るばあちゃんの安らかな旅立ちの顔を見てホッとしました。安心して送って上げる事が出来て、今まで以上に、最後にばあちゃんとの良い思い出が出来ました。私が、ばあちゃんの身体に触れながら、子供の頃からのばあちゃんとの事を色々と思い出して居た時間は、ばあちゃんと心の交流をして居た様な気がします。他の孫達と比べて、私がばあちゃんと接した時間は少なかったけど、ばあちゃんはきっと他の孫達と平等に私の事を気遣ってくれて、最後に私に御褒美をくれたのではないでしょうか。
 きっと、霊界入りしたばあちゃんが、私に見合う魂を呼んで来てくれたのだと思います。

 11月10日(土)
 ばあちゃん 其の五
 
母の実家の地区の人達は、殆ど皆が遠い親戚に当たるので、私が育って来た所の慣習からは考えられない位に、常日頃、近隣地区の人達の結束は固く、殆ど家族同様に接して居る様です。冠婚葬祭も手慣れて居り、此の度の葬礼も、ご近所の方達のお手伝いの御陰でスムーズに終える事が出来ました。こういう時は、店屋物を摂るのが当たり前だと思って居ましたが、皆さんの手作りの精進料理はとても美味しかったです。お葬式にも沢山の方が来て下さり、皆で心からばあちゃんを送って上げる事が出来て、とっても良かったなぁと思います。精進明けにも沢山のご近所の方達が参加され、涙有り笑い有りとみんなで楽しく宴を囲む事が出来て、ばあちゃんも喜んでくれて居る事でしょう。
 私は、此の度の大分行きが10年ぶりの事なので、ご近所の方達とは殆ど面識が無い、というか、思い出せないのですが、皆さんは母が子供の頃からの知り合いなので、私や妹の事も良く御存知で、今回も事有る毎に私達にも良くして下さいました。私が生まれ育った所では有りませんが、両親のルーツに触れ、一族と同席する事で、私もとても懐かしく温かい気持ちで一杯に成りました。
 

 11月9日(金)
 ばあちゃん 其の
 
母方の親戚は殆どが九州に住んで居ますが、一人だけ関東に住んで居る叔父が居ます。
 10年前の私の結婚式の時、九州から来てくれた親戚達は、前日から我が実家に泊まって居たので、当日は私の両親と親戚達は一緒に式場へ向かいました。皆は、大阪まで出て、其処で電車を乗り換えたのですが、座った向かい側の座席に、関東から一人で来て居た其の叔父が、偶然、座って居たそうです。事前に待ち合わせて居た訳では無いのですが、偶々、途中で会う事が出来て、みんなビックリしたそうです。当時、父は、御先祖様が導いて下さったのだとしみじみと言って居りましたが、私もそう思います。
 私達には御先祖様が常日頃から守護をして下さって居ますが、親戚一同が集まる冠婚葬祭の時には、特別に強力な御加護を頂いて居るのではないかと思います。其の時も、肉体を持って出席する事の出来ない御先祖様から頂戴した、私や身内へのお祝いだったのだと思えて、とても嬉しかったのを覚えて居ます。私の結婚を喜んでくれて居るのだと実感しました。もしかしたら、遡って、私と主人との出会いも御先祖様のお導きだったのではないでしょうか・・・・・・。
 私達家族がばあちゃんの家に着いたのは夕方でしたが、関東に住む叔父も、私達よりも少し遅れて一家で駆け付けました。叔父には私の従姉妹に当たる二人の娘が居ますが、私達はお互いに未だ幼かった子供の頃に会ったっきりで、大人に成ってから会うのは今回が初めてです。殆ど初対面の様な物なのですが、血が繋がって居ると言う安心感からか、私は直ぐにとても近しい気持ちに成りましたし、彼女達も私の事を「おねえちゃん」と言って慕ってくれます。従姉妹って良いな、一族って良いなぁとしみじみと思いました。
 私には母方のいとこが6人居ますが、離れて暮らして来た為、子供の頃から数える程にしか会って居ません。今回、母方のいとこ、つまり、ばあちゃんの孫が全員揃いました。全員揃ったのは、初めての事です。もしかしたら、此が最初で最後かも知れません。従姉妹の一人が、「おばあちゃんが、孫を全員会わせてくれたんだね。」と言いました。私もそうだと思います。私も、いとこ達全員と会えてとても嬉しかったです。ばあちゃんも、全員の子供達と全員の孫達が一同に集った光景を空から見て、とても喜んでくれて居たと思います。

 11月8日(木) 
 ばあちゃん 其の三
 
私は、両親や妹と大阪駅で待ち合わせて、新幹線から在来線へと乗り継いで大分の母の実家へと向かいました。
 新幹線は『のぞみ』が取れましたので、小倉まで最速で行けましたし、小倉から大分まで待ち時間無く特急電車に乗れました。両親は此迄何度も此の道を来て居ますが、「こんなにタイミングが良くて楽な乗り継ぎは初めてだ。」と言って居ました。
 帰路も同様でした。何時もなら、乗り換えのタイミングが悪く、バスで駅に到着すれば一歩違いで電車が行って仕舞い、次の電車まで30分間待たなければ成らないのが常だそうですが、今回は、バスの運転手さんがビュンビュン飛ばしてくれたお陰で、何時もよりも早く駅に到着し、在来線から新幹線への乗り継ぎがスムーズで、其の為に、思ったよりも可成り早く帰宅する事が出来たのでした。行きも帰りも、まるで見えない御加護を受けて居るかの様に、次々とタイミング良く私達は運ばれて行きました。

 10月24日(水) 
 ばあちゃん 其の二
 
けれども、祖母の意識が回復したのは其の時だけで、再び昏睡状態後に陥りました。
 8月に入り、両親がばあちゃんのお見舞いに九州へ行きましたが、相変わらず意識は無く、何時息を引き取っても可笑しくない状態だったそうで、後ろ髪を引かれる思いで戻って来ました。其れでも、お盆は無事に越しましたが、8月23日の早朝、とうとう、祖母が他界したと連絡が入りました。
 私は、毎夜、爆睡する人間です。何時も、蒲団に入ってから3分以内には熟睡して仕舞い、朝まで目が覚める事は有りません。しかし、其の前夜、私は全く眠れなくて、寝間でもギンギンに目が冴えて居ました。こんな時は凄く悪い予感がします。7年前、主人の父が他界した時も全く同じ状況でした。義父が亡くなる前夜、私と主人は二人共全く眠れませんで、とうとう、寝る事を諦めて夜中にも拘わらず起きたのでした。あの時の事を思い出し、胸がザワザワします。そしたら、翌日、遂に祖母が亡くなったと電話が掛かって来ました。

 10月23日(火) 
 ばあちゃん 其の一
 
母方の祖母が他界して二ヶ月が経ちました。
 祖母は老衰からか、6月頃から元気が無くなり御飯を食べなく成ったので入院して居ました。間も無く昏睡状態に陥り、日に日に悪く成って行き、7月中頃、「あと一週間も持たない。」と電話が掛かって来ました。
 祖母は、今年90才です。病気知らずで大変男勝りで活発だった祖母。80才を超えてからも九州から私の実家へ遊びに来る程元気だったのですが、数年前、転倒、骨折して足が不自由に成ってからは病院の世話に成る事が多く成りました。其の頃から段々と衰弱して行き、「ばあちゃんが危ない。」と言う知らせも今回が初めてでは有りませんでした。でも、何時も無事に快復して来ましたので、其の生命力の強さに未だ未だ大丈夫だと安心して居ました。
 最近では、母も年に何度か祖母に会いに行って居たのですが、6月に会った時、どうも今回は様子が変だと感じたそうで、7月に、「いよいよ今回はダメみたいだから用意して置く様に。」と私に言って来ました。
 離れて暮らして居る為、私は祖母とは頻繁には会って居ませんが、幼い頃から数年に一度、我が実家へ遊びに来ては可愛がってくれましたので、大好きでした。偶に祖母が作ってくれたお料理の味は今でも覚えて居ます。炊き込み御飯は、母の物よりもばあちゃんが作った方が私は好きでした。私にとって、九州=ばあちゃんでした。
 祖母のデータベースは以前から作って居ましたが、私は霊流を引き、「未だ、ばあちゃんを彼方の世界へ連れて行かないで下さい。」と御願いをしました。でも、もし、祖母の生命エネルギーが本当に無く成って来て居るのなら、余りお引き留めも出来ません。其の時は、安らかに光の世界へ導かれます様にと御願いをしました。そして、其の日から、祖母の写真に聖天仁御札を重ねて置いておきました。
 其れからは、毎日がドキドキします。電話が掛かって来るのは今日か明日か・・・・と何をして良いやら落ち着きません。一週間が経ちましたが、何の連絡も有りません。私は母に電話をしてみました。すると、「ずっと意識が無かったばあちゃんが、数日前に喋り出した。」との事でした。付き添って居た叔母が、「どうせ寝言だろう。此方の言う事は分かって居ないだろう。」と言った所、祖母が、「ちゃんと聞こえてる。」と怒ったそうです。母もどうなって居るのか訳が分からないと言って居ました。
 私の願いが通じたのでしょうか・・・・・・。其れとも、最初から未だ未だお迎えの時では無かったのでしょうか・・・・・・。でも、どうやら、今回も延命された様で、取りあえず其の時はホッとした物でした。

 10月17日(水) 
 確率 其の五
 
癌等の治療の際、術後○年後の生存率は○%だとしばしば言われます。統計学的には正しいのだと思いますし、参考にしない訳では有りません。私も一応、世間的な目安にして居ます。

 10月7日(日)
 確率 其の四
 
狂牛病が世間を騒がせて居ます。イギリスで狂牛病が流行した当時、どうしてこんな奇病が発生したんだろうと思った物でした。ペットが病気に罹る世の中です。それで無くても非常に不自然環境の下で生活して居ますから、変な病気が次々に生まれても全く不思議では有りません。其の内に我が国にも発生するだろう・・・と思って居ました。其れが現実に成った今、連日、大騒ぎをして居ます。
 原因は肉骨粉に有ると報道されて居ます。今回、私は初めて肉骨粉と言う物の存在を知りましたが、大変驚き、非常に憤りを感じました。草食動物で有る牛に動物性飼料を与えて居た・・・・・・。しかも、共食いを強いて居たのです。其れは主に、市場に回らない解体部分をリサイクルさせる為だと考えられます。ゴミにするよりも、飼料として流通に乗せれば一石二鳥だと言う、人間サイドのエゴが見え見えです。
 非難は、此迄、欧州製肉骨粉の輸入を承認して来た厚生労働省へ主に向けられて居ます。輸入肉骨粉を使用しなければ、日本で狂牛病が発生しなかったかも知れないと思われて居る様ですが、果たしてそうでしょうか?国産の肉骨粉を使って居れば、「安全」なのでしょうか?日本人は、今の食生活を続けて居れば狂牛病に罹る確率は殆ど無いと言われて居ますが、果たしてそうでしょうか?厚生労働省だけに責任が有ると言うのでしょうか?我々一人一人の心に問題は無いのでしょうか?
 狂牛病を作り出したのは、人間自身の歪んだ心です。牛に其の様な奇病を流行らせた事に対して、申し訳無いと思わないのでしょうか?どうして、我が身の心配しかし無いのでしょうか?どうして、「安全に」「食べる」事にばかり焦点が行くのでしょうか?!其の上、どうして政府は、「もっと、牛肉を食べよう」と、デモンストレーションを行ってステーキ肉を頬張るのでしょうか???
 

 10月5日(金)
 確率 其の三
 
9月9日(日)から主人が一週間の夏休みを取りましたので、旅行を2つ入れました。9日から一泊二日で三重県は御在所岳に行き、10日に一度帰宅した後、11日(火)から二泊三日で愛知・岐阜と回る予定でした。でも、大型の台風11号が近付いて居るとの事。旅行前に過ぎ去ってくれる事を望んで居ましたが、来るのが随分とゆっくりで、中中やって来ません。完全に旅行中に遭いそうです。全行程車なので、山道が通れなく成るかも知れません。でも、そうなったらそうなったで仕方が無いなぁ。二人だけなので、波瀾万丈も面白いかも知れないと気楽に考えて居ました。

 10月3日(水)
 確率 其の二
 
今回もプロ野球の話題です。前回、近鉄が優勝したのは12年前だったのですが、其の時は、日本シリーズの相手チームは巨人でした。
 私の実家ではみんなが巨人ファンです。特に、父と妹が大の巨人ファンで、何時もテレビでナイター中継を見て居ます。そんな両親や妹に巨人の試合を見せてあげたくて、当時、私は仕事を休んで藤井寺球場へチケットを買いに行きました。日本シリーズは7試合が予定されて居ます。チケットの販売は、第1、第2、第6、第7試合目が藤井寺球場、第3、第4、第5試合目が東京ドームでしたが、7試合の中で先に4勝した方が日本一に成り、其の時点でシリーズは終了します。私は、第1か第2戦のチケットを購入するつもりで居ましたが、既に売り切れで、第7戦のしか買えませんでした。
 7試合まで縺れる事は滅多に有りませんし、其の上、初戦から行き成り巨人が3連敗しましたので、家族みんなで、「あ〜ぁ、払い戻しだろうな。見に行けないだろうな。」と言って、巨人の優勝どころか、観戦も諦めて居ました。でも、3連敗した後、巨人はなんと勝ち続けて遂に3連勝しました。「まさか?」と、信じられない毎日でした。そして、天候にも恵まれて爽やかな秋晴れの日曜日の午後、私達家族は、藤井寺球場まで念願の野球観戦に行きました。最終戦なので、此の日にどちらかの優勝が決まります。最高のシチュエーションでした。
 私は、一度は諦めて居た試合を見られると言うだけで、もう、朝から此の日の天気と同様に、勝負云々よりも爽やかな気持ちでした。父と妹は、巨人軍の半被を来て、帽子を被り、メガホンを持って、気合いが入って居ます。家族揃って野球場へ来るのは初めてです。みんながウキウキしてはしゃいで居る様子を見て居ると、私までとても楽しく成ります。来られるだけで、最高に幸せでした。此の日のチケットで良かった!
 試合の方は、勢いの有る巨人の圧勝で、最初から最後迄安心して見て居られました。妹は、特に中畑選手のファンだったのですが、此の日、中畑選手はホームランを打ち、此の日を最後に現役を引退されましたので、中畑選手の勇姿を最後に見る事が出来て、妹は大喜びでした。両親も、目の前で巨人の日本一の瞬間を見る事が出来て大変喜んで居ました。立ち上がって大声で声援を送って居る妹と両親の姿。巨人軍の選手の胴上げを見て居る時の、両親の感激した眼差し・・・・・・。私も、野球場へ足を運んだ事の無い両親に、最高の試合を見せてあげる事が出来て、本当に嬉しかったです。良かった!楽しい思い出です。
 此の様な展開は全く考えて居ませんでした。勿論、そう成って欲しいとは思って居ましたが、余りにもムシが良い出来過ぎの話しです。何にもしなくても最高の結果が転がり込んで来ました。私達にとっては、本当に運が良かったと思います。こんな奇跡も起きるんだな〜と、今考えても不思議です。私にとっては、数少ない親孝行の内の一つです。
 普段は野球には縁の無い私ですが、偶々、今回の近鉄の奇跡の優勝シーンを見て、12年前の事を思い出しました。何方の試合も、「0%では無い。未来は何が起こるか分からない。」と言う事を私に教えてくれました。今年も、近鉄の相手は巨人で有って欲しかったですが、どうやら違う様です。でも、たとえ巨人で有ったとしても、今年は是非近鉄に悲願の日本一に成って欲しいと思って居ます。未来予想に関して言えば、0%と言うのは有り得ない数字に思えます。

 10月2日(火)
 確率 其の一
 
プロ野球の大阪近鉄バッファローズがパリーグ優勝を飾りました!私は、普段は特に野球に興味を持って居る訳では有りませんし、プロ野球中継放送を見る事も有りませんが、近鉄の優勝には歓喜しました。
 大阪近鉄バッファローズの中村紀洋選手が、9月の或る日、附属池田小学校を訪問されました。池田市内の高校出身の中村選手が同小学校の児童の事を気に掛けて下さり、お忙しいスケジュール(ダブルヘッダーの合間)を調整されて、同小学校を訪問されたのでした。中村選手は、全教室を回り、子供達全員にサインやお人形をプレゼントされて、其の時に、大阪ドームの試合に御招待して、其の試合でホームランを打つ事を約束して下さいました。子供達は、中村選手と会えて大喜びだったそうです!

 8月31日(金)
 御加護 其の四
 
買い物をする時や旅行は勿論ですが、日常生活の些細な事に至るまで、私は殆ど全てを主人や義母の采配に任せて居ます。二人に従って居れば、何事もスムーズに展開する場合が多いので、二人の意見をほぼ実行する様にして居ます。

 8月9日(木)
 御加護 其の三
 
三年程前の或る夜、家族で県道を走行中の時の事です。其処は普段から屡々通って居ますが、走行中の車は可成りスピードを出しますし、アップダウンとカーブが続く為、少し恐い道です。

 8月8日(水)
 御加護 其の二
 
今日の出来事です。夕方、スーパーに買い物に行きました。空が怪しくて、夕立が来そうでしたが、濡れても構わないと思って傘を持たずに出掛けました。案の定、買い物を終えた頃には、外は真っ暗で雷が鳴り、バケツの水をひっくり返した様な凄い勢いで雨が降って来ました。夕立なので直ぐに止むだろうと思い、暫くの間は店内で時間を潰して居ましたが、小一時間経っても、未だ雨の勢いは衰えません。店内は私と同じ様に、傘を持って居無くて、出るに出られない人で一杯でした。もうそろそろ帰宅したく成った私は、雨が止む様に頭の中でイメージをしました。雨が止み掛けましたので、其の一瞬に、店を出ました。でも、歩いて居るウチに、再び、雨の勢いが強く成り、結局、ずぶ濡れに成りました。
 我が家の近くまで帰って来た所、どぶ川が溢れて道路を覆って居ました。我が家の前は、土地が低く成って居る為に、激しい雨が降り続くと、何時もどぶ川が溢れて道路が水没して仕舞います。今日もその状態でした。
 すると、向こうからやって来た車が、私の目の前で、溝にはまって仕舞いました。道路が水没して居たので、溝が見えなかった様で、左の前後のタイヤが溝に落ちて仕舞いました。運転されて居たのは、中年の女性の方で、一人の力では抜けるのは困難の様でした。其の時、現場に居たのは、其の女性ドライバーの方と私と、あともう一人、初老の男性の方が居ました。其の男性がドライバーの女性の代わりに車に乗り、ハンドルを切って溝から抜け出ようとしましたが、左側車体が完全に溝に落ちて居るので無理でした。男性は、「ジャッキが無いと無理やな。」と言って、何処かへ消えて仕舞いました。
 男性が居無く成ると同時に、若いサラリーマンの男性4人組みがやって来て、直ぐに手を貸してくれました。其のウチの一人が、ドライバーの女性の代わりに車に乗り、アクセルを踏んだ瞬間に、残りの男性達とドライバーの女性と私とで車を持ち上げました。凄い!!5人で持ち上げると車は上がります!アクセルを踏んで何度目かの挑戦で、車は溝から抜け上がる事が出来ました。
 車が溝に落ちた時は、人事とは思えませんでした。かといって、困ったとも感じませんでしたし、何故か、大丈夫だと言う予感が有りました。其れを実証するかの様に、4人連れの男性達の出現。其の男性達も、ごく自然な流れで手を貸してくれました。まるで其の様なシナリオが事前に与えられて居たかの様に・・・・・・。私が傘を持って居無くて、ずぶ濡れ、つまり、もう開き直った状態だった為に、家路を急ぐ必要が無かったので、私もごく自然にお手伝いに参加出来たのかも知れません。
 此の間、ほんの十分も経って居なかったと思います。段々、小雨に成り、車が溝から抜け出た時には、雨はすっかり止み、溢れて居たどぶ川の水がスーッと引いて行きました。水がみるみる減って行く様子を見て居ると、すごく不思議な気がしました。私の目の前で起こった一瞬の出来事。サラリーマンの4人組の男性達の連携プレイは自然で、とても見事でした。車が無事に上がると、何も無かったかの様に、女性が御礼を言う間も無く、其の場を去って行かれました。其の行為に凄く爽やかさを感じ、良い思いをさせて戴きました。こんな感動を私に与えてくれる為に、此の一連の出来事は用意されて居たのでしょうか。今日は、とっても心が温かく成りました。  

 8月6日(月)
 御加護 其の一
 
先日、主人とスーパーに買い物に行った時の事です。支払いを終えてお釣りを財布に終い、商品を買い物袋へ入れ、財布も其の中へ入れて、買い物袋は主人が持ってくれて家に帰りました。帰宅後、中から商品を全部取り出しましたが、財布が見当たりません。買い物袋から落とせば気付く筈でしょうし、スーパーで置き忘れて来たのかも知れないと思って、直ぐにスーパーに引き返しましたが、有りません。勿論、路上に落ちて居ないか見て回りましたが、見つかりませんでした。スーパーで置き忘れたか、若しくは何処かで落としたのでしょうが、見つからないと言う事は、誰かが持って行って仕舞った可能性が大きいと思い、警察へ届けました。警察の方は、「届けが有れば、御連絡をします。」と言って下さいましたが、此の時点では、見つからないだろうと思って諦めて居ました。
 翌朝、警察から、財布が見つかったと、電話が掛かって来ました。受け取りに行きましたが、本当に自分の財布でした。確認しましたが、お金やその他、中身に変化は有りませんでした。私には珍しく、2万円以上入れて居ましたが、変わって居ませんでした。拾得物届けを見ると、我が家の近くの路上に落ちて居た様です。拾った方とは、面識は有りませんが、我が家から遠く無い所に住んで居られる方で、私が落としたと思われる直後に拾って下さった様です。御礼に伺いましたが、男子高校生でした。拾った時、余りにも財布がパンパンに膨れて居た(レシートが沢山入ったままだった。)ので、「さぞかし大金が入って居るのだろう。落とした人は困って居るだろう。」と心配され、夜だったにも拘わらず、直ぐに近くの交番へ届けて下さったそうです。善良な方に拾って戴いて良かったです!

 7月20日(金)
 二年目に寄せて
 
一年前の今日、「ももっちの部屋」を開設致しました。PACO音痴な私は、hp開設、維持、更新に対して全く知識が無かったのですが、自分の生活の全てと成って居る正食、ビームライトの世界について自分なりに何か残したいとの思いが強く有りましたので、知識の無い儘、見切り発車をしました。知らない事だらけなので、当然の事ながら、一条先生には大変に甘えて仕舞いました。今、考えると、無知で大変無謀だった自分が恐ろしく思えます。

 7月14日(土)
 短冊 其の二十
 
当初、何も考えないで行動を起こして居ました。まとまった考え等有りませんし、自分が何が出来るかも分かりませんでした。ただ、何か手助けをしたいと言う気持ちの方が強くてじっとして居られなかった、見えない不思議な力に動かされて仕舞ったと言うのが実情です。其れは多くの級友達も同じです。

 7月13日(金)
 短冊 其の十九
 
事件当初、ニュースを見て居ると、まるで私は自分がすっかりその場に居合わせて居たかの様に同調して仕舞い、自分自身が彼の学校へ足を運ぶのが恐怖に感じられた時期が有りました。だから、校舎建て替えの案が持ち上がった時、「子供達は学校に来るのを恐怖に感じて居る事だろうから、建て替えは止む終えないのかな。」と、思って居ました。
 思い出の一杯詰まった校舎・・・・・・。本当の気持ちを言えば、建て替えて欲しくは有りません。今回、久し振りに母校を訪れて、中学校にくっ付く様に、寄り添う様に建って居る小学校の校舎を見て、有るべき場所に有るべき姿を確認出来た様で安心した物です。私は、其の小学校の出身では有りませんが、校舎が無くなって仕舞うのはとても残念です。まるで、母校の一部が消滅して仕舞うかの様な寂しさを感じます。ましてや、其の小学校を卒業した人達にとっては尚更だと思います。
 今、連絡を取り合って居る同期生達からは、其の小学校の時の思い出話がポロポロと出て来ます。何時、誰々と彼処の場所で何々をして遊んだ・・・・・・。私は、実際に小学校の敷地内に入った事は有りませんが、彼らの幼少の頃の思い出話をまるで自分の事の様に懐かしい気持ちで拝見して居ます。リアルにイメージが出来て仕舞います。
 現在の姿を留めた校舎を見続ける限り、「やはり、我々の故郷。守りたい。」と言う気持ちが湧き起こります。老朽化するに連れて修繕は必要です。或いは、将来は建て替えも止む終えないのも知れません。ただ、建て替えの理由が事件の為と言うので有れば、もし、新しい校舎が建てられたとしても、其の姿を見る度に余計に辛く成る事でしょう。難しい問題です。

 7月12日(木)
 短冊 其の十八
 
自分の同期生達、或いは其の知人や其のまた知人へと広げて行くと、事件に巻き込まれた御家族が複数居られます。実際に其の事件の場に居合わせた子供達からの目撃談を聞くと、此の場では表現出来ない位に惨い物です。小さな身体で私の想像を超えた重い体験をして仕舞った子供達・・・・・・。御家族の方の御心痛ぶりは痛々しい程です。実情を聞く度に新しい涙が誘われます。
 事件から一ヶ月以上が経過しました。此の間、何かが解決されたのでしょうか?心配に成ります。問題が大き過ぎる。其れも有ります。素人考えですが、大き過ぎる問題は、多人数で振り分ければ負担が軽く成ります。出来れば、適材適所に専門家が配置されて機能的に対処出来れば、関係者の方達の心体の負担は軽く成ると思われます。其の様なシステムが確立されて居れば・・・・・・。
 有り難い事に、OBのみならず多くの方達からの心配の声、支援をしたいと心を寄せて戴いて居る声が聞かれますが、此等を有効に機能させ得るシステムが確立出来れば良いのですが。 

 7月11日(水)
 短冊 其の十七
 
今、私は同期生達と連絡を取り合って居ますが、皆、其其とても心を痛めて居ます。
 或る同級生は、現在、在宅で通信教育の添削に携わって居るそうですが、先日、偶然にも、附高生の答案の添削を担当したそうです。その生徒の答案の感想欄には、「(附小生達の)叫び声が夢の中にも出て来る。でも、今は自分をしっかり持って、一番傷付いた小学生が憧れてくれる様な先輩に成りたい。頑張って勉強をして居ます。」と書かれて居たそうです。

 7月10日(火)
 短冊 其の十六
 
事件に巻き込まれたのは附属小学校です。でも、時間の経過と共に、サポートを必要として居るのは小学校のみならず、隣接して居る中学校、高校も同様なのだと言う事が分かって来ました。
 特に、中学校と小学校の校舎とは殆どくっ付いて居ます。事件の日、小学生達の叫び声が中学生達にも聞こえたそうです。附属中学校の生徒達の中には、附属小学校の卒業生が沢山居ます。その子達にとっては、ほんの数年前まで学んで居た教室での惨劇で有り、恩師の先生方が傷付いて居られる事を思うと、とても平静では居られない状態だと思います。七夕の日、私達は小学校へ向かってお祈りをしましたが、中学生の中には、心労で気分が悪く成り、参加出来ない子達が居ました。
 小学生のケアの必要性が叫ばれて居ますが、小学校のみならず根は深く、中学生達の心の状態が心配です。  

 7月9日(月)
 短冊 其の十五
 
七夕の行事が終了した後、同期生達と中学校を訪れました。私は、生徒達が帰った後の校舎の中を見て回りましたが、教室も全く当時のまま。机、椅子、用具入れ。何にも変わって居ません。感激したのは、一階の職員室から二階へと続く壁面に、創立五十周年記念の時に作られたと言う、「皐城七千人の顔」として、過去の全卒業生の顔写真が貼られて居た事です。其の中に、(勿論ですが)私の顔写真も有りました!見つけた時は、やっぱり嬉しい!!同期生達とキャーキャー言いながら、自分達の顔、他の人達の顔写真を見て楽しんで居ました。

 7月8日(日)
 短冊 其の十四
 
当初、OBの間で持ち上がった「七夕企画」ですが、附中生、附高生、OBが一緒に成ってお祈りをする事が出来、本当に嬉しく思いました。私自身は附小の出身では有りませんが、中学からの六年間、毎日通った校舎と隣接して居る小学校の生徒達は、私にとっても後輩同様に思えて仕舞います。小学校、中学校、高校は同じ敷地内に有る為に、一連の出来事は、池田キャンパス全体の問題として連帯感を持つ事が出来るのでしょう。実際、私の同期生達の中でも、附小の出身では無い方からも、「他人事とは思えない。」「何かをしたい。」と言って、支援の申し出を戴いて居ます。改めて、「自分はなんて素晴らしい人達に囲まれて居たんだろう。」と、人の温かさをしみじみと感じて居ます。

 7月7日(土)
 短冊 其の十三
 
聖士會館のトップページから「はじめに」に行くと、最近では七夕の音楽が流れて居ます。此の音楽は一際胸に響きます。七夕の音楽は良い曲だったんだなぁと感極まりながら聴いて居ます。
 天気予報では雨でしたが、朝から快晴でした。良かった!雨だったら、笹竹は体育館に置く予定でしたが、晴れたので、正門から校舎へと続くけやき坂の両側に立て掛けられました。OBの笹は、七夕に因んで七本有ります。OBの笹、附高生の笹、附中生の笹が多数、路の両側に続き、とっても綺麗です!
 OB、附高生、附中生達が其其小学校に向かって手を合わせ、其の後黙祷を捧げました。
 今回、お陰様で予想以上に沢山の方達が短冊に心を込めたメッセージを書いて下さり、私は其れ等に直接触れる事が出来、その度に胸が熱く成りました。今、此のけやき坂には、数えられない位の多くの人達の想いが並んで居ます。其の場に居合わせる事が出来た私は本当に幸せ者だと思います。今此処に並んで居る想いは、全て亡くなった子供達と附小生達に向けられた物です。
 小学校は現在閉鎖されて居ます。附小生達にも此の光景を是非見て貰いたかったです・・・・・・。笹竹は数日間展示された後、外された短冊は小学校へお渡しして戴ける事に成って居ます。多くの方達から戴いたメッセージ、想いが溢れて居る短冊を早く附小の子供達に触れて貰いたいです。 

 7月6日(金)
 短冊 其の十二
 
此の日は飾り付けを行う日です。私は、我が家に届けられた短冊を持って学校へ行きました。私は自分の同期生達の短冊を集めたのですが、其れ以外のOBの方達からの物は、学校へ既に届けられて居ました。それは、我が家に集まった数以上に沢山の短冊でした。
 此の日は、数人のOB達と一緒に飾り付けの作業を行いました。私の同期生達もお手伝いに来てくれました。とっても嬉しい!久し振りに会う同級生達。中には、子供を連れて来てくれた人も居ます。二十年ぶりに会う人も居ます。でも、やはり、昔の面影は残って居て、昔の名前で呼び合う事が出来るし、自分の心がすっかり童心に帰って居ます。学生時代の級友は有り難い物です。
 私の同期生達や年代を超えたOB達が集まって飾り付けの作業を行いました。笹に結び付ける時、一つ一つの短冊に書かれたメッセージに目を通しました。「こんなの読んで居たら涙が出るね。」と、皆が言って居ました。「星のように輝け、附小生。」「みんなに笑顔がもどりますように。」「つらいことにもまけないで、つよくやさしいひとになってね。」「おほしさまが、みんなのところへきてくれますように。」どれも後輩達に対する愛情に溢れて居ます。
 中には、亡くなった八人の子供達を象った手作りのお人形が有りました。其其の子供達の名前の下に、「お空の上で仲良くあそんでね。」とメッセージが書かれて居て、一際皆の涙を誘って居ました。其のお人形達は、お洋服も顔の表情もみんな違って居ます。でも、みんな可愛く笑って居ます。天気予報では、明日は雨。私達は、其のお人形が雨に濡れない様に、ビニールを被せて飾り付けました。
 飾り付け作業は終了しました。明日は七夕です。
 

 7月5日(木)
 短冊 其の十一
 
短冊を飾り付ける笹を刈る為に、久し振りに母校を訪ねました。卒業して一度だけ訪ねた事が有りますが、愛校心の薄かった自分は其れ以来です。矢張り、自分の学舎は良い物です。ほぼ二十年ぶりですが、気持ちがスーッと入って行けます。久し振りなので、有らゆる所を見て回りましたが、可笑しい位に全く変わって居ません。中学生の時、毎朝、直行した下駄箱、クラブ活動の後、顔を洗ったり水を飲んで居たウオータークーラー、変色した掲示板、高校時代に時々御世話に成った木造の食堂、何にも変わって居ません。二十年前の風景が今も其処に有ります。平和な心地良い感覚が胸の中に広がりました。
 なのに、あんな事件が起こって仕舞った・・・・・・。今回訪ねて見て、中学校と事件の有った小学校とは校舎が隣接して居る事実を改めて確認して愕然としました。隣接と言うよりは、殆どくっ付いて居ます。中学時代、同級生達は、中学校の校舎のベランダから小学校へ降り立って屡々遊びに行って居た物です。こんなに身近な場所で起きた悲惨な出来事に、現役の附中生達は可成り動揺して居るのも当然です。
 私は久し振りの母校なので、記念に写真を撮りたくてカメラを持って行って居ました。本当は、後輩達の見て居る前でシャッターを切ったりしたら、動揺を与えて仕舞うだろうと言う事は想像して居ました。でも、自分の願望を通して仕舞い、結局、校舎、グラウンド等あっちこっちの風景をパチパチと写真を撮りました。出来るだけ、中学生、高校生達には気付かれない様にはしましたが・・・・・・。でも、矢張り、私の行為は中学生達に動揺を与えた様です。中学校の先生が、私の元に確認に来ました。今の彼らは、カメラに対して大変に敏感に成って居ます。本当に可哀相な事をしたと反省をしました。
 

 7月4日(水)
 短冊 其の十
 
当初、私の頭の中では、集めた短冊の飾り付けは池田市内の公共施設を借りて行う事を想像して居ました。飾り付けた笹竹の保管等を考えると、隣接して居る附中か附高内の施設をお借りして作業が出来れば良いなと思って居ましたが、現役の学生達に迷惑は掛けられません。
 それが、附中、附高でも同じ様な企画を推進し、七夕の当日は、合同で笹竹が飾られる予定で有る事を知り、大変嬉しく成りました。私としては、可愛い後輩達と一緒に企画を推進出来る事はこの上ない喜びで有り、実は心の奥では切に願望して居た事でした。
 

 7月3日(火)
 短冊 其の九
 
当初、OBの間で持ち上がった七夕企画なので、OB間で計画を進めて来ましたが、附中、附高生達も同様に七夕企画を推進して居る事を知りました。事件に遭った附小(附属池田小学校)と、附中(附属池田中学校)、附高(附属高校池田校舎)は同じ敷地内に有り、校舎が隣接して居ます。我々OBが心を痛めて居るのと同様に、いえ、我々以上に、附中生、附高生達にとっても可愛い後輩達が悲惨な事件に巻き込まれた事で、大変なショックを受けて居る事は容易に想像が出来ます。
 小学校は、現在、学校が閉鎖されて居ますが、中学、高校はそうでは有りません。あの事件が起きた小学校の校舎を毎日見ながら通学をしなければ成らない附中生、附高生達。ヘリコプターの音を聞きながら、報道カメラが居並ぶ校門を潜って毎日通学をしなければならない彼らが可哀相で堪りません。
 でも、彼らなりに、附小生達に対して自分達が出来る事を行いたいと模索をして居ます。附高では、毎年七月初めに附高祭と言って学園祭が催されて来ましたが、今年は其れを中止して高校生間で七夕企画を推進し、附中生達も彼ら自身で短冊を募って居るそうです。
 附中生、附高生は私の可愛い後輩達でも有ります。彼らの心の痛み、健気に活動をして居る姿を思うと不憫で涙が溢れて来ます。

 7月2日(月)
 短冊 其の八
 
一人で何枚もの短冊を書いて送ってくれた人も居ます。中には、子供と一緒に作られたのでしょうか・・・・・・。子供の覚束無い文字で、「またいっしょにあそぼうね。」と書かれた物も有ります。添えられたお手紙には、「子供が作りました。意味不明な物で申し訳有りません。」と書かれて居ました。送って下さった物は、どれも大変有り難いです。どれにも等しく作られた方達の温かいお心が一杯に詰まって居り、受け取った私へ其の方達の御心痛と附小生達を想い遣るお気持ちが痛い位に伝わって来ます。
 私は、同期生達に依頼したのですが、中には、同期生以外の方からも賛同をして戴けました。此の企画を知った或る小学校の先生から、私の所へお電話が掛かって来ました。其の教師の方は、小学生の担任として人事とは思えない事、教え子達に短冊を書いて貰ったので、飾り付けをして欲しいと申し出て下さいました。そして、其の数日後、我が家へ其の小学生達からの沢山の短冊が届きました。「こわいのをわすれて、早く元気になってね。」「けがをした人、早く元気になってね。」「がんばれ。」「ファイト!」
 附小生を労る大人達の短冊には大きな愛情が感じられますが、純真な子供達が作った物もストレートに心に響きます。沢山の方達の溢れんばかりの愛情。其れを私は、連日、宅急便と共に受け取って居ます。受け取る毎に涙が溢れて来ます。私が受け取って仕舞って良かったのだろうか。本来なら、此の愛情溢れるメッセージを、附小生達に直接届けてあげる事が出来たら良かったのでは無いだろうか・・・・・・。 

 7月1日(日)
 短冊 其の七
 
私は、同期生達に短冊を募りました。七夕まで余り日が有りません。6日に飾り付けを行うとして、5日迄には我が家に到着の必要が有ります。名簿を見て依頼書を郵送しましたが、其れを見て賛同してくれた人達が送ってくれたとしてもギリギリです。
 でも、私の心配は外れ、期限が近付くに連れて、我が家には封筒が届き始めました。中にお手紙と共に、手作りの短冊が入れられて居ます。短冊は、其其皆違って居ます。一つとして同じ物は有りません。全て手作りです。色紙で作られた物、和紙を切ったり、画用紙やメモ帳の様な物に書かれて居たり、又、ポケモンやアンパンマン、ハムスター、キテイちゃん等の絵を象った物も有りました。そして、短冊に書かれたメッセージからは書かれた人の心が溢れる様に伝わって来ます。短冊だけでは無く、手作りの飾りを送って来てくれた方も居ました。皺に成らない様、潰れない様に、大切に箱に詰められて・・・・・・。
 七夕企画に携わって良かった・・・・・・。私は、恥ずかしながら、大人に成ってからは七夕のお祝いをした事が有りません。こんなにも短冊って温かい物だったんだと此の年齢に成って改めて感じました。 

 6月30日(土)
 短冊 其の六
 
卒業生の一人が、「七夕に小学校へ笹飾りを送ろう。」と提案しました。とっても素敵な案なので、是非、実現したいと思い、私は、自分の中でシュミレーションを立ててみました。自分が出来るとしたら、中学校、高校の同期生達に連絡を取り、短冊を集めて飾り付けのお手伝いに伺う事。其れに付随する様々な物の手配も考えてみました。計算上では可能です。でも、何かイマイチ心が重い・・・・・・。自分は何故此の企画を遣りたいと思うのか。何故そんなに焦って居るのか。自分の本心は何だろう・・・・・・。
 私は目を瞑って呼吸を整え、静かな呼吸と共に自分の内面を深く見つめて見ました。子供達に明るい場を提供して元気に成ってもらいたい、其れを行うには七夕は良い機会で有る事、そしてOBとして現在出来うるささやかな事だから絶対に実行したいし、其れが自分の義務で有ると思う心が見えて来ました。純粋な心に触れ、涙が溢れて来ました。だったら遣るべきだ。でも、未だ重い。私は、霊流を引いて、自分のシュミレーション以外の企画でも構わないから、全てがベストな状況に導かれる様にお願いしました。
 終わった直後、電話が鳴りました。私の友人からでした。彼女は池田校舎のOBでは有りませんが、高校教師をして居る彼女から良いアドバイスを得たいと思い、私は前から相談をして居ました。彼女には、池田校舎のOBで、現在、教師をして居られる親戚の方が居ます。そんな親戚の方が居られると言う事を、私はずうっと昔に聞いた事が有りましたが、すっかり忘れて居ました。彼女は其のOBの方と連絡を取ってくれて其の方とも相談をした後、夜遅かったにも拘わらず、私の事を心配して電話をして来てくれたのでした。矢張り、教師をして居るだけ有って、二人の意見は、「冷静に成りなさい。」との事でした。其のOBの方も母校の事なので、大変心を痛めて同期生同士で連絡を取っては居るが、冷静に見守る事も必要だとアドバイスをくれました。
 此の友人のアドバイスを聞き、私は全身から力が抜けた様にとても楽に成りました。自分は此のタイミングで此のアドバイスを待って居たのだと感じました。頭の中で考えた事以上に自分の深い内面は一番良い方法を知って居り、其処にアクセスすれば自然な流れでベストな方向へ導いてくれるのだと実感して居ます。
 七夕企画は動き出しました。結局、私が当初シュミレーションして居た物と大差は無いのですが、私が考えて居た以上に縦と横の繋がりに支えられ、大きな喜びを感じて居ます。もし、あの時自分が自分の内面を確かめる前に動き出して居たら、きっと何処かで壊れて居たかも知れません。結果として自分の取るべき行動に変化は無い物の、今、私の心の中には重さは全く有りません。きっと成功すると思います。 

 6月29日(金)
 短冊 其の五
 
其の小学校の卒業生の内の一人がWeb pageを立ち上げ、OB達に支援を呼びかけました。彼と私は中学一年生の時の同級生だと言う事も有り、益々人事だとは思えません。自分も何かしたいと言う気持ちで一杯に成りました。

 大阪教育大学教育学部附属池田キャンパス有志会 

 6月28日()
 短冊 其の四
 
六月八日、正午のニュースを見ようと思ってテレビを付けた私の目に、見慣れた校舎の映像が飛び込んで来ました。「あれ?あの学校で何が有ったんだろう・・・・・・。」小学校に刃物を持った男が乱入し、大変な事件に成って居る様でした。ニュースに釘付けに成り、その日は一日中テレビの前から離れられませんでした。時間の経過と共に最悪の状況が伝わって来ます。此が現実に起こって居る物だとは信じられませんでした。
 私には、同小学校出身の友人、知人が沢山居ます。そして、其の人達の多くは、現在、小学生の親に成って居ます。暫くの間連絡を取って居無かった友人の事を此の時直ぐに思い浮かべました。彼女にも小学校三年生と一年生の子供が居ます。池田市に隣接した地域に住んで居ます。「彼女の子供も、この小学校に通って居るかも知れない。」と心配に成って電話をした所、事件の有った学校には通って居ないとの事で、ホッとしました。でも、彼女は此処の小学校の卒業生です。「制服も校舎もあの頃と全然変わって居ないのに、なんでこんな酷い映像を見なければいけないのか。」と、とても嘆いて居ました。
 私にも他人事だとは全く思えません。自分の家族や身内以外の不幸で、此程迄に我が事の様に感じた悲しい出来事は有りません。友人、知人の母校で有り、自分にとっても母校同様に思って居る事と、社会に与えた反響の大きさ。此の日以来、色々な事を此の事件に置き換えて考えて仕舞い、夜、眠られなく成りました。
 子供達はどんなにか恐怖感を味わっただろうと思うと可哀相で堪りません。普段、自分は病院とは中中無縁ですが、今回は、現場に駆け付けた救命士の方達、池田市近辺の病院の医師、看護婦の方達の存在がとても神々しく思えました。此の方達が居てくれて良かった。感謝の気持ちで一杯です。反響が大きかった事も有って、現在、多くの人達が支援を申し出てくれて居ます。とても嬉しく思います。其の様な多くの人達の温かい想いで子供達の心を塗り替える事が出来れば良いのにと思います。魔法の様に全てを新しく変える事が出来れば良いのにと思います。 

 6月27日(水)
 短冊 其の三
 
私の通って居た中学校は、大阪の北摂地帯に有ります。丘陵地に成って居る為、大阪平野が一望出来、其の様子が校歌に歌われて居ます。
 
  

 6月26日(火)
 短冊 其の二
 
石舞台古墳、亀石と並んで、私の中での明日香村を象徴する物と言えば、甘樫丘です。「あまかしのおか」と言う音の響きが、とても不思議な安らぎを齎し、凄く懐かしい気持ちに成ります。甘樫丘は、矢張り昔、イマジネーションの世界での私の古里で有り、其の様な丘が本当に有るのだとしたら何時か訪れたいと強く思って居た為に特にロマンを感じて仕舞うのでしょうか。石舞台古墳、亀石は其れまでの遠足等で見学した事が有り、もはや何方も想像上の物では無く実在する物として受け止めて居ましたが、甘樫丘に対しては、大人に成ってからでも頭の中で強いイメージを抱いて居ました。
 
そんな伝説上の憧れの丘が、今の我が家から散歩で行ける所に実在して居るのだと知った時は不思議な感覚でした。自分の現実の生活に、過去のイマジネーションの世界が共存する。思い焦がれて来た丘だから、一度は登ってみたい。其処から見下ろす下界の景色が、昔、頭に思い描いて居た情景と果たして一致するのかどうか・・・・・・。
 希望に満ちて登ってみました。とても不思議な感覚でした。昔は、頂上からビルが見える事を想像しませんでしたが、今は、遠くにビル群やマンション等の現代の町並みが見えます。でも、麓の景色は、思い描いて居た物と大差は有りません。其れに、見下ろす事に成る大和三山が、雲の上にぽっかりと浮かんで居るみたいで、とても素敵です!昔思い描いて居た物を再びイメージしながら現実の目で見る風景。頭の中では、様々な時間が交差して懐かしい記憶が蘇って来ました。此の時、思わず私の口から出て来たのは中学校の時の校歌でした
 

 6月25日(月)
 短冊 其の一
 
明日香村・・・・・・私にとって、とても心休まる音の響きです。あ・す・か、と言う音を聞く度に胸がキュンとします。子供の頃、と言っても、多分、日本史の授業を受け出した小学校高学年の頃からでしょうか・・・・・・。あの頃は、感性、想像力共に今よりは豊かだったと思います。昔の時代の事を色々と学べる歴史の時間が面白く、授業の間中、まるで自分が古代にタイムスリップして、其の時代に身を置いて居るかの様な感覚に浸って居ました。山に囲まれた盆地に豊かな水田が見えます。懐かしい様な光景が頭の中に広がり、そんな歴史の授業はとても好きでした。
 其の明日香村へ私が初めて行ったのは、中学校一年生の遠足の時で、其の日は雨でした。初めて訪れる土地。でも、イマジネーションの世界では何度も訪れて居たからでしょうか。懐かしい様な、片思いをして居る様な切ない感覚が私の胸の中に有りました。雨の明日香村・・・・・・。其の時の印象が強かった為か、今でも私は、明日香村には雨が良く似合うと思って居ます。梅雨の時期、雨が水田を潤して居る風景を見ると、遠い昔にタイムスリップした様な、古里に居る様な、何とも安らかな気持ちに成ります。其の遠足で、初めて間近に見る奇異な石舞台古墳も印象的で、村を去り難い気持ちだった事を覚えて居ます。
 

 6月17日(日)
 焼き飯 其の五
 
私の心境の変化も有りました。以前なら、不調で有るにも拘わらず、食事に気を付けずにファーストフードのハンバーガーやその他、身体に良くない物を食べている姿を見ると、「益々、悪く成るよ〜。」と、私自身ガックリとし、やるせなく成ったり、イライラしたりした物でした。でも、今回は、要求する物は、何でも適えて上げたいと言う気持ちの方が勝り、かといって、症状の悪化を心配する気持ちも起こりません。不思議でした・・・・・・。甘い行動だったのかも知れませんが、冷静かつ平穏な気持ちで居られましたので、私自身がとても楽でした。
 熱が高い時はジュースで過ごして居たのですが、少し熱が下がって来ると、○○が食べたいと言い出します。今回は、近くの中華料理店の焼き飯と茹で卵が食べたいと言いました。どうせ焼き飯が食べたいのなら、「家で作るよ。」と言いましたが、お店の物が無性に食べたいのだそうです。主人は、「我が儘言ってゴメンね。」と謝りました。しんどいのに、休まずに仕事に行って居る主人に対しては、兎に角、労ってあげたい気持ちで一杯に成り、此の時は、「我が儘でも何でも言って頂戴!」と言う心境でした。

 「体調の悪い時は、特に食事に気を付けないといけない。」と言う事が頭の中に有りますので、今までは、私の片思いで対処する傾向に有りました。勿論、食事は大切なので、本来なら、身体に摂り入れる物で持って身体の修正を図って欲しいと願う気持ちは変わりませんが、主人自身を思い遣る気持ちの方がとても大切だと強く感じました。労りの気持ち、思い遣りの心を持って居れば、其れが即ち治って欲しいと願う心なので、良い方向へ向かうのではないか・・・・・・と思えます。

 私の平安な気持ちは、家の中の雰囲気にも良い影響を与えたのかも知れません。主人は、体調は良くないながらも安心感を持って過ごして居た様ですし、私自身を気遣う余裕も見せてくれました。私には、食事云々の事よりも尊く心休まる瞬間でした。お互いが心から幸せを感じた時、其れは身体の修復にも繋がる事だと思います。

 

 6月16日(土)
 焼き飯 其の四
 
此の一週間は、主人の発熱から始まりました。疲れ、睡眠不足が貯まって居た為か、先週の土曜日の晩に発熱。熱が高く、節々が痛いと訴え、翌日の日曜日は一日休息。不調だからと言って特に食事を気を付ける人では有りませんが、幸い、食欲が無いとの事だったので、食事を摂らず、手製ジュースを飲んで貰う。
 冷凍のバナナ、西瓜、豆乳、メロンや林檎等をミキサーで攪拌してジュースを作って何度か飲んで貰い、全身のマッサージを行う。主人のデータベースには、太陽のビームライトバーコードーを外し、月、解熱のビームライトバーコードを貼り付け、「高熱が下がります様にお願い致します。」と願望を書き込みました。私に出来る事は、此だけ。余りにも熱が高く、「しんどい。」と訴えた時には、灰色のビームライトカラーチップを肝臓、腎臓に貼って其の儘直ぐに就寝。お陰様で、其の直後は37℃を切る迄に下がりましたが、少しマシに成ると、食事、特に、こんな時に限って店屋物を欲しがります。近くの中華料理店で買って来た焼き飯と家で作った茹で卵を食べて貰いました。
 

 6月15日(金)
 焼き飯 其の三
 
主人が焼き飯を作るのがすっかり定着しました。休日のみならず、仕事が有る日でも、帰宅して直ぐに台所に立って自分で張り切って作って居ます。仕事の後で疲れて居るだろうから、「私が作るよ。」と言っても「僕が遣る!」と言って楽しそうに作って居ます。なんだか、微笑ましい姿です。
 最近は、オムレツも主人が作る様に成りました。オムレツは形を作るのが難しいです。私が細心の注意を払う料理の一つですが、主人は、ささっと手際良く、卵をふんわりと半熟状に綺麗な形に仕上げます。初めて作ったとはとても思えません!私が四苦八苦して作る料理なのに・・・・・・。感動します!調味も迷う事無く、塩だけで味付けをして、「美味しい!」と言って食べて居ます。味見をさせて貰いましたが、塩だけなので、素材の味が生きており、しかも、薄味で美味しい!主人は、濃い味の物や化学調味料に頼った味付けを好む物だとず〜っと思って居ましたが、こんなシンプルな味を好むなんて新たな発見でした。でも、私が作ると、見た目も味もイマイチに成って仕舞います。多分、主人が作る時は、油を多目に使用して居るから・・・・・・。私は、どうしても思い切った油の使い方が出来なくてケチって仕舞うので、卵がふんわりとせず、焼き飯の場合も御飯が鍋にくっ付いて、見た目が綺麗では有りません。
 

 5月20日(日)
 炒飯 其の二

 今まで、私は此程上手に炒飯を作れた事が有りません。実は、其の前日には私が作った物を主人が、「辛い。」と言って殆ど食べませんでした。主人はシンプルな味だと物足りないだろうし、インスタントの物を好む傾向に有りますので、私が主人の為に炒飯を作る時は、つい化学調味料に頼って仕舞い濃い味付けに成りがちで、茶色っぽく仕上がり、見た目も如何にも不味そうです。実際に私自身味見をしますが、御飯がベチャッとして居るし味は濃いし、「不味いな〜。」と思います。「炒飯は難しい・・・・・・。」と思って居たのですが、殆ど料理の経験が無い主人が、いとも簡単にササッと見事に作り上げたので感動して仕舞いました。しかもあっさり味でとても美味しい!主人は中華鍋のあおり方も見事でした。食後に、御飯の代わりにポケットテイッシュを使って鍋の振り方を主人に教えてもらいました。主人は、「美味しく作る骨は、化学調味料を極力控える事!」だと言います。何だか、私と主人、あべこべに成って仕舞いました。今日の昼食も主人は、「自分で作る。」と言って炒飯を作り始め、またまた、先週と同じ様に見事に作って仕舞いました。矢張り、あっさり味で美味しい!御飯の一粒一粒が潰れて居らず見た目にも綺麗に仕上がったので、写真を撮って仕舞いました。主人は何事も丁寧です。其の瞬間の事に100%向き合って真剣に取り組みます。洗車の時にも心がこもって居ます。愛車は何時もピカピカで、私には車が笑って居る様に見えます。一度だけ、夜の走行中にバッテリーが突然に切れて危ない体験をしましたが、其の時も考えられない様な偶然の導きに因り、お陰様で事故には至りませんでした。其れ以外は事故らしき事とは無縁で何時も快適なドライブが出来るのも、主人の心が車に通じて主人を守ってくれて居るのだと私は信じて居ます。何事にも丁寧に心を込めて、かつ何時も自然体の主人。炒飯の一件で主人を見直しました。今日は、私は主人の使った調味料の分量をしっかりと頭の中に入れましたので、「今度からは私も上手に出来るかな。」と期待して居ます。

 5月13日(日)

 炒飯 其の一

 今日の昼食、主人が焼き飯を食べたいとリクエストしてきました。白い御飯は炊きたてだったので、「炊きたてで柔らかいから、炒めると水っぽくっ成って美味しく仕上がらないよ。」と言いましたが、「じゃあ、僕が作る。」と言って台所へやって来ました。主人は、お茶やコーヒーも自分で入れない程、普段は料理は全くと言って良い程しませんので、私は出来上がりには期待して居らず、ただ本人の気が済めば其れで良いと思って居ました。具は私が刻み、鍋を良く熱してから炒め始める様にとだけアドバイスをしましたが、後の調理は全部本人に任せて、私は手も口も出さないで、ただ横で様子を見るだけにしました。主人は炒め始めましたが、調味料の分量も良く解って居無いので、案の定、始めの油を多目に入れて居ました。主人は、木箆を休み無く動かして炒め、途中からはリズムに合わせて中華鍋をしきりに振って中中楽しそうです。普段は料理などしませんが、どうやら本当は好きみたいです。始めは私も、上手く出来ないだろうと否定的な気持ちで見て居たのですが、御飯が空中を舞う度に具と良く馴染んで段々炒飯らしく成って来たので、「あれれ?」とビックリ!御飯がベタベタして居ませんし、艶が有って中中綺麗です。気が済むまで炒めた後、主人は調味料を加えて、一回の味見で納得をしたらしく火を止めました。色が薄くて見た目にも上品で本当に美味しそうに仕上がりました。レストランの物よりも美味しそうに見えたので、「へ〜。此だったらお金が取れるよ。」と私も思わず言いました。本人は最後まで真剣で、出来上がってからも、型に入れてからお皿に盛り付けると言う拘り様です。鍋にも焦げ付きが全く有りませんでした。主人はテーブルに運んで食べ始めましたが、直ぐに台所の私の所へ飛んで来て、「美味しいで!食べてみ。」と言って私に一口味見をさせてくれました。見た目同様に上品な味で、お店で出しても遜色が無い程に美味しく仕上がって居ました。「上手に出来たね。」と言うと、「美味しく食べたいと言う気持ちで作ったから。」とサラリと言います。料理中の主人は本当に真剣其の物でした。かといって眉間に皺を寄せて居るわけでも無く、自然体でにこやかでとても楽しそうでした。其の仕事ぶりは、愛車を洗車して居る時と同じ位に丁寧だった事に気付きました。

 4月29日(日)

 復興 其の十二

 震災直後は、余りの被害の大きさに今後はどうなって仕舞うのだろうかと思いました。一体、何からどう対処したら良いのか・・・・・・。絶望して何も行動を起こさなくても時間は経過して行きますが、人々は直ぐに現実を見つめ、廃墟から立ち上がる方を選択されました。復興に注がれたエネルギーは巨大な物だったと思います。彼から六年が過ぎ、完璧に復活し、より洗練されて再生した駅の姿を目の当たりにすると、どんな逆境に陥っても蘇ろうとする本能が我々には備わって居るのだと思えて感動します。生きて行くには辛い事も有ります。でも、神様は決して我々を見捨てない。自分で自分を見捨てる決定を下した瞬間、其れに応じた未来にアクセスして仕舞うのだと思います。余命一年だと言われても、其の時点では未来は決定して居ません。ターニングポイントに過ぎ無いと思います。其の診断が起爆剤と成って、修正の道を歩む方を選択すれば、過去を浄化出来、明るい未来が待って居る事でしょう。町の再生と身体の再生。共通して居るのは、蘇ろうとする意志と行動力。其れを見事に実現させ、新たに生まれ変わった町。復興に携わった方達全てに大きな拍手をお送りしたいと思います。

 4月28日(土)

 復興 其の十一

 幸い私の実家は震災の被害を受けませんでしたが、伊丹市内では被害の大きかった地区も有り、震災直後に里帰りをした時は、バスの窓からは壊れて傾いて居る家、既に新地に成った空間が点在し、青いビニールシートで覆われた家屋が並んで居り、想像を超えた被害の大きさに心が痛んだ物です。其れ等の壊れた民家も直ぐに新しい立派な家に建て替えられ、私や両親は、其の復興力の素晴らしさに感動して居ました。仮設住宅も姿を消し、現在では外観上で震災の爪痕を見る事は出来ません。伊丹駅も震災から三年後の平成十年に元の場所に新しい駅ビルが完成し、以前は二階建ての駅舎だったのが四階建てのビルに生まれ変わり、店舗も増え、活気が戻って来て其の当時は大変感動しました。駅は完成した物の、駅前広場は以前として工事中でバスの離発着場も仮設だったのですが、昨年の十一月に工事を終え、嘗ての様にターミナルステーションとしての機能を完備した新しい駅と成ってお目見えしました。其の姿を今回初めて私は目にし、言葉で言い表せない程大変感動しました。震災から五年十ヶ月を経てやっと完成した駅と駅前広場。幸い、私の頭の中には、倒壊して姿を消して仕舞った嘗ての駅と其の周辺の景色が今でも記憶に残って居ます。私にとって嘗ての駅は故郷其の物の様な大きな存在でしたが、新しい此の駅は復興のエネルギーの象徴で有り、昔の駅舎に対する物とは違った意味で、今回覚えた此の感動を今後も此の新しい駅を利用する度に持ち続ける事だと思います。

 参考:伊丹市ホームページー写真で見る被災から復興まで

 4月27日(金)

 復興 其の十

 今回、久し振りに電車を利用したのですが、長い間工事中だった阪急伊丹駅の駅前広場は工事が終わって見違える程立派に成って居ました。平成七年の阪神大震災で伊丹駅舎は店舗と共に崩壊し、其の間、元の場所から三百メートル程南下した所に仮の駅舎を造って運転して来ました。伊丹駅は全ての市内交通のターミナルで有り、伊丹市民にとっては重要な交通の拠点だと言う事以上に無くては成らない大きな存在でした。私も通学、通勤と長年利用して居ましたが、学校や仕事からの帰りに電車が終点の伊丹駅に到着すると、我が家に帰った様な安心感を覚えた物でした。駅ビルの中のお店で買い物を楽しんで居たのも懐かしい思い出です。結婚してからは、里帰りの度に、駅が見えて来ると故郷に帰って来た心地良さに包まれて居ました。其の駅が無く成って仕舞った時は、不便な事以上に胸にぽっかりと穴が空いた様な寂しさを感じた物でした。

 4月26日(木)

 復興 其の九 

 主人と一緒の場合は何時も車で実家へ行きますが、今回は私一人でしたので、久し振りに電車とバスを利用して里帰りをしました。実家へは頻繁に行く訳では有りませんので、何時も電車やバスの窓から景色を眺めて懐かしんで居ます。今回も、駅から市バスに乗り、最寄りのバス停までの道中の景色が又少し変わった様な気がしました。一昔前、私が未だ実家で暮らして居た当時は、道路の片側は田圃や畑が一面に広がって居ました。此の十年の間に少しずつ田圃が減り、マンション、ファミリーレストランや他のお店が段々増えて来て、里帰りの度に何処の国道沿いでも御馴染みのお店がずらりと並ぶ様に成り、どこでも見掛ける有り触れた景色に成って仕舞いました。そしてお店も、前回とは違った看板が掛けられて居る場合が有ります。余りにも建物が増えて、その中で模様替えが有ったとしても、「此の前に来た時は、此処は何だったか?」と思い出せなく成って居ます。私が子供の頃は田圃の畦道が通学路で有り、土の上を走り回って遊んで居た物です。開発は時代の流れですが、故郷から緑が減って行くのは寂しく思います。

 4月25日(水)

 復興 其の八

 叔母が、「ばあちゃんが、恵子ちゃんに宜しくって言って居たよ。」と伝えてくれました。現在九十歳の祖母は、足が弱って居る事を除けば元気です。元気な祖母と余命一年だと宣告された其の息子で有る叔父。つい、家族は永遠に自分の側に居てくれる物だと錯覚して仕舞いますが、人間はやがて誰でも死んで行きます。死んで行く時には其の人の人生が凝縮され、生き様が表れる様な気がします。人生に於いて努力した事は無駄には成りません。必ず行った行為に見合う結果と成って帰って来ます。其れは叔父に限らず、誰にとっても努力を怠れば其れ相応の結果と成って表れ、因果の法則は肉体が消滅した後へも作用します。命有る限り、精進する心と其れを実行する行動力は持ち続けて居たいと思います。其れが我々が生命を与えられた所以で有り、自ら放棄したくは有りません。どの人も日々の生活の中で其の人成りの最高の生き方、死に方を模索して居る事だと思います。人によって様々な心模様と多様な生き方が存在して居る此の限界の様子を、桜の花は咎める事無く優しく見守ってくれて居る様です。来年の桜が咲く頃、叔父の健在を喜び、再び、家族で桜の木の下で宴を持ちたいと思いました。

 4月19日(木)

 復興 其の七

 医師の予告通りの結果に終わったとしても、誰も不思議だとは思って居ません。医師が助からないと言えば、本人も周囲の者もそんなに簡単に諦められる物なのか。蘇ろうとする気持ちは沸き起こらないのか。残り僅かな命の宣告は、あくまでも其の時点での医師の判断に過ぎず、本人が病気の原因と成った過去を反省し、其の後をどの様に生きるかに因って変わって行く可能性が有ります。意識を変えれば未来が変わります。行動すれば夢が現実に成って来ます。一見、精力的で大変元気そうに見える人程癌に倒れる様に思えますが、病気に成る前の活力を思い出して、是非、復活する努力をして欲しいと思います。生き改める事は大変な努力を要しますが、其れまで精力的に仕事をこなして来た程の根性を持って居る人なら不可能では無いと思います。

 4月18日(水)

 復興 其の六

 本人も余命一年だと言う事を知って居ますし、元気な内に会っておこうと言う事で、母は九州の兄妹達を連れて此迄にも何度かお見舞いに行って居ます。様子を聞くと、「未だ、今の所は元気だから、時々外泊許可を貰って帰宅して居る。病院での食事だけだったら体力が付かないから、自宅に帰ってスタミナの有る物を食べて居る。」と言って居ます。スタミナの有る食物とは具体的に何かは分かりませんが、私は嫌な予感がします。抗ガン剤の投与を受けて居る叔父が食欲旺盛だとは思えませんが、だからこそ世間的な常識に従って、精力を付ける為に肉類や乳製品を摂る様に勧められて居るのかも知れません。身体にメスを入れると寿命を縮め兼ねませんので、手術が出来ない事は私には逆に幸運に思えますが、自分の命を人の手に委ねて何も改めず、病院のベッドで毎日を寝て過ごすだけだったら明るい未来は期待出来ません。余命一年と言うのは、其の病院で今のまま治療(?)を続ける限りは宣告通りの結果に終わるだろうと言う意味です。其れを聞き、人に自分の寿命を決められて、是非、奮起して欲しかったと思います。其れを不思議に思わず、薬剤投与、スタミナ(?)食の摂取に因って身体を更に歪ませて、正に今、叔父は医師の宣告通りの未来に導かれて居る様です。

 4月17日(火)

 復興 其の五

 九州から叔母達が出て来て居たのは、関東に住む叔父のお見舞いに母と一緒に行く為でした。叔父は、余命一年の末期癌だと診断されて今年の二月から入院して居ます。私は長い間会って居ませんが、入院直前に両親が会った時は何時もながら大変元気だったので、突然の宣告に信じられない様子です。唯、本人は体調が良く無い事を自覚して居り、検査をした所、一件目の病院では異常無しでしたが、其の結果に納得出来なかった叔父は、二件目の病院での検査で、癌の中でも発見が難しい難病で有る事、手術が出来なくて治療が困難なので余命一年だと言われたそうです。叔父は、母の兄妹の中では一番の働き者で元気な人でした。叔父がどの様な食生活をして居たのかは知りませんが、此の十年は単身赴任をして居ましたので、食事を含めた生活全体がバランスの取れた物では無かったのかも知れません。良く働き、兄妹の中では一番の成功を収め、今年定年なので余生をゆっくりと過ごすべく、最近、二軒目の家をより都心に近い所に現金で新築し、末娘を二月に嫁がせた矢先の発病で、新築の家に自分が住む事も無く入院したとの事です。改めて、真に元気な事と見せかけの元気との違いは此の様な結果と成って表れるのかと思いました。

 4月16日(月)

 復興 其の四

 私達は、1本の桜の木の下にビニールシートを敷き、持って来たお弁当を広げて戴きました。母のぼた餅はとっても美味しかったです!お店で買ったぼた餅はお菓子みたいに甘いのが多いのですが、母の作る物はほんのりとした甘さなので、ついドンドン手が伸びて仕舞います。結局私は四個食べました。餅米なので満腹に成りますが、其程胃に凭れません。「やっぱり手作りの物は優しくて良いな。」としみじみ思います。外で戴くと尚美味しい!父が、「こんな時は、握り飯が一番美味しい。」と言いました。本当にそうだと思います。ぼた餅も美味しかったですが、今度は是非御握りを食べたいと思いました。此の日は快晴でポカポカと温かく、お天気に恵まれ、最高のお花見日和でした。両親とお弁当持参でお花見をするなんて殆ど私の記憶に有りません。小さかった子供の頃以来の様な気がします。懐かしい様な温かさで胸が一杯に成りました。自分がずっと待ち望んで居た物を手に入れた様な幸せを感じて居ました。私達の隣でも矢張り親子連れがお花見を楽しんで居ます。若いお母さんが小さな子供にサンドイッチを食べさせて居ました。良い光景だなと思いました。其の子は此の日の出来事は忘れて仕舞うかも知れませんが、お母さんの温かさは胸の中に刻み込まれる事だと思います。やがて、大人に成って家庭を持ち、家族でお花見に出掛ける度にお母さんの温かさを思い出す事でしょう。桜の花を見て居ると美しいと思う気持ちの他に、切なさ、懐かしさ、ほっとする様な安心感等様々な思いが湧いてきます。此の花の美しさを誰かと一緒に味わいたい、繋がりたいと、桜の花の下では誰でも自然に素直に成れる様な気がします。此の幸せな気持ちを来年も再来年もずっと家族で味わいたいとしみじみ思いました。

 4月15日(日)

 復興 其の三

 平日の昼間でしたが、公園内は沢山の人で賑わって居ました。池の鳥を眺めて居る人達、風景を写生して居るグループ、普通に散歩を楽しんで居る人達、キャッチボールをしたりバドミントンをしたりと走り回って遊んで居る子供達や乳幼児を連れたお母さん達といつもながらの楽しい光景でした。以前は桜の木の下でドンチャン騒ぎをして居る人達が大勢居ましたので、今回もそうだろうと思って居ましたが、何処からも音楽は聞こえず、カラオケや酒盛りをして居る人達は誰も居らず、皆、お弁当を撮みながらおしゃべりを楽しんで居ました。私はそれとなくお花見をして居る人達のお弁当を見て回りましたが、サンドイッチ、御握りやお総菜が詰められたタッパが並んで居ました。公園内は出店禁止だと言う事も有って、其其のお宅から持ち寄って来たのだろうと思いました。とても素朴なお花見。露店が無いから家から持ち寄る。音楽やマイクの声が聞こえない、唯おしゃべりだけのアットホームな温かい集いに触れる事が出来て、「此の様なお花見って良いな。」としみじみ思いました。

 4月14日(土)

 復興 其の二

 昆陽池(こやいけ)は、伊丹市の中央よりやや北西部に位置し、奈良時代に僧行基が開拓したと伝えられて居る大きな溜池でしたが、今から三十年程前に一部埋め立てられて公園化され、多数の渡り鳥が越冬で飛来する様に成り、白鳥、黒鳥や鴨等を見に伊丹市民が集う憩いの場所と成って居ます。公園には沢山の木が植えられ、夏でも木立の中は涼しい程で、日頃から散歩をする人達も多いです。昔から私も桜を見に行ったり頻繁に遊んで居た場所で有り、今でも実家へ帰ると、何時も両親と一緒に昆陽池へ散歩に行くのが習慣に成って居ます。今の季節は桜が美しく、お花見の名所でも有りますので、毎年公園内の桜を見ながら散歩をする事を楽しみにして居ます。桜の木の下でバーベキューを楽しんで居る人達や、酒盛りをしたりカラオケで盛り上がって居るグループを「楽しそうだな。」と横目で見ながら今の季節ならではの雰囲気を味わい、ウキウキしながら散歩をして居た物です。今までは唯桜を見ながら通り抜けて居ただけでしたが、今年は伯母達や両親と一緒に私も桜の木の下でお弁当を戴きながらささやかなお花見が出来ると思うと気分が弾みました。

 4月13日(金)

 復興 其の一

 久し振りに一人で実家へ行って来ました。丁度、九州から母方の叔母が二人出て来て実家に滞在して居ました。叔母達に会うのは九年振りです。桜が満開でしたので、私は両親や叔母達と一緒にお花見に行きたいと思い、誘いました。私が来ると言うので、母は朝からぼた餅を作ってくれて居ました。最近は私が行くと、何時も手作りのぼた餅を用意して居てくれる様に成り、毎回ほんのりと甘い母のぼた餅を味わえるが私の楽しみに成って居ます。今回、私は桜の木の下で、「御数は要らないけど、御握りを食べたいな。」と思って居ました。今年は未だ御握り持参でお花見に行って居無かったので、「母の作った御握りを味わいながらお花見が出来たら最高だな。」と楽しみにして居ましたが、母はぼた餅を用意してくれて居ましたので、御握りは次ぎの機会に期待する事にして、今回は、あんこと黄粉のぼた餅と少量の佃煮、蜜柑、お茶、ビールとお摘みのあられや豆を持参して五人で歩いて伊丹市内の昆陽池公園(こやいけこうえん)へ行って来ました。

 

 4月9日(月)

 和太鼓 其の六

 主人は昼間色々な物を食べた為か、「胃の中がひっくり返って居る。」と言って其の日の晩は食欲が有りませんでしたので、私は御握りを握りました。主人は御握りが大好きなので、こんな場合に限らず、お弁当以外にも普段の食卓に我が家では御握りは頻繁に登場します。主人は小さな一口サイズの物を「食べ易い。」と言って好みますので、其の日も其れ位の大きさの鰹節入りの御握りを四個作りました。主人は御握りが好きでは有りますが、出掛ける際、「お弁当を作って行こうか。」と尋ねると、大抵「要らない。外で食べよう。」と言います。私を気遣ってくれて居ると言う事も有りますが、主人の実家ではお弁当持参で出掛ける事が殆ど無く、皆が外食党で有る事も関係して居るのかも知れません。私の母は昔から外で食べるのを好みませんでしたので、何時もお弁当とお茶と果物を持参して出掛けます。私はやっぱり今度は是非、母の様に御握り持参で出掛けたいと思いました。過去には何回かお弁当持参で主人と一緒にお花見に出掛けた事も有りました。山の中で食べるお弁当はとても美味しく、主人も「美味しい!」と言って御握りを頬張って居た楽しい思い出が有ります。今年も未だチャンスは有りそうです。今度は是非そうしようと思いました。

 4月8日(日)

 和太鼓 其の五

 川の横には大きな公園が有り、公園の中には櫓が有りました。丁度其の日、櫓で和太鼓の演奏会が催されて居ました。鉢巻きを締めたランニング姿の数人の若者達が、立て掛けられた大きな和太鼓を打って居ました。比較的大きな公園ですが、沢山の聴衆が集まり聴き入って居ました。私は和太鼓の生演奏を聴いたのは初めてです。前から一度聴いてみたいと思って居ましたが、実際に生で聴くと躍動感が素晴らしく、聴き入って仕舞いました。演奏をして居る若者達は、時には軽快に飛び跳ねながら笛を吹いたり、小脇に抱えた小さな太鼓を打ったりと元気を一杯ばらまいて居り、聴衆も拍手で応え、聴衆と演奏者との一体感も素晴らしかったです。若者達はとても楽しく心地良さそうでしたが、聴いて居た私も身体を動かしたく成り、実際、運動をした後の様な爽快感を得て居ました。和太鼓の音は身体の脈動と同調する様な不思議な響きが有ります。其の鼓動は自然に身体に溶け込んで来て、全ての細胞が活性化されて生体エネルギーが整えられて行く様でした。秩序正しく有るべき所に治まり、自然に元に戻った様なすっきりとした心地良さです。和太鼓は、元気が有り余って居る若者が演奏するのにぴったりだと思いました。彼らは、駅や道端でギターを手に歌う事を選ばずに、和太鼓や笛の様な日本の伝統的な楽器の方を選択しました。私が爽快感を得た以上に、演奏者達も十分に満足した様子で聴衆に深々と頭を下げ、手を振りながら走って櫓から消えて行きました。演奏をして居た茶髪、金髪の若者達に有り難うと言いたい気持ちで一杯でした。

 4月7日(土)

 和太鼓 其の四

 勿論、場所によっては静かに桜だけを見られる名所も有る事だと思います。決して露店の所為にする訳では有りませんが、結局、主人は其処で焼き肉、焼きそばとコンビニの御握りを二個食べました。露店で買ってその場で食べる。子供の頃のお祭りの雰囲気を味わう事が出来、楽しい一時では有りました。でも、今度は手作りの御握りを持参したお花見をしてみたいと思いました。ハイキングの時は余分な御数は要りません。私の母は御数を沢山作る人では有りませんでしたので、ハイキングの時は御握りと僅かな佃煮、漬け物と卵焼きか焼き鮭程度のお弁当だった物です。御握りだけを食べて居ても大変美味しく、心が満たさた記憶が有ります。御握りは今でも私にとっては最高のご馳走です。私は母の御握りが思い出され、急に食べたく成りました。

 4月6日(金)

 和太鼓 其の三

 一度何かを食べると弾みが付いて仕舞う事が良く有ります。主人は家を出る前にインスタントラーメンを食べただけなので御飯が欲しく成ったのか、続けてコンビニで御握りを二つ買って食べました。歩く先々には露店が並び、コンビニも有りますので、此の様な行き当たりばったりの摘み食いは気楽です。其処は両川岸に数qに渡って見事な桜並木です。川の縁ではバーベキューをして居る人達も居ましたが、殆どの人は露店の物を買って食べて居ました。コンビニも買い物客で賑わって居りお弁当やサンドイッチは殆ど売り切れ状態でした。買い物をすると塵が出ます。数カ所にごみ箱は有りましたが、溢れた塵と綺麗な桜とは不釣り合いな光景でした。人が集まる所には露店が出る事は仕方が無い事かも知れません。お花見の場所にも付き物なのかも知れませんが、ただ桜だけを眺めて居られたらどんなに落ち着く事だろうと思いました。今度は露店の看板を視界に入れず、お客を誘う呼び声や焼きそば、焼き鳥の匂い、自家発電機の音に邪魔されない所へ行って静かに桜を観賞したいと思いました。

 4月3日(火)

 和太鼓 其の二

 普段、自分が摘み食いをする事が如何に多いのか反省させられました。私の場合、空腹でも無いのに食べるのは気が緩んでいる証拠で、一度緩むとどんどん自分に甘く成って行く傾向に有ります。身体にとっても自然な行為では無いので、其れが続くと身体からの本当の声が聞こえなく成って来ます。写真は真実を写すと言われますが、其の時写真に写った自分の姿は、お団子の中身云々の所為と言うよりも輝きが無くだらけた雰囲気が漂って居ました。毎日、鏡で自分の顔を見る度に本来有るべき姿との隔たりを確認して反省して居ますが、肉眼で見て居ただけでは気付かない本当の姿を写真に因って知る事が出来ますので、私は時々自分の姿を写真で撮って見て改めて生活の見直しをする様にして居ます。

 4月2日(月)

 和太鼓 其の一

 日曜日、家で昼食を済ませた後、主人と一緒に近くへ桜の花を見に行って来ました。川に沿って桜並木が続き、ほぼ満開でとても綺麗でした。今年は桜の開花が早い様な気がします。沿道には露店が沢山出店して賑わって居ました。露店が出ると、子供の頃のお祭りの思い出と重成り心が弾みます。子供の頃は、買い食いが出来るのはお祭りの日だけでした。此の時ばかりはお行儀の悪さも無礼講で許して貰えますので、悪い事をして居る様なドキドキした気持ちで綿菓子を買って食べた物です。賑やかな雰囲気は大好きです。私は家を出る前に玄米御飯の御握りを食べて来て居り、お腹が空いて居た訳では有りませんでしたが、賑やかな雰囲気に誘われてお団子を買い、主人も焼き肉を買って川縁に座って食べました。私はお団子を食べて居る途中から顔が横に膨らみ、肌が重力の方向に重く垂れて来るのを感じ、瞼もとろんとして来ました。パンを食べたりすると顔が膨張する事が有りますが、顕著に膨らんで来たので、お団子に膨張剤が入って居たのかなと思いました。お腹が空いて居無いのに食い気に走って仕舞ったバチが当たった様です。桜を背景に写真を沢山撮りましたが、私の顔はどれも膨らんで眠そうな表情に写って仕舞ったのは残念です。

 

 

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最終更新日: 2006/12/29 金曜日