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 特別史蹟・藤原宮跡 
所在地  橿原市高殿町を中心に1q四方に渡る。近鉄大阪線・耳成駅より南へ徒歩約20分。
 藤原宮・大極殿跡  持統天皇が律令国家の首都として造営した中国風の本格的な宮。藤原京は、684年前後から造り始め、694年に完成。710年に平城遷都される迄の16年間、持統、文武、元明天皇の三代の都と成りました。日本初の本格的条坊制の都で、東西2、1q、南北3、1qの範囲に内裏(天皇の住まい)、朝堂院(儀式の場)、大極殿(朝堂院の中心的建物で、政治を行う所)を含む宮城と、唐の長安に倣い、東西8防、南北12条の碁盤目状に区画した市街が造られました。京の東半分を左京、西半分を右京と呼んだのは、藤原京が最初です。其の所在地は長い間不明でしたが、1932年、日本古文化研究所の手に寄って発掘され、大極殿朝堂院の位置と規模が明らかに成りました。1966年からは奈良教育委員会、1969年からは奈良国立文化財研究所が発掘を携わり、今日に至ります。木簡も多数見つかり、次第に藤原京の全容が明らかに成りつつ有りますが、発掘は今日も続けられて居ます。 
 朱雀門跡地から大極殿方向を見て(正面は耳成山)
 
 大極殿想像図
 内裏想像図
 朱雀門想像図
藤原京の大きさ比較と位置的関係
 藤原京平城京を比較して見ると、藤原宮は、一辺が約1q四方、面積が約100haで、甲子園球場の約25倍。藤原京の坊の一辺は約265m、平城京は、約530mで2倍の長さですが、京の大きさは3倍に成ります。左の図の、藤原京。其の真北へ延長した平城京。又、参考までに、右側のは、唐の都・長安で、左側のは江戸城で、其の大きさを比較して見ると面白いです。藤原京東大路の真北は平城京の東大路に当たり、藤原京西大路(現在の国道169号線)を真北へ行くと平城京の大極殿に当たり、此を折り返すと、平城京の全面積に成ります。藤原京は、日本初の碁盤目状の本格的都ですが、其れは、後の平城京から平安京へと受け継がれて行きました。左の図は、奈良国立文化財研究所・飛鳥藤原宮跡発掘調査部展示品より。
 藤原京大極殿の真南には朱雀大路が敷かれましたが、其の更に南への延長線上には、菖蒲池古墳天武・持統天皇陵中尾山古墳高松塚古墳文武天皇陵等、飛鳥時代の重要な遺跡が並び、此は、『飛鳥の聖なるライン』と呼ばれて居ます。
藤原京時代の食事
 貴族の食事
 下級役人の食事
 庶民の食事
参考:奈良国立文化財研究所・飛鳥藤原宮跡発掘調査部展示品
 【貴族の食事】主食は白米、若布の汁。真鯛、鮎の煮付けと、茹でた芹の付け合わせ。鰒のウニ和え。枝豆、瓜の粕漬け。デザートは、蘇(チーズ)、心太(寒天)、果物。果物。調味料は酢と塩。飲み物は清酒と、豪華な宴会スタイル。
 【下級役人の食事】主食は玄米、浅葱の味噌汁。鰯の煮付け、蕪の酢の物、胡瓜の塩漬け。調味料は塩。酒は粕酒。
 【庶民の食事】主食は玄米、荒布の汁。湯がいた青菜や山菜。調味料は塩。主食が1合以上有る(様に見える)のは、現代の様に、1日3食では無かったからでしょうか。
一大国家プロジェクト
 出土した瓦  飛鳥時代の宮は、掘っ建て柱に茅葺き(飛鳥板葺宮からは、板葺き)でしたが、藤原宮では、礎石の上に柱を立て、本瓦葺きにすると言う初の本格的建築法を取り入れましたので、多くの木材、石を必要としました。其の様な建築法は、飛鳥寺を始めとする寺院では既に行われて居ましたが、宮の建築から京の造営では初の試みでした。木材は、近江の田上山から切り出した物を、宇治川、佐保川を経て飛鳥川へと運搬され、瓦を焼く瓦窯もフル回転の状態でした。又、都での労役には、地方の農民が単身赴任で借り出され、過酷な労働で行き倒れに成る人も多かったそうです。柿本人麻呂が、香具山の辺で行き倒れて居る役民を見て詠んだ歌です。「草枕 旅の宿に 誰が天か 国忘れたる 家持たまくに」
 奈良国立文化財研究所・飛鳥藤原宮跡発掘調査部
所在地  橿原市木之本町。近鉄大阪線・耳成駅より南へ徒歩約20分。
 飛鳥・藤原地域の宮・京・寺院・古墳等の遺跡の発掘や出土した遺物(瓦・土器・木簡等)の調査・研究を行う庁舎で、ロビー・タイムトンネル・展示室・基準資料室・講堂が有り、構内の西南部が公開部分です。展示室では、遺跡をどの様に発掘して行くか、発掘した遺構・遺物をどの様に研究を進めて行くかを、遺物や模型、コンピューターグラフィクス等で説明して居ます。此の他に、収蔵庫、研究室、整理室等が有りますが、一般の方は入れません。調査部の敷地は、藤原京の左京六条三坊に当たる為、建設に先立って発掘調査を行いました。其の結果、京条坊の道路跡や京内宅地の様々な施設(建物、塀、井戸等)が発見され、其の一部が復元されて居ます。入館無料。
  重要伝統的建造物群保存地区・今井町
所在地  橿原市今井町。橿原神宮外苑の北に隣接した地区。近鉄橿原線八木西口駅下車、西出口より徒歩3分。
 戦国時代に称念寺寺内町として成立し、江戸時代には豪商が移り住み、商いで大変に栄えた町。東西約600m、南北約310mの周囲を環濠で囲まれた地区に有る約700軒の民家の内約500軒が江戸時代の面影を残す伝統的建築様式の建物で、その中で今でも生活を営んで居られます。狭い路地の要所を防備上屈折させた見通しのきかぬ町割は、中世末より近世初頭に掛けて形成された物で、その町並みが殆ど其の儘の状況で残り、現存する民家の多くは伝統的な様式を保ち、江戸時代の雰囲気が漂う町並みとして良く保存され、1993年、国の重要伝統的建物群保存地区の指定を受けました。1650年に建築された今西家を始め、国の重要文化財に指定された民家が8軒、県の重要文化財に指定された民家が2軒有る他、文化財上貴重な民家が多数残って居る歴史的市街地です。
 町の風景  趣の有る民家  豆腐屋さん  町全体が、左の写真の様な景観です。真ん中の写真のお宅は、文化財の指定を受けて居ませんが、此の様な外観のお家が多数有ります。町の中には、豆腐屋さん、精肉店、ギャラリー、食事処等のお店が色々有りますが、どれも右の写真の様な外観に成って居ます。銀行や郵便局も同様な外観ですし、幼稚園、小学校や公共施設も漆喰の白壁に瓦葺きと言う統一された建築様式で建てられて居ます。
 今井町の歴史と繁栄
 今井町の地図。が伝統的建造物。  復元された環濠。背後に見えるのは今西家。
 
 今井町の名は、1386年の興福寺一乗院の文書の中に興福寺の庄園、「今井の庄」として見えますが、今井町としては戦国の世の天文年間(1532年〜1555年)に寺内町として成立しました。寺内町とは、中世の終わり頃、浄土真宗本願寺派の寺院の境内地に築かれた集落の事で、寺院の周囲に堀を巡らせて土手を築いて居るのが特徴です。今井町では、本願寺の一家衆であった今井兵部が、称念寺を中心に浄土真宗布教の拠点として今井町の農民を門徒化し、各地から商人、浪人等を呼び集めて町割りを行い、四方に濠を張り巡らせて防備を固めて寺内町を形成しました。1570年、大阪石山本願寺は、織田信長に対して攻撃を開始します。今井でも武装都市化して参戦しますが、1575年、今井氏は、明智光秀を通じて信長に降服しました。其の後は、大阪や堺等とも交流が盛んに成り、商業都市としての変貌を遂げ、江戸時代には堺と並び自治的特権が認められて南大和最大の在郷町と成って大いに栄えました。
 寺内町形成の切っ掛けと成った称念寺
 
 江戸時代の今井は、郡山藩等を経て約180年間は天領下に有りましたが、自治の気風は強く、大幅な自治的特権が許されて居ました。裁判、諸公事等独自に町を運営し、税制面等経済的特権が認められた事から庶民が移り住む様に成りました。惣年寄、町年寄を置いて町政に当たり、今西尾崎上田氏の惣年寄が警察権の一部を握り、町人が町掟を定めて厳しい規制の基で社会のルールを作って居ました。称念寺を中心とした寺内町今井は完全な城塞都市で、江戸時代初期には、戸数千二百軒、人口四千数百人を擁する財力豊かな町に成りました。東西600m、南北310m、周囲には環濠土居を築いた町割は、西、南、東、北、新、今の六町に分かれ、9つの門からは木橋を通って濠を渡って外部の道路と連絡して居ます。内部の道路で見通しの効く物は無く、殆どが一度屈折させて居るのは、敵からの侵入に備えて、其の遠見、見通し、弓矢、鉄砲の射通しを不可能にする配慮が有った為です。此等は当初、軍事目的の為に造られた物ですが、江戸時代中頃は富裕な商人の生命、財産等を外部から守る事に成りました。
 町人で有りながら裃の着用を許可されて居ました。(山尾家保蔵)  河合家保蔵の茶釜。大変に貴重な物だそうです。
 
 江戸時代の今井が高度な自治を推進する事が出来たのは、町民の富力が大きかった為です。近在の豪商が移り住み、有らゆる商売が行われましたが、中でも、繰綿、古手、木綿類を中心に大いに栄えました。1634年には、今井札の発行が許され、其の後両替商が発展し、大名にも金銀を貸す程に成りました。最盛期の今井の華やかさ、賑わい振りは、幾つかの俚謡、民謡からもうかがう事が出来ます。「大和の金は今井に七分」。当時の今井が豊かな財力を持って居た事を歌って居ます。「お峯山から今井を見れば、今井千軒お手の下」畝傍山から見下ろした時の民家が建ち並ぶ風景の美しさを歌って居ます。町民は、町掟によって自らを規制し、特に火災については厳しい規定が設けられて居ました。窮屈な生活の中で、日待講、地蔵講等の宗教的行事は唯一の楽しみで有り、特に氏神の祭礼でのだんじりは豪壮な物でした。又、町衆文化として、茶道を始め、華道、能楽、琴、書道、和歌、俳諧等が盛んでした。
 旧常福寺観音堂  順明寺本堂  日蓮宗連妙寺
 今井町の重要建造物  
 個人宅の他にも、旧常福寺観音堂と表門、称念寺太鼓楼、庫裡、客殿と対面所、順明寺表門が橿原市指定の文化財として登録されて居ます。上の地図のが社寺、が国指定重要文化財が奈良県指定重要文化財の家です。重要文化財に指定されたお宅は見学をさせて戴けますが、個人の住居ですので、居住者の方の御都合により見学が出来ない場合も有ります。
 重要文化財・今西家  重要文化財・上田家
 今西家は、今井町で最も古い民家。1650年に建築された八棟造り、本瓦葺きの外観は、民家と言うよりも城郭を思わせる構造です。代々、今井町の惣年寄筆頭を務めた家系で、領主、代官の町方支配の一躍を担い、裁判権の一部が認められ、今西家の土間は、お白州も兼ねて居ました。見学は、4月15日〜5月14日迄の期間と、10月15日〜11月14日迄の期間の年2回のみです。
 上田家は、今西家尾崎家と並び、今井町惣年寄を勤めて居ました。1744年建築だとされて居ます。西に面して居るのは珍しいです。

 

 重要文化財・豊田家  重要文化財・中橋家  県指定文化財・吉村家
 豊田家は、大名貸しもした有力な商人でした。此の建物は、鬼瓦銘から1662年の建立が明らかで、今西家にも劣らぬ雄大な姿です。
 中橋家は、江戸時代は米屋でしたが、肥料、金物商も合わせて営んで居ました。此の住宅は、18世紀末の建設と見られます。
 吉村家は、肥料商を営んで居ました。母屋は1805年の再建と見られますが、他の建物は、母屋より約50年程遡る物と見られます。
 重要文化財・旧米谷家  旧米谷家の土間  旧米谷家の庭  金具商を営んで居た旧米谷家の建物は、18世紀中頃の建築だと推測されますが、裏庭に有る蔵前座敷を付属させた土蔵は、1849年に建てられた物です。現在、住人は居られませんので、此の建物は国の所有物と成って居ます。見学無料。月曜日は休館。
 県指定文化財・山尾家
 山尾家の外観  商談部屋  洋間
 母屋は18世紀後半の建築。元々は十市郡新堂村から近世初期に今井に移住し、1786年には肥料商を営んで居た記録が残って居ます。屋号を新堂屋と言います。大和の綿作は古い伝統を持ち、今井の近隣農村でも盛んに栽培されて居ました。綿作には、種粕、干鰯等の金肥を多く必要とし、新堂屋は其の肥料を近隣農村に供給する事によって富を蓄積し、其れを基盤にして金融業も併せ営んで居た様です。1788年、1838年の二度、幕府巡見使が山尾家に宿泊し、今井の町人層の中でも可成りの上層に位置して居ました。
 上の3枚の内、真ん中の写真の小部屋で大きな商談が成されたそうです。大人が直立すると頭が支える程に天井が低いのは、此の部屋で刀が抜けない様にと配慮されての事だそうです。右の写真の洋間の下には石蔵が有り、昔は金庫として使われて居たそうです。黒船が横浜港へ来た時には、此処から百両の寄付がされた程の大変な豪商で有ったそうです。
 三条実美、桂小五郎氏が泊まられた部屋と愛用品   
 山尾家は、江戸時代からの勅使旅宿館でも有りました。8代将軍吉宗(将軍在位1716年〜1745年)の時代、巡見使が泊まられた際に3間が増設されました。右の部屋がそうですが、二条城とほぼ同じ様式で造られて居り、1877年、明治天皇行幸の際は、勅使として、三条実美氏、桂小五郎(後の木戸孝允)氏も此の部屋に泊まられました。襖の絵は、狩野派の絵師が描かれた物です。三条実美氏、桂小五郎氏が泊まられた時の愛用品が残されて居ます。その他、江戸、明治時代の生活用具も博物館の様に多数展示されて居ました。
 重要文化財・高木家
 玄関外から見た高木家  江戸時代から使用されて居た生活用具、小物類
 
 引き出しの有る階段
 母屋の建設は19世紀前半頃と推定され、今井町で指定されて居る8軒の国の重要文化財の民家の中では、最も新しい建造物です。1877年、明治天皇が神武天皇陵御参拝の折りには、其の一行の方々が宿泊されたそうです。現在でも皇室の方々がご休憩に立ち寄られるとの事で、皇太子様が来られた時のお写真が飾って有りました。
 重要文化財・河合家
 玄関外から見た河合家  今でも偶に使われると言う竈  行楽の時のお菓子籠  竹を敷き詰めた天井
 
 今でもご健在の御祖母様が嫁入り時にお輿入れされた籠  一休さんの署名がされて居る掛け軸  18世紀後半に建築された様です。河合家では江戸時代から酒造業を営み、町内は勿論、南大和一円に供給され、高取城主へも献上されて居ました。今井町では数件の造り酒屋が有りましたが、今でも酒造業を営んで居られるのは河合家のみです。見学をさせて戴きましたが、とても丈夫な造りです。200年を経ても古さを全く感じさせない安心感を抱かせてくれるお家です。頑強な構造ながら、きめ細やかな飾り細工も施されて居り、現代では此程の技術を持ち合わせて居ないのではと思える程効率良く、美しく造られて居ます。矢張り、重大な商談がされて居たのでしょうか、入口も出口も無い部屋が有りました。「むしこ窓」を通じて部屋から外は見えますが、外から家の中が見えない様に成って居ます。此等の写真の他にも貴重な年代物の用具が多数有りました。歴代総理大臣が訪問されて居る様で、色紙が数多く有りました。
 撮影
 今井町では、昔ながらの町並みが保存されて居る為、映画、テレビのロケや写真撮影が時々行われて居ます。私が行った日も、雑誌の(?)モデルさんの写真撮影が行われて居ましたし、テレビの取材の方も来られて居ました。
 ダニエル・カールさん
 
 撮影スタッフとレポートをされて居るダニエル・カールさん
 
 今井町の町の取材をされて居るテレビ局のスタッフと、レポート役のタレント、ダニエル・カールさんです。此の模様は、『真珠の小箱』と言う番組の中で、「寺内町の今昔〜奈良・今井町」と言うタイトルで放送されます。近畿地方では、毎日放送(MBS、4ch)で6月16日(土)、朝9:45〜10:00。東海地方では、中部日本放送(CBC、5ch)で同日朝6:45〜7:00。関東地方では、東京放送(TBS、6ch)で6月17日(日)、朝6:15〜6:30に掛けて放映されます。私が見学をさせて戴いた河合家にも、此の日、取材班が訪れたそうです。映像で見てみるのが楽しみです!
 今井まちなみ交流センター・華甍(はないらか)
 此の建物は、1903年に建てられた奈良県最初の教育博物館です。昭和初期より今井町役場にも使用されて居ましたが、破損も甚だしく、1995年に部分修理を完了し、現在に至って居ます。奈良県指定文化財旧高市郡教育博物館でも有ります。伝統的な町並みを残す今井町に相応しく、和風の外観に仕上げた明治時代の建築物です。今井町の南東に有り、今井町の観光案内センターと成って居ます。今井町の歴史、現在の様子がパネル、模型で展示され、ビデオでも詳しく説明されて居ますので、今井町を見学される方は、先ず、此処で町の様子を事前にチェックしてから、観光されると良いです。地図付きパンフレットが無料配布されます。開館時間は、9:00〜17:00。入館無料。月曜日(月曜日が祝祭日の場合は翌日)休館。
  奈良県立橿原考古学研究所 
所在地  橿原市畝傍町。橿原神宮外苑の東側に有ります。近鉄橿原線畝傍御陵前(うねびごりょうまえ)駅下車、西出口より徒歩3分。西名阪郡山ICを下りて国道24号線を南下し、吉野、橿原方面へ車で約15分。    
 奈良県教育委員会に属する機関で有り、奈良県内の遺跡発掘と学術調査、研究を行って居ます。奈良県には国指定特別史跡が9件、国指定史跡が91件、県指定史跡が48件有りますが、現在調査中の主な遺跡として、飛鳥京跡と其の周辺の飛鳥京跡苑池遺構(高市郡明日香村)、藤ノ木古墳(生駒郡斑鳩町)、勝山古墳(桜井市)、四条遺跡(橿原市)、平城京(奈良市)等の他多数有ります。一階ロビーでは、出土品の内の一部が展示されて居ます。入館自由(無料)。二階は図書室に成って居り、貴重な蔵書、資料が置かれて居ます。借りる事は出来ませんが、閲覧は自由です。
 勝山古墳から出土した木片

 飛鳥京跡苑池遺構より出土した石造物

 現在、一階ロビーで公開展示されて居る勝山古墳から出土した木片と飛鳥京跡苑池遺構から出土した巨大な石造物。飛鳥京跡苑池遺構とは、飛鳥京跡から約100メートル北西で発見された、周囲に石積みの護岸が張り巡らされた人造池跡ですが、其処から大きな石造物が出土しました。勝山古墳から出土した木片は鑑定の結果、西暦211年頃迄に伐採された事が判明し、此の測定結果により、勝山古墳が現在確認されて居る古墳の中では日本最古の物だと言う事です。木片の公開展示は、6月4日(月)〜6月8日(金)迄の期間限定です。
 石造物の左の物は、高さ156p、最大幅123pで、上部には直径9p、奥行き99pの円孔が貫通して居り、水が注がれる様に成って居て、噴水の様にも見えます。右の石造物は、全長270p弱、幅200p弱、厚さ74pの水槽状に成って居り、底には水抜きの孔が開けられて居て、まるでお風呂の様に見えます。用途は明らかでは有りませんが、一帯は、斉明〜天武・持統天皇の時代(655年〜694年頃)の宮殿が有ったと考えられて居る為、池や石造物は其れに付属する施設だろうと思われます。飛鳥京跡の周辺からは、此迄にも水仕掛けに関連する様な石造物が出土して居ます。昨年出土して話題になった亀形石造物も此の付近から発見されたのでした。

  奈良県立橿原考古学研究所附属博物館
所在地  橿原市畝傍町。奈良県立橿原考古学研究所の斜め向かいに有ります。
 奈良県立橿原考古学研究所の附属博物館です。有料ゾーンと無料ゾーンが有り、有料展示室では奈良県内の遺跡からの出土品が多数展示されて居ます。古代から室町時代までの展示品が殆どですが、特に縄文、弥生、古墳時代と飛鳥時代の資料が豊富です。圧巻なのは、メスリ山古墳(桜井市)から出土した高さ2メートルの日本最大の巨大埴輪の陳列です。展示品の前ではボランテイアの方が説明をして下さいますし、ビデオで説明を聞きながら見て回れますので、時代背景を含めて解り易いです。無料ゾーンでも、ハイビジョンシアターや映像ライブラリー、情報コーナーなどで調査報告書や資料を自由に閲覧出来、其れ等をまとめたビデオも自由に見られますので、考古学ファンなら一日中時間の経つのも忘れて過ごせて仕舞う有り難い施設です。
 県立橿原公苑
所在地  橿原神宮外苑に接して居ます。近鉄橿原線橿原神宮前駅から畝傍御陵前駅にかけて続いて居ます。
 神宮外苑に沿って、ほぼ、同じ面積で続く大きな公苑です。中には、野球場、多目的広場、陸上競技場、体育館、武道館等を備えて居ます。体育館は、大相撲の巡業場所に使われます。野球場は、高校野球の地区予選の試合に使われます。我が家から近いので、地区予選大会の時は、声援が我が家まで聞こえます。又、周囲は緑が多くて、公苑の周囲を散歩するのが私は大好きです。公苑からは、畝傍山が見えます。ホッと和む風景です。
 県立橿原球場外観  外野席から見た風景  内野席から見た風景  智弁学園の監督のインタビュー
 此の日は、夏の全国高校野球奈良地区予選の決勝戦を観戦に行って来ました。片桐高校対智弁学園です。中盤までは接戦でしたが、終盤で、智弁学園が持ち前の強さを発揮して優勝しました。
 私は、片桐高校の外野席で観戦して居ましたので、隣には、片桐高校の応援の生徒さんが沢山居られました。敗戦が決まった時は、とても残念そうでしたが、直ぐに気持ちを切り替えて、教師と生徒が一斉に、塵を拾って外野席を綺麗にして居る姿に好感が持てました。又、表彰式では、片桐高校の生徒さんも、優勝した智弁学園に大きな拍手を送って居ました。とても良い試合を見させて戴きました。
 決勝戦が行われたのは、7月28日(土)。試合終了は午後4時でしたが、野球場にはトンボが沢山飛んで居ました。未だ未だ昼間は暑いですが、秋の気配を感じました。
 智弁学園には、8月8日(水)から始まる甲子園大会で頑張って欲しい物です。智弁学園は、大会3日目の8月10日(金)の第1試合で静岡代表の静岡市立高校と対戦する予定です。砂掛け爺様、お手柔らかに御願いします・・・・・・。
 橿原神宮
所在地  橿原市久米町。近鉄南大阪線橿原神宮前駅下車、北出口より徒歩3分。西名阪郡山ICを下りて国道24号線を南下し、吉野、橿原方面へ車で約15分。  
  祭神は神武天皇と皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)。神武天皇が天孫光臨の地日向を発し、橿原に皇居を営み日本建国の基礎を築かれたと言われる日本神話に基づき、明治23年4月2日に建てられました。耳成山香具山と共に大和三山の一つで有る畝傍山の周辺は、畝傍山特別保存地区に指定され、其の中には畝傍山の他に6つの神社、神武天皇御陵を始めとする4つの天皇陵、2つの古墳と共に橿原神宮が有ります。境内敷地50万u(15万余坪)の中には結婚式や各種祈祷を執り行う儀式殿、披露宴やパーテイが行える崇敬会館、研修や各種会合に使用されて居る橿原神宮会館等の公共施設が完備され、深田池や橿原森林公苑は近隣地の人々の憩いの場所に成って居ます。背後に見えるのは畝傍山です。
梅ぞの
所在地  橿原市久米町。久米町の交差点の西に隣接して居ます。近鉄南大阪線橿原神宮前駅下車、西出口より徒歩2分。
  美味しいお店 全国選抜TVチャンピオン和菓子職人選手権優勝」の垂れ幕が・・・・  此の日、店内で戴いた柏餅とぼた餅。  「TVチャンピオン、全国和菓子職人選手権大会」で、一昨年、昨年と優勝、準優勝の栄冠に輝いた他、多数のコンクールに於いても高く評価されて居る和菓子屋さんです。若くてハンサムな職人さんの作る和菓子は、見た目にも綺麗で上品なお味でとても美味しいです!店内は、いつも買い物客が絶えません。お買い上げのお客様には、お茶と和菓子を店内でサービスして戴けるのも嬉しいです。
久米寺
所在地  橿原市久米町。近鉄南大阪線の線路を挟んで橿原神宮外苑の南西に隣接して居ます。近鉄南大阪線橿原神宮前駅下車、西出口より徒歩3分。西名阪郡山ICを下りて国道24号線を南下し、吉野、橿原方面へ車で約15分。  
 西国薬師第七番霊場。807年、弘法大師が経王を講談して以来真言密教の寺と成って居ますが、創建は聖徳太子の弟だと言われて居ます。太子の弟が七歳の時に目の病に罹りましたが、薬師如来の願力を頼み完治した事から来目皇子(くめのおうじ)と名乗り、金堂、講堂、鐘楼、経蔵大門、五重塔等を造営したとの事です。又、吉野山龍門ヶ嶽にて神通飛行術を修得し、聖武天皇が東大寺(奈良市)に大仏を建立した際に、大木や大石を神通力を用いて運搬したと伝えられて居る久米仙人が、当寺に百数十年間寄住したとも言われて居ます。久米仙人自ら孟宗竹で箸を作り、其の箸を使うと中風、下の病に効果を得た事から現在でも遠来よりお参りされる方も居られます。久米仙人自作の像が金堂にお祭りされて居ます。又、718年、印度の伽佗国王、善無畏三蔵が来日の際、当寺に寄留し、日本で最初の高さ約11メートルの多宝塔を建立しました。現在の塔は、桃山時代に造られ、江戸時代に京都仁和寺より奈良時代の礎石の上に移築した物で、重要文化財。
 多宝塔

 久米寺の紫陽花

 我が家の近くなので、屡々散歩に立ち寄るお寺なのですが、此の様な古い歴史が有った事は今回初めて知りました。六世紀、仏教が百済より伝来した後、飛鳥地方では次々とお寺が建てられましたので、隣接して居る此の一帯にも程なく寺の建立と成ったのかも知れません。境内は静寂に包まれ、車や電車の音が絶えない付近の喧噪とは全く異質の空間で、とても落ち着きます。桜も綺麗ですが、境内には紫陽花園が有り、6月は美しい紫陽花で彩られます。
 

 

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最終更新日: 2006/12/29 金曜日