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特別史蹟・藤原宮跡 |
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所在地 |
橿原市高殿町を中心に1q四方に渡る。近鉄大阪線・耳成駅より南へ徒歩約20分。 |
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藤原宮・大極殿跡 |
持統天皇が律令国家の首都として造営した中国風の本格的な宮。藤原京は、684年前後から造り始め、694年に完成。710年に平城遷都される迄の16年間、持統、文武、元明天皇の三代の都と成りました。日本初の本格的条坊制の都で、東西2、1q、南北3、1qの範囲に内裏(天皇の住まい)、朝堂院(儀式の場)、大極殿(朝堂院の中心的建物で、政治を行う所)を含む宮城と、唐の長安に倣い、東西8防、南北12条の碁盤目状に区画した市街が造られました。京の東半分を左京、西半分を右京と呼んだのは、藤原京が最初です。其の所在地は長い間不明でしたが、1932年、日本古文化研究所の手に寄って発掘され、大極殿、朝堂院の位置と規模が明らかに成りました。1966年からは奈良教育委員会、1969年からは奈良国立文化財研究所が発掘を携わり、今日に至ります。木簡も多数見つかり、次第に藤原京の全容が明らかに成りつつ有りますが、発掘は今日も続けられて居ます。 |
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朱雀門跡地から大極殿方向を見て(正面は耳成山) |
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大極殿想像図 |
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内裏想像図 |
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朱雀門想像図 |
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藤原京の大きさ比較と位置的関係 |
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藤原京と平城京を比較して見ると、藤原宮は、一辺が約1q四方、面積が約100haで、甲子園球場の約25倍。藤原京の坊の一辺は約265m、平城京は、約530mで2倍の長さですが、京の大きさは3倍に成ります。左の図の、□が藤原京。其の真北へ延長した□が平城京。又、参考までに、右側の□は、唐の都・長安で、左側の□は江戸城で、其の大きさを比較して見ると面白いです。藤原京の東大路の真北は平城京の東大路に当たり、藤原京の西大路(現在の国道169号線)を真北へ行くと平城京の大極殿に当たり、此を折り返すと、平城京の全面積に成ります。藤原京は、日本初の碁盤目状の本格的都ですが、其れは、後の平城京から平安京へと受け継がれて行きました。左の図は、奈良国立文化財研究所・飛鳥藤原宮跡発掘調査部展示品より。 |
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藤原京・大極殿の真南には朱雀大路が敷かれましたが、其の更に南への延長線上には、菖蒲池古墳、天武・持統天皇陵、中尾山古墳、高松塚古墳、文武天皇陵等、飛鳥時代の重要な遺跡が並び、此は、『飛鳥の聖なるライン』と呼ばれて居ます。 |
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貴族の食事 |
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下級役人の食事 |
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庶民の食事 |
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参考:奈良国立文化財研究所・飛鳥藤原宮跡発掘調査部展示品 |
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【貴族の食事】主食は白米、若布の汁。真鯛、鮎の煮付けと、茹でた芹の付け合わせ。鰒のウニ和え。枝豆、瓜の粕漬け。デザートは、蘇(チーズ)、心太(寒天)、果物。果物。調味料は酢と塩。飲み物は清酒と、豪華な宴会スタイル。 |
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【下級役人の食事】主食は玄米、浅葱の味噌汁。鰯の煮付け、蕪の酢の物、胡瓜の塩漬け。調味料は塩。酒は粕酒。 |
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【庶民の食事】主食は玄米、荒布の汁。湯がいた青菜や山菜。調味料は塩。主食が1合以上有る(様に見える)のは、現代の様に、1日3食では無かったからでしょうか。 |
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出土した瓦 |
飛鳥時代の宮は、掘っ建て柱に茅葺き(飛鳥板葺宮からは、板葺き)でしたが、藤原宮では、礎石の上に柱を立て、本瓦葺きにすると言う初の本格的建築法を取り入れましたので、多くの木材、石を必要としました。其の様な建築法は、飛鳥寺を始めとする寺院では既に行われて居ましたが、宮の建築から京の造営では初の試みでした。木材は、近江の田上山から切り出した物を、宇治川、佐保川を経て飛鳥川へと運搬され、瓦を焼く瓦窯もフル回転の状態でした。又、都での労役には、地方の農民が単身赴任で借り出され、過酷な労働で行き倒れに成る人も多かったそうです。柿本人麻呂が、香具山の辺で行き倒れて居る役民を見て詠んだ歌です。「草枕 旅の宿に 誰が天か 国忘れたる 家持たまくに」 |
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奈良国立文化財研究所・飛鳥藤原宮跡発掘調査部 |
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所在地 |
橿原市木之本町。近鉄大阪線・耳成駅より南へ徒歩約20分。 |
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飛鳥・藤原地域の宮・京・寺院・古墳等の遺跡の発掘や出土した遺物(瓦・土器・木簡等)の調査・研究を行う庁舎で、ロビー・タイムトンネル・展示室・基準資料室・講堂が有り、構内の西南部が公開部分です。展示室では、遺跡をどの様に発掘して行くか、発掘した遺構・遺物をどの様に研究を進めて行くかを、遺物や模型、コンピューターグラフィクス等で説明して居ます。此の他に、収蔵庫、研究室、整理室等が有りますが、一般の方は入れません。調査部の敷地は、藤原京の左京六条三坊に当たる為、建設に先立って発掘調査を行いました。其の結果、京条坊の道路跡や京内宅地の様々な施設(建物、塀、井戸等)が発見され、其の一部が復元されて居ます。入館無料。 |
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重要伝統的建造物群保存地区・今井町 |
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所在地 |
橿原市今井町。橿原神宮外苑の北に隣接した地区。近鉄橿原線八木西口駅下車、西出口より徒歩3分。 |
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戦国時代に称念寺の寺内町として成立し、江戸時代には豪商が移り住み、商いで大変に栄えた町。東西約600m、南北約310mの周囲を環濠で囲まれた地区に有る約700軒の民家の内約500軒が江戸時代の面影を残す伝統的建築様式の建物で、その中で今でも生活を営んで居られます。狭い路地の要所を防備上屈折させた見通しのきかぬ町割は、中世末より近世初頭に掛けて形成された物で、その町並みが殆ど其の儘の状況で残り、現存する民家の多くは伝統的な様式を保ち、江戸時代の雰囲気が漂う町並みとして良く保存され、1993年、国の重要伝統的建物群保存地区の指定を受けました。1650年に建築された今西家を始め、国の重要文化財に指定された民家が8軒、県の重要文化財に指定された民家が2軒有る他、文化財上貴重な民家が多数残って居る歴史的市街地です。 |
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町の風景 |
趣の有る民家 |
豆腐屋さん |
町全体が、左の写真の様な景観です。真ん中の写真のお宅は、文化財の指定を受けて居ませんが、此の様な外観のお家が多数有ります。町の中には、豆腐屋さん、精肉店、ギャラリー、食事処等のお店が色々有りますが、どれも右の写真の様な外観に成って居ます。銀行や郵便局も同様な外観ですし、幼稚園、小学校や公共施設も漆喰の白壁に瓦葺きと言う統一された建築様式で建てられて居ます。 |
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今井町の地図。■が伝統的建造物。 |
復元された環濠。背後に見えるのは今西家。 |
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今井町の名は、1386年の興福寺一乗院の文書の中に興福寺の庄園、「今井の庄」として見えますが、今井町としては戦国の世の天文年間(1532年〜1555年)に寺内町として成立しました。寺内町とは、中世の終わり頃、浄土真宗本願寺派の寺院の境内地に築かれた集落の事で、寺院の周囲に堀を巡らせて土手を築いて居るのが特徴です。今井町では、本願寺の一家衆であった今井兵部が、称念寺を中心に浄土真宗布教の拠点として今井町の農民を門徒化し、各地から商人、浪人等を呼び集めて町割りを行い、四方に濠を張り巡らせて防備を固めて寺内町を形成しました。1570年、大阪石山本願寺は、織田信長に対して攻撃を開始します。今井でも武装都市化して参戦しますが、1575年、今井氏は、明智光秀を通じて信長に降服しました。其の後は、大阪や堺等とも交流が盛んに成り、商業都市としての変貌を遂げ、江戸時代には堺と並び自治的特権が認められて南大和最大の在郷町と成って大いに栄えました。 |
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寺内町形成の切っ掛けと成った称念寺 |
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江戸時代の今井は、郡山藩等を経て約180年間は天領下に有りましたが、自治の気風は強く、大幅な自治的特権が許されて居ました。裁判、諸公事等独自に町を運営し、税制面等経済的特権が認められた事から庶民が移り住む様に成りました。惣年寄、町年寄を置いて町政に当たり、今西、尾崎、上田氏の惣年寄が警察権の一部を握り、町人が町掟を定めて厳しい規制の基で社会のルールを作って居ました。称念寺を中心とした寺内町今井は完全な城塞都市で、江戸時代初期には、戸数千二百軒、人口四千数百人を擁する財力豊かな町に成りました。東西600m、南北310m、周囲には環濠土居を築いた町割は、西、南、東、北、新、今の六町に分かれ、9つの門からは木橋を通って濠を渡って外部の道路と連絡して居ます。内部の道路で見通しの効く物は無く、殆どが一度屈折させて居るのは、敵からの侵入に備えて、其の遠見、見通し、弓矢、鉄砲の射通しを不可能にする配慮が有った為です。此等は当初、軍事目的の為に造られた物ですが、江戸時代中頃は富裕な商人の生命、財産等を外部から守る事に成りました。 |
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町人で有りながら裃の着用を許可されて居ました。(山尾家保蔵) |
河合家保蔵の茶釜。大変に貴重な物だそうです。 |
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江戸時代の今井が高度な自治を推進する事が出来たのは、町民の富力が大きかった為です。近在の豪商が移り住み、有らゆる商売が行われましたが、中でも、繰綿、古手、木綿類を中心に大いに栄えました。1634年には、今井札の発行が許され、其の後両替商が発展し、大名にも金銀を貸す程に成りました。最盛期の今井の華やかさ、賑わい振りは、幾つかの俚謡、民謡からもうかがう事が出来ます。「大和の金は今井に七分」。当時の今井が豊かな財力を持って居た事を歌って居ます。「お峯山から今井を見れば、今井千軒お手の下」。畝傍山から見下ろした時の民家が建ち並ぶ風景の美しさを歌って居ます。町民は、町掟によって自らを規制し、特に火災については厳しい規定が設けられて居ました。窮屈な生活の中で、日待講、地蔵講等の宗教的行事は唯一の楽しみで有り、特に氏神の祭礼でのだんじりは豪壮な物でした。又、町衆文化として、茶道を始め、華道、能楽、琴、書道、和歌、俳諧等が盛んでした。 |
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