空手は手足を使って戦う格闘術です。然し、真の目的は「自分に打ち勝つ心を養う」事をもって「精神を培う」事です。厳しい稽古に因って肉体や技術が養われ、精神が鍛錬され最高の判断力が養われる精神修業なのです。修業では、技術の向上のみを追求しがちですが、其れは、精神修業の手段にしか過ぎません。精神と言うのは肉体を離れた所に有り心の行なのだから。
空手の稽古には、心の集中力が大切です。心が動くと言う事は感情が揺れ動いていると言う事で、盲目的な心は相手も周りの状況も見えていないと言う事です。心が通った心身一致の稽古をしなければ全く意味が有りません。
武道家として心を養うには、聞こえ無い音を感じる様に成らなければいけません。四方を敵に囲まれた時に背面に居る敵の心の動きを掴めなければ身を守る事が出来無い。一番大事な事は、常に背後を見る目を持つ事です。そして、相手の心を外面からでは無く内面からも観察出来る心の目を持たなければ、未来が見えません。そうなるには自分自身を悔い改めなければいけません。武道は自分の心を浄める悟りの道です。
自分の力に驕る事無く常に自分を磨く姿勢が自分を究めます。武道では「日々研鑽」と言います。気力の充実、強い意志、強い忍耐力、強い持久力が必要で、技術や判断力は此処から生まれて来ます。極めると言うのは膨大な稽古時間を費やし実践理論を確立しなければ成りません。だから武道と言うものは生涯に於いて追求するもので有り、生活の中に溶け込んで居無ければ成りません。
武道家は、修業の末、社会生活に於いて公明正大な生き方が出来、勇気と優しい心を手に入れ、自分の生き方に自信を持つ事が出来ます。そして、幸せは此の後から自然に付いて来るものです。
道場では「礼に始まり、礼に終わる。」其の、武道精神は守護神の元に人智の思いや計らいを超えた神と共に有る心の浄域なので有る。
肉体を鍛錬し、自己を超克して行き、奥源を極め、伝統技術の研究・鍛錬・工夫を行い、後世に磨き上げた心と技術を残して行く。
喧嘩に定まった構え等は無いが、自分の技を最大限に生かす為に、相手を惑わし自分の拍子に感応させる為の心構えに成る。其の様に戦いに望むには、心と姿勢を正し、相手の心と姿勢を崩し、其の隙に付け込むのが勝つ骨で有る。構えは其の行動の先手に合わせて、速攻、又は、受即速攻の姿勢で有り、其れは臨機応変に変化する。
闘いに臨めば、間合いが大切に成る。遠間は気力を充実させる時で有り、触間は息を詰めて気力を発揮する時で有り、交間は捨てる所で有る。相手が大きな拍子で攻めて来る時には小さな拍子で攻め、小さな拍子で攻めて来る時には大きな拍子で攻める。大小遅速の拍子は相手に合わすと相手の拍子に乗って仕舞い拍子抜けに成って仕舞う。相手の拍子を崩す事が勝利を収める骨で有る。更に修業して無形の拍子を身に付ける事が極めで有る。
力と言うものは「腰が入っていなければ成らない。」腰に力が入って居る攻撃は交わす事は出来無い。反対に腰に力が入っていない相手からの攻撃は肩で力を入れるから簡単に交わす事が出来るし、大きな打撃を被ら無い。肝腎要で有る腰がしっかりして居ると言うのは腸も臓器もしっかりして居ると言う事で有る。正しい食生活が如何に大切かと言う事で有る。武道は心と身体を作る。力は気海丹田から出る気合いを入れると加速する。力は胆力で有り、気は気海丹田で有る。力は気に因って操る事が出来る。其の気は呼吸に因って自在に操る事が出来るので有る。