霊線
 明るい霊界の住人に繋がる白い霊線と闇の霊界の住人に繋がる黒い霊線。
 誰しも白い霊線と黒い霊線が繋がって居ます。私達は見えない霊線に多くを操られて居ます。加護をして下さる白い霊線と黒い霊線。白い霊線の数が多く、先祖や守護霊の霊格が高く、先祖や守護霊を敬って居ると運命は好転します。反対に、黒い霊線の数が多く、先祖や守護霊の霊格が低いと運命は低下します。
 白い霊線を繋げて居る明るい霊界の住人の応援を求めるか、闇の霊界の住人の応援を求めるかの選択をするのは自身。
 貴方の幸せは私の幸せでも有ると言う考え方の隣人愛の情愛に満ち溢れた考えは白い霊線の加護を戴く。
 自分が幸せなら他人はどう成っても良い。他人の幸せをも手に入れたい。と言う考え方の自己愛に溺れた考えは黒い霊線に操られる。
 神様の芸術
 自然の美しさ、綺麗な花、緑の木々、動物達、山や川や海、綺麗な空・・・・・・此は神様の芸術。
 脳死に付いて
 脳死を人の死とする・・・・・・と言う考え方に成りつつ有る今日考えさせられる事が有ります。以前は心臓が停止して死亡と言う事で有ったのに・・・・・・。臓器移植を受ければ生存の希望が有る人には、脳死の人から臓器を戴ければ・・・・・・と考えるでしょう。然し、脳死に成った人の人権はどう成るのでしょうか?
 植物人間に成った人の肉体の中には魂(幽体)が存在して居ます。肉体部分が機能を停止しただけです。周りの事も全てが解って居ます。正し、生活機能は全て失って居ますから、返事等は一切出来ませんが、想い(テレパシー)では話が出来ます。
 脳死の人から臓器を取ると言う事は、言い換えれば、「死なす」と言う事に成ります。死とは、肉体から魂が離脱した時に宣告するのが正しいのです。
 死に付いて
 人の死ぬ瞬間を見ると言うのは、病人の看護で息を引き取る時の見取ると、事故で死ぬ瞬間を見るのでは私達の心の中で大きな変化が有ります。後者の事故で死ぬ瞬間を見ると言うのは心に重大な暗い陰を残します。本来人間界に生まれて「役」を果たすと言う事が達成出来無い可能性が有ります。ですから非常に恐怖心を味わいます。ですから、達成出来無く旅立つ人(魂)を見るのは悲しむ事なのかも知れません。此を感じるのは本能だと思います。「役」を達成出来て霊界に旅立つと言うのは寧ろ喜ぶべきで有ると思います。然し、其れに気付くだけの想いの食生活を送った人に限りだけかも知れませんが。
 霊的障害
 病院で幾ら検査しても原因が解ら無い。そんな病気が神霊治療では瞬時に治って仕舞う事が良く有ります。霊的憑依に因って起こる病気ならば神霊治療の独壇場です。憑依する霊は自分が苦しいから其の人に憑依したら苦しみが解消されるのでは無いだろうか?少しは楽に成るのでは無いだろうか?自分の苦しみを味わさせて遣る!・・・・・・此の様な思いで憑依現象を起こします。其の結果、其の人の魂が病に成り、続いて肉体が歪みます(病気)。神霊治療とは其の様な霊を瞬時に浄化し、肉体の歪みを正します。病気は浄霊の結果、其の副作用で治って仕舞います。然し、心に隙が有る人は、又、憑依現象を起こす場合が多いのは、真実を知ら無い事と、自分の心が神に向いて居無いからです。
 天上界、天界、民界、地獄、魔界と在る霊界の階層に、現界での想いと思いの生活が何処にチャンネルを合わせて居るかに因って、其の階層から霊的な二次的間接霊流を得て生活して居る私達の生活状態が変わります。要するに私達が生活して居るのは現界(現世=映し世)と言う偽りの世界ですから、霊界からの操りに因って生きて居る訳です。唯、選択出来るのは想いを天上界や天界に向けるか、思いを地獄魔界に向けて生活を送るかのチャンネルを合わせる事だけです。自分の幸せはみんなの幸せでも有ると言う隣人愛の情愛に満ち溢れた想いの生活を送られるか、自分の幸せは自分だけの物で有り他人の幸せを奪ってでも自分の物にしたいと言う自己愛に満ち溢れた思いの生活を送られるかの違いです。凡夫(欲にまみれた者)は思いの通り他人を苦しめてでも自分の物にしたいと言う欲望が強い為に、神に因って造られた地獄・魔界と言う空間に押し込められて仕舞います(此処で気付けば浄化される)。其の空間は唯一自己愛に満ち溢れた者の集まりですから、其れを映した凡夫に密接な関係に有ります。憑依現象とは此の様な関係の結果です。幽体と肉体の想いと思いが合わず、幽体が萎縮して仕舞い、肉体との隙間に低級霊・凶霊・悪霊が入り込み易い状態に成って居る。
 陰性体質や自律神経失調症、自己本位の人は霊的障害を受け易い。特に、陰性体質の人は、人格迄を支配されると言う現象を起こす人が居るが、其の様な人は憑依する霊に恐怖心を抱いて居る場合が多い。又、霊動現象や霊言現象等は、部分的意識で其の現象を観察して居る。 浄霊と神霊治療を受けると同時に食生活の指導を受けると事が非常に大切で有る。
 神に近付く
 霊界では、天上界に近付く程浄化(透明に成る)された幽体を持って居ます。其の幽体は天上界の中心に有る素神の光(霊界の太陽)を浸透、反射、屈折を行い有らゆる光を放ちます。光は集まると白光に成ります。神が白っぽい光に包まれて居るのは此の為です。霊界の太陽から発せられた白光が天界に居る神の身体を浸透、反射、屈折を行って放つ光は淡い白光に成ります。天界に有る植物の花の色を見ても皆淡い光を弾き出して居ます。神国日本の国の花も天界の最上階に有りますが淡い桜色です。私達の生活も淡い明るい色を身に付けるだけでも少し神に近付ける事に成ります。
 大霊界(全ての階層)で有っては成ら無い事は、殺める事(動物も植物も)、霊流(霊界の太陽から発せられる光と慈悲)を遮る事です。此の事を現界で実践し想いを神に近付けると言う事は生きながらにして神に成ると言う事です。
 神との交流
 素直で有れば誰でも神と交流出来ると「聖天仁大神」は言われます。自己浄霊を兼ねて神と交流する。何時も心は神を目指して・・・・・・と言う生活を行って居ると、運命はドンドン好転して行く。
 神は心の親様
 神の子で有る私等は、素直で真面目な生き方をして居れば、努力した者に与えられる物が有る。此は神の愛と慈悲(かわいがられると言う事)で有る。現世(うつしよ)に生きる私等は何時も神を現す生活を送ると総ての事に平安な生活を営む事が出来る。一時の安堵とは心を振り返る為に与えられた時間で有るが、又、唯一神の愛と慈悲の想いを感じる事が出来る時間でも有る。優しさとか、感謝、感動と言うのは其んな中から自然と生まれる物。又、大自然も神の愛と慈悲の想いに因って成り立って居る。結局自然に帰ると言う事は神の元へ帰ると言う事に成る。
 神とは心の中に有るもので有り、求め無ければ見え無い。燦然と輝く心の太陽で有る。其の光と温かさは総てを浄化し純粋な心に成る。又、懐かしさを感じる。神とは私等の心の親様で有る。
 心遣いと心尽くし
 心遣い(彼是と細かく気を配る事。)と心尽し(気を配り心を込めて計る事。)と言う気配りは、心(幽体)が肉体を越えて未来へ進んで居る人で有る。相手因りも未来に有る結果で有る。其の反対に心が肉体から遅れて過去に有る人(過去を呼び返して居る人)に周りの動きは解ら無い。
 心は、昔の思い出の中へも、遠くの地へも、未来へも時空を越えて駆け巡る事が出来る。正に、もう一人の自分で有る。
 心遣いとか心尽しと言うものは、相手とテレパシーで交通して居るから出来る事なので有る。然し、必ずしも神と交流して居る訳では無い。
 想いと思い
 素直な想いは、相手の胸に響く神の慈悲と愛情其の物と者。謙虚で礼節を持って敬いの気持が大切で有る。思いと言うのは、時に強大な力を発揮する事が有る。自分の子供とか親の身が危ない時に見え無い力が働き命を救ったりする場合が有る。此の様な思いとは神懸かりで有り、肉体を越えた魂の力で有る。頭脳が働いて無い時に起きる力で、好く馬鹿力と言うが、此の時は頭が馬鹿に成って居る。要するに必死の力の時も頭脳が働いて居無い魂の力で有る。此の様な事は誰しもが生涯には何度も経験して居る。然し、此が「神懸かり」なのか「悪魔懸かり」なのかの差は大きい。当然自分の思いの発動で有ると思っても、結局は霊界から操られて居る訳で有る。神は「嗚呼せい、乞うせい」とは言わ無い。「嗚呼せい、乞うせい」と言うのは欲で有る。欲にまみれた霊界の考え方で有る、地獄魔界と同じ思いをすると結局は空き有れば欲に因って命をも取られる事にも成る。尊い想いで神に想いが叶う結果は欲無しに成る。後は慈悲と愛情を与えられるだけ。神に想いを寄せ、叶えられた時の想いの力は無限に大きな得る物と者が有る。自分の欲を持った思いは「捨て」「去る」物と者が多い。
 心と声
 病床で終焉を迎え様として居る老人に、有る孫の声が掛かると意識がしっかりして来て返事をする。何と不思議な事だろう。家族、身内が集まり、一人一人手を握って声を掛ける。「おばあちゃんしっかりしてよ!」「頑張って元気に成って!」其の度に返事をして意識が少ししっかりする。「目を開けて見て!」と言うとうっすら目を開ける。輸血等を行って少し元気が出ると「彼の世を見た」とか言う。「彼の世千日この世一日」と言う諺が有る様に、家族、身内は「此の世の方が良いから、頑張らなきゃ駄目だ!」とか言って兎に角気付けと頑張る。今の私から見ると不思議な感じがする。私も何とかおばあちゃんには元気に成って欲しいと夜中中身体を交代でさすったりした。
 人間は建前と本音とは大きな違いが有る。此のおばあちゃんは、意識が無い時の譫言でも純粋な人なんだなーと思った。もう一つ世間を知ら無い。しかし、多くの人達、多くの無形の財産を残した。其れが私達には心に残る物が有る。又、周りに汚い利己主義の人達の、病床の前にて財産分けの金勘定をすると言う人達が居無い。 此が本来の得る物と者の結果で有ると思う。心が浄化された声は、相手に良く伝わるのだろうか?そして、良く受け取って貰えるのだろうか?
 人生に於いて、どんな役割を持って生まれて来たのか?そして、得た物は?此の事に気付いて終焉を迎えて、「惜しい人を亡くしましたね」と何時も語られる人に成ってみたいもので有る。
 見え無い物の存在
 見え無い物は計る事が出来無い。然し、現世は存在(実体と属性とに分れ、前者は基体・本体の様に其れ自体で独立に有るが、後者は前者に付帯して依存的に有る。又、実体には自然的・物的な物と、意識的な物更に超自然的で非感覚的な物とが有る。)を秤に掛けて物を評価する。だから、「見え無い物は認め無い」と言う人が居る。然し、「そんな気がする」とか「そんな気がした」、「雰囲気で感じる」、「殺気を感じる」、「色気を感じる」と言う言葉は良く耳にする。然し、唯物論者は(精神に対する物質の根源性を主張する立場。従って物質から離れた見え無い、触る事が出来無い霊魂・精神・意識を認めず、意識は高度に組織された物質(脳髄)の所産と考え、認識は客観的実在の脳髄に因る反映で有るとする。)「気のせいだよ」と言って否定するが、此処でも又「気」と言う言葉が使われて居る。要するに人間の思いの根底に始めから備わって居るので有る。確かに、脳の中の意識の存在でさえ測定する事が出来無い。見え無いからだ。人間の中枢で有る脳の中身を測定する事が出来無いと言う事で有る。脳の実容量は計る事は出来るが、精神や意識は計る事が出来無い。どれだけの容量が有るのか解ら無い。要するに見え無い物は計り知れ無い大きさ(無限)なので有る。
 触って感じる事が出来無い宇宙と言う物の存在は計る事が出来無い。空気は触れて居るのだが触れて居ると言う感覚は無い。唯、風に当たると間接的に存在を知る事は出来る。水は触れる事は出来るが掴む事が出来無い。土は触れる事も掴む事も出来るが直接空気や水の様に身体に取り込ま無い。空気が無ければ呼吸が出来無いし、空気や水や太陽の光が無ければ生命維持が出来無い。然し、土が無ければ物も者も育た無い。要するに単体では多くの力を発揮し無いが、全体として機能すると絶対的な力に成る。単体で有る水素爆弾を破裂させる因りも、地球の身震いで有る地震の方が力は比べ物に成ら無い程大きい。地面が震えると、海も、空気も揺れる。地球全体で揺れる訳で有る。地球の調子は大気、地気に因って知る事が出来る。宇宙を4面で現すと左右に分け左側は陰性、右側は陽性。陰側を天地で分けると天は、光、地は水。陽側を天地で分けると天は空気、地は土。4面全てが調和して宇宙と成る。要するに私達は全体に機能して居る宇宙の中に有る一つの部分で有るが、宇宙と調和し一体に成る為には部分の形はして居るが全体に機能して居なければ成ら無い。何が調和するのか?此は宇宙と交わる物が何かと言う事で有るが、実際に常に外界と調和して居るのは空気で有る。空気は大気で有り、地球の気で有り、地球は宇宙の一部分で有るから、大気は宇宙の気でも有る。そう考えると見える部分は見える物の通りの大きさで有るが、見え無い物で有る「気」は無限の大きさを持って居る訳で有る。地球にも地気と大気が有る様に、人体にも内気と外気が有る。内気は見える部分の大きさの気で有るし、外気は人体から外に在る気で有る。要するに見える物因りも見え無い物の方が大きい訳で有る。
 明暗
 明るさと暗さと言う意味で有るが、誰しもが多分には有る物で有る。頭脳と肉体、そして幽体(魂)。其其がバラバラに分離してしまうと自分を見失ってしまう事に成る。其の原因は、自分が描く夢と現実が余りにも食い違い過ぎる為に失望してしまうと、心は奈落の底に落ちてしまい、其処で自分自信を見つめ直す(反省)事が出来無い人(自律神経失調)は自分を見失ってしまう。不安感、不信感そんな物が何時も付きまとって居る。そして、どんどん不安に成る。もう、どん底から這い上がる方法さえも模索しないで、全てを放棄する人も居る。其の様な人はいきなり精神病に成ってしまう。模索しても這い上がる方法が見つからず路頭に迷って力尽きる人は、心(魂)は暗く(鬱)消滅する方向に向かって行く。他人が自分が信じられ無く成って行くのは幽体(魂)と頭脳と肉体が分離し始めて居る状態で有り、完全体では無い為に、正常な判断が出来無く成った状態で有り、又、自分が解ら無いから人を頼り、自分を見失いそうに成るから人を引き付け自分の存在を訴え自分を確認し、幽体(魂)と頭脳肉体を一つの物(完全体)に成ろうと言う手段を取る。しかし、何時迄も「自分が中心」で有ると言う虚空の願望を周りが同調する事は無い。人が集まって来ると英雄に成り、人が離れて行くと悲劇の英雄に成り、と自分を表面に出し存在を確認し夢を見ようとする。しかし、虚しい思いは空回りを続けるだけで有る。何時しか人が離れて行ってしまうと全てを見失ってしまい、心(幽体)は空っぽに成ってしまう。此は、幽体(魂)が頭脳と肉体嫌ってしまい肉体を離れ様として居るので有る。英雄を目指し夢に生きる積もりが何時の間にか、何も無く成って消滅してしまう。心の持ち方だけで自然に人が寄って来る明るい人生を送る事が出来るのに、些細な努力を怠った為に暗い人生を選んでしまう。此も其の人の人生で有り、性格其の者で有る。明るさ暗さは心の炎の大きさの事で有り、其の心の炎は自分で灯すもので有る。
 思い出
 時に、心に浸みる様な音楽を聞いて居ると、心にジーンと込み上げて来る物が有る。良き思い出とは心を一番素直に、そして、綺麗(浄化)にしてくれる一時で有る。時間を超越して故郷を懐かしみ恋しがる事等の思いが巡って、心の夢の旅はどんどん広がって時間と距離を超越して行く。思い出とは自分の胸に 仕舞って於く物で有るが、時として胸の中で思い出の旅に胸を膨らまして見るのも無限に広い大宇宙、大霊界を旅して居るそんな錯覚をして仕舞うが、本来の心の世界は大宇宙、大霊界其の物で有り、楽しい思い出の旅は、神の世界を垣間見るそんな旅で有る。子供の見る夢は何を見て居るのだろう?なんて思うが、心が綺麗で純粋な子供達は何時も神の世界を旅して居るのだろう。矢張り心が綺麗と言う事は神に近いと言う事で有る。心の歪みが病気で有るが、歪みの無い子供の寝顔は可愛い物だ。そんな、子供達の思い出とは、神の世界の事で有ろうか?
 愚か者
 何時も自分の利益ばかりを考え、周りが見えず、現在の欲の侭に生きる。目先の欲に捕われ、他を知ら無いし、知ろう共し無い。些細な事で間違いを繰り返す。生涯に於いて嫌われる。自分は偉いと思って居るが、実は、馬鹿で有る。知能の働きが鈍く、其れが故に失敗が多く、後に何も残ら無い人の事で有る。
 結局、偏りで有り、食み出し者で有る。
 生きる
 人は生きると言う事に執着を持って居る。人生に大きな目標を持ち達成されて居無い時に不治の病に陥った時等は、特に其うで有る。
 「心の歪→生理的な歪→病気(結果)」と成る訳だが結果だけ追い求める人生を送る人は、結局総てを失う。
 癌患者を診ると、我が侭が極まって居る。此の我が侭と言う大欲を捨て切る事が出来ると「心の歪→生理的な歪→病気(結果)」と言う事が解って来る。後は、大宇宙の秩序を学ぶだけで有る。其して心の「親様」に感謝し、其の心を自分に止めずに周りの物に分け与える事が大切で有る。流れが止まる(滞る)事、其れが歪の元で有る。自分の運命は「親様」に操られて居る。現世の仮の姿は「自然に生きる」事で有る。
 喜怒哀楽
 沈んで居る時に楽しい知らせが有ったりすると一変に明るく成ったりする。此の様に人間は其の時々に色々な感情を露にする。其れは話し方に出る人、顔に出る人、態度に出る人等様々で有る。
 此は動物でも植物でも感情表現は見られる。庭の露草に向かって水を遣りながら朝の挨拶言葉を怒鳴ると昼には萎えるが、優しく話し掛けると色艶を増す。植物には動物の様に脳・神経・血管・・・・・・と言った物が無いから感情表現は有り得無いと思うのだが・・・・・・?しかし、結果は感情表現を行って居る・・・・・・?と言う事は、感情とは肉体の部分の脳で表して居るのでは無く、心(幽体)の発動なのだなと思える。
 生活の中で見え無い物に支配されて居る部分が多いと思う。何でも「理論理屈だ!」では表せ無い部分に支配された生活を送って居る。
 目に見え無い電波や電磁波は、頭の学問知恵の産物で出来た物で半分は頭で支配出来るが、後半分は解ら無いと言うのが現状です。結局見え無い物が沢山有る。科学の産物で有る感情の無い電波因りも、人間から植物、植物から植物、植物から人間へ移動する感情と言うテレパシーの方が効果率は大きいかも知れ無い。理性エネルギー因りも感情エネルギーの方が肉体表面に出て来るならば、力は大きいのかも知れ無い。
 努力した者に与えられる物
 神は神に近付く努力した者に対して、其の結果に応じて其れ相応の慈悲と加護を与える。努力した者に与えられる物なので有る。
 天界や民界では、太陽から受ける直接霊流に因って生命維持をし、「光と馨と音楽」に因って浄化されて行く。神の家の庭で生活を送り、自由で歓喜に満ち溢れた光輝く楽園なので有る。
 地獄魔界では、悪想念が雲を作り太陽を遮り暗闇の世界で有り、霊人は自分の利益のみを追求して居るので神に近付く霊人を妬み、恨み、自分の苦しみから少しでも逃れ様と、自分が其の楽園の生活を努力もせずに手に入れ様と考え、其の霊格をどんな手段を使ってでも奪おうとする。又、其れが叶わ無い場合には、欲にまみれ、他の霊人から受ける暴力、誹謗、中傷、悪想念が渦巻いた苦しい世界に引きずり込み、其の苦しさを自分だけでは無く少しでも多くの人に味わえさせて遣ろう、現状の生活を少しでも逃れ様とする。
 天界の霊人は「隣人愛の情愛に満ち溢れた想いの生活」を送る。又、民界では同じ想い(思い)をした霊人が集まる集落を作り、天界に近付く生活を送る。当然此処でも「隣人愛の情愛に満ち溢れた想いの生活を送って居る。地獄魔界の霊人は「自己愛に満ち溢れた思いの生活」を送る。
 霊界を写した現界でも同じ事が起こる。凡夫とは、「欲にまみれた者」で有るが、凡夫の条件で有る「地位と名誉と金」が全てでは無いと気付く事に因って神に近付く想いが高まる。妬みとか恨みとかの加念とかも無く成って行く。生涯に於いて気付か無くては成ら無い大事な事で有る。其れ故に得る(悟る)者と物が有る。
 「隣人愛の情愛に満ち溢れた生活」とは皆仲良く生活を送る事なので有る。「自分の幸せは皆の幸せで有り、皆の幸せは自分の幸せでも有る」と言う事で有る。
 生命
 地球上に未だ何も無い時代は、大宇宙のエネルギーと大地のエネルギーだけで有った。神は、大地に一番始めに植物を作り、其の植物を食べる動物を作り、最後に人間を作った。
 植物のクロロフィルが吸収した太陽の光エネルギーを化学エネルギーに換え、水と空気中の二酸化炭素を取り込んで糖類を増やす光合成サイクルは、植物、詰まり、有機体の力です。人間を含めて全ての動物が、其の植物に因って栄養を摂取する事が出来る。
 基本的栄養素は、ビタミン、ミネラル、脂肪、糖分、蛋白質等です。そして、人間には、鉄分、燐、マグネシウム、カルシウム、珪素、硫黄等80種以上のミネラル成分が必要です。人間にとって必要なミネラルを提供し、調和の取れた形で吸収同化してくれるのが植物なのです。神が一番始めに作った植物は、金色に輝き生体エネルギーを発して居ます。其の発光、放熱は日中と夜で変化する。夜の方が、其の、金色の光は日中の倍の明るさを持って居る。切ったばかりの植物は光が未だ有るが、時間が経過すると、まるで命の光が消えて行く様に無く成って行く。植物は、人間や動物の様に、芽を出して成長して行くだけで無く、人間と同じ様なリズムを持って居るので有る。同じ様な事が人間でも起こります。体の浄化作用は、夜の方が昼間と比べて2倍も大きい。
 植物を観察して居ると、毎日、其の変化(人間に例えれば、顔色の様な物)が解る。此は、庭の植物を世話する誰もが感じる事で有る。植物は我々と同じ生き物で、唯、足を持って歩く事が出来無いだけだ。植物でも雄と雌が有り、歩け無い代わりに昆虫や風が実を付ける為に働いてくれる。脳や器官は私達と形態が違う為に私達の目に映ら無いだけだ。  自然の成す全てが計り知れ無い英知と調和を持って居る事に気付かされる。動物が病気に成った時に薬草を食べる。動物は本能的に薬草を探し食べる。毒性の有る物は決して食べ無い。現代の人間は自然から遠ざかった為に此の本能を発揮出来無い。自然に帰る事に因って此の本能は蘇る事を気付いて欲しい。
 自分が変わる時
 或る物に、始めは気付く事、気に成る事から始まり、そして、物事に引き付けられ、面白いと感ずる。興味を抱く訳だ。此処から全てが始まる。表面から観察して、触れては離し・・・・・・と言う事を繰り返す。自分の思いに波長が合えばどんどん触れて行く。興味が湧いて深く思いを寄せる。津々とした思いは其の物しか見えて居無い。特に有る対象や出来事に関心を向ける傾向の事で有るが、万人万色と言う様に、全ての人が其れを見て居る訳では無いし、又、興味が全て其の人の生活では無い。多くの事を知るに越した事は無いが、無理は行け無い。迷うだけで、自分を見失って仕舞う。
 解ら無く成った時、迷った時には、他を見て、そして、始めを見る。見方を変えると、又、新鮮に見える時が有る。其のチャンスは一瞬だが、全てが変わる一瞬なのかも知れ無い。
 麦踏み(麦の伸び過ぎを押え、根張りを良くする為、早春、麦の芽を足で踏む事。)された麦の様に、迷う時は人生に於いて大切な時で有ると思う。其の事が有って、今迄以上に加速する結果を得る事が有るから、大きく自分が変わる時なのかも知れ無い。時を過ぎて、其の時を振り返って見ると、一瞬ピカッと光って見えるそんな時なのです。
 手習子は一途に丸暗記では、生涯手習子でしか無い。
 労働者階級と頭脳者階級
 日本人は挨拶が無く成り無口に成った。明らかに異変で有る。挨拶は一番大切な付き合いの始めなのですが、みんな無口に成って来て居る。家の中でも「御早う」「有り難う」「御休み」が言え無い。道で近所の人に逢っても「御早う御座います」「今日は」「今晩は」「さようなら」が言え無い。店で買い物をしてもレジの人に「有り難う」の一言が言えずに無言で其の場を離れる。電車の中で靴を踏んでも「御免なさい」が言え無いし、知らん顔。通路で知ら無い人に荷物や肩が当たっても知らん顔。物を御願いするのに「御願いします」「有り難う御座います」が言え無い。自分の身だけを守る。他人なんてどう成っても良いんだ。そんな考えなんだろう。然し、本当に「馬鹿」に成った物だ。此処迄「馬鹿」に成った原因は矢張り食生活で有る。愛情の無い心は芯から冷えて居る。多くの人は何時しか人口中の99%を占めるロボットの様な、洗脳された「労働者階層」に陥って居る事を気付いて居無い。此が普通で有ると思って居る。部品を作り、部品を食べ、無表情の働くだけのロボット人間に成る。此の様に成る様に操られて居る事を気付いて居無い。「労働者階層」は二度と「頭脳者階層」に住む事は出来無い。
 1%を占める「頭脳者階級」は全ての面に於いて本当の人間で有りたい物で有る。其の「頭脳者階層」とは、本当の物を作り、本当の物を食べ、本当の事を遣る者の事で有る。其の中の1%で有る「超頭脳者階層」は、全ての物を見渡せる心を持った人の事で有る。
 仮面
 仮面を付けた素顔は外さ無い限り見え無い。顔の表情だけでも其の人の思いが解る物なのに、仮面を被って居ては解ら無い。性格は顔に出るから。透明な仮面を被って居る人は殆ど居無い。
 普段では解ら無いが、時に本音を現す人は仮面が息苦しい?のかも知れ無い。ズーッと仮面を被り続けて家でも外さ無い人は仮面を被って居無いか、頑固な人で有る。又は、長い間同じ仮面を被り続けて居ると仮面に性格が似て来るかも知れ無い。
 人生は、仮面を被ってダンスを踊って居る様に、綺麗な所しか他人には見せ無いし、視野が狭いのです。正義の味方で有る月光仮面や七色仮面は悪者を成敗する時にしか人前には出無いが、此の様な人は普段の生活も矢張り正義を通す人なのだろう。言い換えれば心に描く憧れの人生像で有り、英雄で有る心の姿の現れで有ろう。そう言う事を誰しも望んでも居るので有ろう。
 誕生と真正
 現界に生まれて来る事を「誕生」と言う。此の「誕」とは、「偽る事。出鱈目。嘘。」と言う意味で有り、「生」とは、「生まれる事。生きて居る事。命。生きて居る間。人生。」と言う意味で有る。偽った人生と言う事に成る。だから、「現界では真実に気付く事」が本来の行で有る。其の真実とは、「嘘偽り無い事。仮で無い事。究極の物(者)。絶対の真理。真如。」で有り、其れ故に、秩序を知り、神を知る事で有る。神を知るとは、「修める事」で有り、大霊界(心)を知る事で有る。其の心とは、神に近付くと言う事で有り、人生の終焉とは、死ぬ直前で有る。要するに大霊界に生まれ変わる直前で有る。だから、其の時は人生の真実を修めて居無くては成ら無いので有る。其れから、生まれ変わって大霊界に永遠に生きると言う事に成る。本来、大霊界に生まれ変わるとは、大霊界に生まれる事で有り、其れは「真正」で無ければ成ら無い。
 「知ら無かった、気が付か無かった」と言う事は、真実を知ら無い事で有り、要するに、神を知らずに霊界入りをする。大霊界に誕生すると言う事に成る。と言う事は、神に一番遠い世界に住むと言う事に成る。
 徳
 徳とは、「全ての方角に心の修行を行う。」と言う事で有り、其れは「我々の存在を成り立たせる潜在的形成力。又、様々な心的活動。」で有り、「身に付いた品性。」要するに、霊格が高く成ったと言う事で有る。其の結果「道を悟った立派な行為」と成る訳です。
 心の行を行う事で有り、其の心の行とは神に近付いたと言う事で有る。又は、生きながらにして魂が神に成ると言う事で有り、神の加護が有る。
 凡夫(欲に塗れた者)と言う「偽って生きる」と言う間違いに気付き、真正に成った(本物に成った)。真正に成ると言う事は、魂の浄化された事だが、浄化とは透明に成ると言う事で、神の光を通す魂に成ったと言う事で有る。
 病気と性格
 難症患者で有る膠原病患者は、けちで有り自念障害で有る。リュウマチ患者は、我が儘で有り自念障害で有る。癌患者は、けちで有り我が儘で有り傲慢で有る。
 其の性格を直す事が始めで有る。もう一人の悪心を閉じこめる事です!
 欲
 難病患者(特に癌、リュウマチ、膠原病等の霊障が原因の患者)に外観だけで接するだけなら非常に穏やかで良い人なのに何故此の人がこんな病気に罹って仕舞ったのだろう?なんて思って仕舞う事が多い。然し、何度も接する機会が出来ると「最低人間」だなと確信して仕舞う。初めて接した時との此の差は、二重人格で有る事が解る。外面は良いが内面が悪い訳で有る。中に隠る病気だから出難い。
 欲とは欲する事で有り、又、快楽で有り、何れ壊落に成る。心の歪みは快楽と言う欲に手を出す事で有り、味を占めると麻薬と一緒で大欲に成る。其の欲の始めは甘い誘いで有る。中の心に取り込む(手中に入れる)から其れを逃がしたく無い、隠したい為に殻を被ると言う事に成る。大欲とは、「食欲、金欲、性欲」の事で有り身体に取り込んで仕舞ったら中中離しがたい物で有り、人には取られたく無く、独り占めしたいと言う性格で有る。其れが故に外界とは歪みが生じて仕舞うので有る。品性(性格)と言う物は気(心)の事で有り、其の人の本質を外に現す。
 凡夫(欲に塗れた者)とは始めに些細な欲(気が合う事から始まる)から始まり、大欲に繋がる。欲に塗れた(汚れた)品性とは大欲を持って居る事で有り、其れを隠し持つ為には外面(殻)を頑丈に塗り固め無いと中身が漏れて仕舞う訳で有る。だから大欲を持って居る人は中(心)が読み難い。凡夫は自分の事しか見え無い。
 些細な欲、些細な疑いは段々膨らむ。結果追求主義に成って仕舞います。結果とは頑張った副作用で有る。其れに執着しては何時しか魂に嫌われ、守護霊に嫌われ、先祖に嫌われ、神様に嫌われる。そうすると周りの者に嫌われ行く。唯一闇の世界に生きる人には好かれるが心に日は差さなく成る。
 肉体の隙間
 経絡治療で使う「流注」と言う言葉が有る。其の意味は流れ注ぐ事。〓〔医〕膿瘍が身体内の狭隙を通じて他の場所に現れる事。と有る。
 狭い〓面積や幅が小さくてゆとりが無い。広く無い。〓(物の見方・考え方等に)ゆとりが無い。緩やかで無い。窮屈だ。狭量だ。
 隙〓隙間。密着し無い事。〓不和。仲たがい。
 病気の原因は心の歪みで有り、其処に生じる隙間に魔が差し、其の隙間を流れて行く結果で有る。言い換えれば、心を映す肉体が歪み其処に生じる歪みに魔が入り込むと言う事に成り、神の宿る心と肉体に悪魔が宿り、段々と悪魔に変わって行き、神の作った心と肉体が消滅して行き、肉体を維持出来無く成る。全てが悪魔に乗っ取られたら太陽(神)の下で生活出来無く成る。
 治療(神の助言)とは此の狭隙に光を当てると言う事ですが、此の光を受け入られ無い、心を悪魔に売った物には治療は効か無い。
 神は我々の多くを凡夫(欲にまみれた者)と言うが、神に適う者とは神と同体に成る者で有る。そう言う者に神の知恵は与えられる。神の知恵とは、其の時には理解出来無い事が多い程簡単明瞭で多くの意が含まれて居る。悪魔の囁きの様に繰り返し甘い囁きは無い。
 世の中には偽善者が沢山居る。彼らは自分を神に仕立てて居る。そう言う者は自念障害で有り、悩み、良く落ち込む。悪魔の囁きを聞く者に光は受け入られ無い。目付きが悪く、性格は暗い。隙間は大きく成り、全体に皹割れて居るので有ろう。
 目を開けて光を取り入れる、そんな食生活に、広大無辺な神の心が宿る。神の世界も悪魔の世界も同居して居る現世に、其れは、常識(神の意)に因って見分ける事が出来る。穏やかな心(平常心)とは神の居る心で有ろう。
 身体からの訴え
 「身体の彼方此方が痛い。此の痛みを取ってくれ!」と言って来館される。「此は身体からの警告で有って、此の腰痛の原因は他に有るのですよ。」と言うと、耳を傾ける。そして、ポツリと「病院では、年だから・・・・・・等で終わって仕舞うから治ら無い。」と言う。「其れは、身体からの警告ですよ」と伝えて、納得されると本当に愁訴が少無く成る。患者も簡単な治療で「身体が軽い。」と言う。心と身体(想いと思いと肉体)が一体に成った時に此の様な事が良く有る。清々しい一面で有る。真意を知ると言う事は非常に大切です。対症療法と言うのは結果を追い掛けるだけで真意には気付か無い。其れは、他力本願で有り、他人は飽く迄も他人で有って自分では無いと言う事に気付か無くては成ら無い。
 其の後、身体と対話しながら食生活を送る事が肝心で有るが、其れを行うのも患者自身で有る・・・・・・。
 凡夫は罪人
 凡夫は罪人で有る。何かが欠損、若しくは、間違って居る。でも其れに気付か無い。然し、其れは其れで其の人の人生。
 人生には思い込んだら其れしか見え無いと言う人が居る。其れも非常に狭義の世界しか見え無いと成ると、世間との付き合いも無く成り、物の見方も考え方も狭く成るから段々と性格も暗く成って思い詰めて来る。そして、最後には1つの物しか見え無い、又は、全て見え無く成る。自分を見失って仕舞う。深く物事を考えるのが面倒臭いと考えて居る内に自分の記憶の中でしか対処し無く成る。そして、周りに同調し無く成り、過去の自分の中に生きる。他の原因に、人の影響に因ってそう成る場合が有るが、其の多くは洗脳で有る。
 結局は、自分で自分を狭くするか、他人に因って操られるかで、自分か洗脳者を守って仕舞う訳で有るが、其の中心には我を通すと言う「欲」が圧縮されて居る。 其の欲とは、多くの犠牲を作る。矢張り罪人で有る。又、無知も小さい罪を重ねて行く。
 人間は完璧では無いが故に凡夫で有り、凡夫を抜け出る事は出来無いが、抜け出す努力は出来る。
 時間の概念(事物の本質を捉える思考の形式)
 物事の初めは皆素人です。其の後の結果は努力した人に与えられる物と者が有り。時間と労働は結果に多くの差を生む。要領の良い人は其れは其れで大きな結果を生むが、出来映え(時間+労働=内容量)に欠ける事が有る。骨骨と地道に頑張った人は距離は余り延び無いが、出来映えを満たす。此の差は「本質」の問題で有ろう。生涯を掛けると言う事に成れば、大きな結果の食い違いを得る。然し、其れは其れで人生に見付ける活路の「方向」に因って評価が違う。
 要領の良い人が出発点から右に45°進むならば軌跡としての距離を伸ばすが、骨骨と地道に真っ直ぐ進んだ人は距離が短くても、其れが本質(=時間の進む方向)ならば、結果は一番距離を伸ばした事に成り得る。生涯と言う大きな時間を考えれば此の差は大きな結果で有り差で有る。
 良く迷った時には、基本に戻れと言うが此は些細な時間の事で、其れが故に遠回りをし無かったと言うならば、戻る事に因って残された時間は距離を延ばす事が出来得る。
 流れ
 川の流れを見れば、穏やかな流れも有れば急流も有る。最後は海に注ぐ。
 初めは、1滴から始まり、其れが1筋の集まりに成る。彼方此方から同じ様に地面から湧き出て来た1滴も沢山集まると流れを作る。其の流れが1筋の流れに成り母成る海に向かって下る。其れが自然の法則で有る。上流で幾ら荒れ狂う様に流れが急でも、海に注ぐ頃には流れは穏やかに成って居る。河原の石も其れを物語って居る。
 下降するに従って水量は多く成るが、上流では、川幅の狭い所、傾斜の急な所は流れが速い。日照りが続くと水は枯れ、大雨が降ると水嵩は増す。又、大雨で氾濫する事も有る。そして、閉じ込められた川は湖に成り、其れは其れで大地と何時も密接な関係を保つ水庫と成る。川は天候に因って其の流れは大きく変わるが、何時も自然は成る様にして成り立って居る物で有る。自然に逆らって行けば、其れだけ、大きな抵抗が有るのは川の流れに逆らって川の中を歩く時に感じる物で有る。船中の万事を司る船頭の様に、其の流れを読み安定した川下りは、初めての人には出来無い。先に生きた人の自然との調和と言う経験は大きな財産で有る。
 血液とて流れ、身体は血液循環に因って維持されて居るし、人生も時間の流れで有る。私達も幾つかの流れの中で肉体と言う舟に乗って居る。ぶつからず、転覆せずスムーズに流れに乗るには、側がしっかりして漏れず、弾力が有って撓い、重心がしっかりして安定し、骨組みがしっかりして壊れず、船頭がしっかりして居無ければ成ら無い。其れとて、川が氾濫して居る時には、舟は出さ無いものだ。
 気力
 専門の運動等を見ると、30歳位迄に身体に覚え込ませ、40歳位迄に理論を研究し、其の後は、其れ迄に培って来た物を応用して、技術(霊的感覚)指導をする指導者と成るのが一般的と思われて居るかも知れ無い。然し、此は限られた極一部のプロ的な感覚の人達で有って、全体では無い。
 確かに多くの人は、運動を余り行わ無い人は30歳を過ぎるとめっきり体力が萎えたと感じ、頭脳を使わ無い人や専門的な分野しか考え無い人は40歳を過ぎるとめっきり頭脳が萎えたと感じる。そして、其の後は経験と霊感を生かした生き方をする。然し、此は世間の人の食生活のバランスが崩れて居る人の場合で、「私はもう年だから」と決め付けて居る。然し、其れは万人万色で有り、人其其で有る。自分は若いと思うだけでも多くは違って来るし、運動、休息、食事のバランスを考えて生活して居る人は、心も肉体も頭脳も若い。
 遣る気と言う気力は中心のもので、全ての中心で有るから其の外側に有る、肉体も頭脳も追従するものだから、遣る気が発揮されれば随分と肉体も頭脳も活性(若返る)するもので有る。
 時間を止める
 絵画や写真は「一瞬の時を永遠の中に閉じ込める」。思い出として、記録として誰にも後から思い出す確認をする一つのタイムマシンに成ります。人生に一番輝いて居る瞬間、歴史の記録、自然の記録、思い出の記録・・・・・・「時間を止める」とは「身体を止める」事にも繋がりますが、一瞬の休息に成れば、新しいチャンスを掴む事にも成ります。振り返って考え、判断する。其れも人生には大きな機転なのかも知れません。
 人生には此の様な手段を使わ無いと、時間を止める事は出来無いが、思い出を一杯持って居る人は、自分の心の中で時間を止めて一瞬の時を永遠の中に閉じ込める事を自然に遣って居る。
 全知全能
 神を想う様な非常に尊い平和な生活を送ると神の様に成る。上を見て生活を送ると下は見え無い。下を向いて生活を送ると上は見え無い。前を向いて生活を送ると後は見え無い。後を向いて生活を送ると前に進まず、進もうと思えば躓いて転んで仕舞う。人間とは非常に不器用な動物で有る。
 賢く成るには、非常に勉強をし無ければ行け無いが、何を勉強すれば良いのか?矢張り、自分の目標を決め無ければ成ら無い。でも、結果は、1つの事に長けるだけで有るだけなのかも知れ無い。
 前を向いて歩くが、後を気配で感じ、上横下は時に見渡し、止まった時に振り向くと言う事が最良で有ろうか?此は肉体と頭脳の事で有るが、心は矢張り神を見ながら進む事が最良で有る。
 神は全知全能と言うが、人間は矢張り足下にも届か無い。だから、追い求めるので有る。全知全能を手に入れたくて。其の為の努力は何時か満たされる?と神の夢を追い続けて・・・・・・。
 心は思い遣り(慈悲と愛)で有り、肉体と頭脳は調和(幾つかの物が矛盾無く互いに程良く和合する事)で有る。此を踏まえた食生活が全知全能への鍵かも知れ無い・・・・・・。
 天才
 「持って生れたもの。生れ付いた性質。天性。」の事を「生まれ付き」と言う。天から分け与えられた性質・才能と言う物は、其の人特有の物だが、其の分他人因り秀出て居る。然し、其の天の才能を気付かずに終焉の時を迎える人が沢山居る。平平凡凡とした、何も気付か無い人生を送る。勿体無い事で有る。其其一人一人に神は天の才能を与えてくれて居ると思うが、多くの人は其れに気付かずに居る。
 良く、「運動神経が鈍くてネー・・・・・・」「運動神経はゼロです。」等と言う言葉を聞く。此は其の人には運動神経の分野には天の才能が無い訳で有る。矢張り、人其其に身体の中を巡る運動神経の伝達速度は違う。運動選手のトップクラスと運動音痴では雲泥の差で有る。此の差は大き過ぎ、努力しても追い付く事は無い。
 必ず、其の人には其の人成りに何処かに必ず天の才能は有ると思う。だから、其の人其其に天の才能を探す。其れが、「得る物」でも有る。
 「天才(天の才能)」と言われる人は、其の天の才能(霊界通信)に気付き最大限に工夫して居る人の事で有る。言い換えれば天才とは天から与えられた才能を存分に発揮して居ると言う事に成る。
 天才とは、99%の霊感と1%の工夫をする人で有る。
 人間失格
 小さな子供は親が全てで有る。健全成る親子の関係は何時迄経っても此の関係が心の根底に有る。其の中で、社会(家庭)が形成され、外界との付き合いが完成され、結婚し、子供が出来る。又、同じ関係に成る。人生に於いて善にも悪にも接触するが、其の時に判断を行え無い時に親は有り難い助言者で有る。健全成る人間形成は、親の指導が全てで有る。青年の真ん中で成年に成る。其の頃「盛年重ねて来たらず」と言うが、此の時期の食み出しを親は注意して、子供は其れを受け入れると言う事が大切な親子関係で有るが、其の関係が崩れて行くのは欲に負けるからで有る。凡夫とは「欲にまみれた者」と言う意味だが、悪の心を持った人間が善を貫くと言う事は其れだけ戒めが必要なので有る。其の欲の大元は食欲で有る。親子の関係は心の温かい付き合いなのだが、其の温かい付き合いも簡単に食欲に負けて仕舞う。そして、性欲、金銭欲と段々欲にまみれて心が冷めて行く。
 心が貧しく、愚痴が多く、傲慢で、疑い深く、瞋怒する者は霊格が低い。心を改めないと光は見えて来ない。
 常識
 常識とは、「普通、一般人が持ち、又、持って居るべき標準知力。専門的知識で無い一般的知識と共に理解力・判断力・思慮分別等を含む。」で有るが、若し、此の常識が無意識の内に皆狂って仕舞う事に成ったらどう成るのだろう?非常識の世界は無法の世界に成って仕舞い「理(ことわり)」が無く成り、無秩序に崩壊して行きます。癌細胞と同じです。
 何故、此の様に成って仕舞うのだろうか?治める物と者、育てる物と者だけの所為だろうか?其れは、目に見え無い力に「中心」が壊された結果で有ろう。中心(元・基)が壊れると、唯、操り人形と成って仕舞うだけなので有る。
 10人中1人が常識で、9人が非常識ならば、世の中は反転して9人の非常識の方が常識に成って仕舞います。何れ、始めの1人の常識は食み出し者と成って仕舞い動か無く成ります。要するに殻を被って種に成ります。世の中は始めから見ると非常識(間違った方向)に変化して行きます。此の様な事を繰り返して行けば始めの1人以外は全て非常識と成ります。変化が加速して行き、無法世界に成り、最後には秩序が無く成り爆発して壊れます。全てを失い無と成る。世の中が静かに成り、其の中から始めの種から動く物と者が生まれます。
 立て直しが起こる訳ですが、此も見え無い力に因って起こる、大きな世界での自然の秩序なのです。
 我々の世界は大きな世界の一部分としての存在でしか無く、誕生、成長、老化、消滅を繰り返して居ます。此は、人体を見ても、自然界を見ても言える事です。小さな物と者も、大きな物と者も時間の流れに差は有る物の結び付いて居る物と者が有ります。
 風の流れに靡く柳の様に、大きな流れに逆らわずに生きる事も大切で有るが、是非を論ずるだけの知能は持ちたい。是非も無い等と行って居る内に判断力は鈍って仕舞うので有る。考える事を忘れた者は全てを放棄したと言えるで有ろう。
 極微の世界を研究して行くと大きな世界を見るし、大きな世界を見て行くと小さな部分を見て行く事に成る。大は小を兼ねるが、小は大でも有るのだ。全て見え無い所で1つで有る。短い人生なのか、長い人生なのか其の人の人生観では有るが、私は短い人生の方が実は長い時間に生きたと言う感じがします。
 神霊学研究会・骨法研究会・ビームライト協会・空手道と多角的に現世と霊界を研究し際限無く大きな物と者を感じます。成り立ち(仕組み)とは常識で考えれば解る。そんなものかも知れません。身近に答え(真実)を得る事が出来ると思います。大きな世界に向かって問うと、答えは胸中に発生する。
 意識外意識と意識内意識
 意識とは、認識し、嗜好する心の働きで有る。今して居る事が自分で解って居る状態で、我々の知識・感情・意志の有らゆる働きを含み、其れ等の根底に有る物で有る。
 相手や動物が威圧感や殺気を感じると言うのは、意識と其の外に取り巻く雰囲気と言う力で有り、意識が因り大きく相手に感じられた結果で有る。感情や意志の発動で有り、意識外意識と言う。此の時其れを感じる相手は環境の主観的反映として認識したと言う事で有る。此とは別に、相手や動物が好意的に感じると言うのは、意識して無いのに、精神的な面で同調し認識した結果で有り、其れは深層的な意識で有り、意識内意識と言う。此は本来の人間の本質的な純粋な心の発動で有ろう。
 意識外意識は多く、認識・感情・欲求等、現象の諸形態を担う実体自分を守る能力を作り、意識内意識は自己の心(精神)を作る。意識外意識は多くの反発を生み、意識内意識は多くの慈しみ合う心を生む。
 普段、意識し無い所に有る意識と言う物が自分にも相手にも大きな影響を与えて居る訳で有る。
 最後の選択
 人類は、発生して以来ズーッと塵を作り続けて来た。宇宙から見ると未だ青く美しい地球も何時迄此の美しさを保って居られるのだろう?地球を人体に喩えると人類は「癌細胞=無秩序に加速的に分裂し崩壊して行く細胞」の様で有る。自然界と言う秩序が段々崩壊されて行く、結局は自分(人類)に返ってくるのだが、自分の事しか考えられ無い人類は、我が儘なので有る。癌患者も我が儘の極みで有る。結局は全てを失う迄自分を主張するので有ろうか?
 癌細胞で有る人類は、自然界に神に淘汰されるので有ろうか?でも、そう成ら無いと地球は滅びて仕舞うだろう。
 私達は、癌細胞に成って苦しむか、自然界に同調して自由を得るかの最後の選択肢は残されて居ると思います。自然界と同調し一体と成る。そんな道を歩みたいものだ。
 過信
 過信は必ずしも結果とは結び付か無い。其れは、過信が故に驕り、考え方が狭く成り周りの変化に気付か無く成るからで有る。又、過信が故に見下し、上が見え無く成る。
 過信にも、馬鹿の過信と、賢者の過信の2通り有る。馬鹿の過信は為す術が無く気付いた時には全てが終わって居る。賢者の過信は、直ぐに情報収集を初め、気付き復活し、以前因り力を持つ。
 何れにしても、他力本願は破滅の道を辿る物だ。何時も自分の努力が報われる様に精進したいもので有る。
 長上を敬し、頭は低く、口を慎み、志は高く、心は広く深く。
 生涯に於いて気付く事
 自分を生かす物と者が有り、其れ故に生かされて居ると言う事を悟る事が生涯に於いて得る物と者で有る成らば、何故生かされて居るのだろう?生かされて居ると言う事は役(其の人に割り当てられた務め)が与えられて居る筈だ。其の役に気付く事が生涯に於いて一番大切な事で有る。其して其の役を与えたのは誰か?見え無い者と言う事は神で有ろう。神の子で有る私達に役を与えると言う事は、神の慈悲(かわいがる)で有る。其の事に感謝の気持ちを示さ無い者に導きは無い。
 総てを浄化(浄霊)する条件
 ビームライト治療で、ビームライト端末装置で生体波動補正波動や物質波動を患者に向けて出力すると、実際に患者は其の通りに成り治ってしまう。完全な操りで有る。オーケストラの指揮者が振るタクトに演奏者も其の音楽を聞く人等も皆操られて居る。此の様に人生の総てが操られて居る様な気がする。
 現し世と書く現世が霊界を写すならば、霊界人を人間は写して居るのだが、神霊治療の施霊時に何故馮依して居る霊人を浄化(浄霊)出来るのか?其れは神に依頼して居るが故にで有る。しかし、守護霊や先祖諸霊を浄化(浄霊)する時には、其の中には神霊も居るはずなのに?又、神霊を裁く時も有るが?と質問を戴いたりする。此の場合等を考えてみても、高級神霊ならば成せる業で有る。
 総ては大霊界の最高の神が操って居るのだろう。とするならば、総てを浄化(浄霊)する為の必要条件は「光」と「音楽」と「馨」で有る。
 想念の交通(テレパシー)
 赤ちゃんが御乳が欲しくて泣けば、母親は何十キロメートル離れた所に居ようと其の事が解る。赤ちゃんが泣くと乳房が張るからだ。何と素晴らしい事なんだろうと感激してしまう。泣き声が聞こえ無いのに、赤ちゃんの御乳が欲しいと言う想いが空間を越えて届いてしまう。泣く事の他に伝達手段を持た無い赤ちゃんが、唯一神から授かった神業なので有る。
 其んな赤ちゃんを良く見て居ると、目を空いて居る間は常に空間に向かって何か喋り動いて居る。其して御腹が空くと泣く。はいはいから歩ける様に成っても、喋れ無い内は、アーアーとかウーウーとか単純な発音の繰り返しで総てを表現して仕舞う。単純の中にも声の高低とか、語尾の終りの変化とか、非常に豊かな表現をして居る。加えて、想いが加われば母の胸に届くので有ろう。想の操りで有る。
 一方、私等は自由に多くの言葉と言う約束事を駆使して相手に自分の意志を伝える事が出来るが故に、想いの操りと言う術を失いつつ有るのでは無いのだろうか。だから、文字では漢字と平仮名と片仮名を駆使して奥深い意志を相手に伝える。此も文字を使用して、想いの操りで有ろう。
 此の様な事を考えると、想念の交通(テレパシー)と言う術は、顕在意識の奥に有る潜在意識の部分に了われて仕舞った様な気がする。相手の胸に響く様に思いを伝える其んな会話をする為には、心を豊かにし無ければいけ無い。心を豊かにすると言う事は、多くの物を見て其れを知り、其の物に同化する術を持ち其の物総てを知る。若し、そんな心の術を持つ事が出来たら言葉に心を操る事が出来るので有ろう。
 満たす
 聖天仁大神を媒体として天上界の霊流を頂き魂を金色の霊流で魂を満たす。心身の浄化の方法で有る。不思議と髪の毛の先から手足の先迄瑞々しく成る。
 野山に行った時に緑の草木から気を戴くと身体が浄化され瑞々しく感じるのと良く似て居る。私達は大気の中の空気に何時も接して居る。地球の気(大気)の中で生活を営んで居るのですが、其の有難みを忘れて、汚して居る。地球が病むと言う事は同調して生活を営む物は全て病むと言う事です。地球が病んで居ると言う事は当然地球も同調して生活を営む物も満たされて居無いと言う事に成ります。
 生命エネルギーと言う与えられた時間
 神は我々に「生命エネルギー」と言う生涯の時間を与えた。其の時間の使い方は各人の自由で有る。
 のんびり働く事もせずに生涯を過ごすのも其の人の自由。休む間も無く働き続けるのも其の人の自由で有る。限り有る時間をどの様に使うかに因って其の人の霊格が決まるので有る。
 のんびりとした人生は生命エネルギーを少しずつ使うし、急げば急ぐ程、力を入れれば入れる程使用率は高く成る。又、病気をすると病気と闘う為に、身体を修復する為に使用率は高く成ります。重い病気をした時に持ち堪えられるかどうかは、生命エネルギーを病気に見合うだけの使用を出来るかどうかに因って決まります。此は耳の大きさに現れます。耳の大きな人は一度に大量の生命エネルギーを使用する事が出来ますので重病の時に持ち堪えられる可能性が大きい。反対に耳の小さな人は生命エネルギーを小出しにしか使用出来無いので生命線が切れて仕舞います。
 祈り
 祈りとは神様に想いを伝えると言う事で有る。多くの場合は「御願い」で有るが、其の「御願い」とは人間界で使用する言葉で、神様には「祈り」と言う言葉に替わる。
 其の祈りとは、無欲で貴い平和な想いでなければ成らない。多くの人が同じ祈りをすると神様の御心には伝わり易い。
 神との交流
 静かに神に想いを巡らす事に因って其の想いは深まり、心に聖霊が天から神楽の音と共に一条の光と成って降りて来る。心は明るく太陽の様に光り輝き聖霊は舞を舞う。何時しか清らかな馨と共に光の中に居る。心は神と一体と成り、神の想いが胸に溢れて来る。
 歓喜の時間は心と智慧を養い、霊的な時間から目覚め敬虔な想いは霊格を高め、心身共に浄化されて居る。
 神との交流は、長い時間が過ぎたと感じるが、実はほんの一瞬の出来事で有る。
 神に嫌われる現代医学
 神は自身が創造した、神に似せた身体を変異させる行為を嫌います。現代医学に因って安易な新薬の投薬、手術等は特に嫌われます。又、利益追求を主目的として患者を無視した愚医療行為。
 新薬は、化学変化に因って起きた副産物(人工物)です。相似と言う観点から見ても細胞単位で変異し臓器の変異が著しい。自然では無く不自然で有る。薬の80%は肝臓、腎臓で濾過されて臓器に負担を掛けるし、残りの20%が全身に等分に巡る薬は患部の他には毒としか作用しない。
 手術に因って安易に身体の秩序を失わせる事。切る物が無く成って仕舞ったら死しか無い。そう言う結果に成っても、多くの医者は責任を感じ無い。
 現代医学の医術行為の多くは神の与えた命(生命エネルギー)の無駄遣いを行います。命を粗末にする事は神を裏切る行為です。
 神に嫌われる行為は、霊格の向上の妨げに成ります。
 我々に与えられた役とは、神の慈悲を受けて其れに応えて悟る事で有り、後世に向かって其の真実を伝えて行く事でも有ります。だから、真実に気付く事が大切で有る。真実に気付か無い、知ら無い者は罪人で有る。
 輪廻転生
 宇宙、此の自然界は「誕生→滅」の繰り返し。全てが螺旋運動。霊界とて同じ事。
 霊界は左回りの球運動、現界は右回りの球運動。中心の中庸は幽界。メビウスの球を描いて居る。霊界の中心には霊界の太陽が有り、神の世界が有る。現界の中心には現界の太陽が有り、其処にも神の世界が有る。神の世界は求心力。神の世界を目指さない限り近付けない。中心に近い程輝いて居る。現界は遠心力。欲から遠ざかり心を浄化し浮き上がらなければ霊界の求心力に同調しない。
 霊界から現界に誕生し、生活し滅して霊界に帰る。欲(求心力)に執着し過ぎると幽界で逆流して現界に戻る魂が有る。霊界では天界や天上界に向上すれば霊界の中心だから霊界に留まるが、其の様に求心力に引き付けられ無い魂は現界に移行する。
 現界での欲の執着が多い霊人は霊界を拒み、更に霊界では受け入れられずに現界に転生して来る霊人が有る。其の様な霊人は現界人に生まれ変わると霊格が低く前世と同じ運命を辿る不幸な人で有る。
 流産した子供や1歳未満の乳飲み子は、光りの世界に戻り、現世の記録を消され、再度神として教育を受けて現界の腹の宮に転生をします。此の場合は霊格は下がらない。
 自殺
 神から戴いた命を粗末にした罪は大きい!
 自殺と言うのは神の意志に背いて命を絶つと言う事だから、灰色の世界か闇の世界に行く。又、多くの場合、人に迷惑を掛けて逃げる様にして他界するのだから罪は大きい。家族等に依頼されて自殺した人の供養を聖天仁大神に依頼しても、神界に上げて戴くのには非常に時間が掛かる。
 然し、今回自立していない障害を持った自殺者への供養の依頼が有った。本人は既に幽界を越えて、霊界入りして灰色界に居たのだが、壁に向かって無言で寂しく座って居た。何時もの様に聖天仁大神に依頼して霊界操作を行った。本人の思いを聞いたら「寂しい!誰も解ってくれないから死んだ方が良いんだ!と言う気持ちで自殺して此処に来たけど、此処は更に其の思いが強くなるばかりです。」と言って居る。反省をさせ浄化し隣人愛の想いに満ち溢れさせ、残して来た人達に守護霊団の一員として守護する約束をさせ、神界に上げた。兄弟や家族や其の周りの人達に迷惑を掛けずに他界した人は此の様に速効で救済される場合が有る。
 病気と霊的障害
 欲と言うのは「欲する、望む、欲しがる、願い求める、異性を欲しがる気持ち。」の事で有り、卑しい思いの事で有る。一つの事に没頭するので他は何も見えなく成り、感じなく成る。判断力が低下する。判断力は頭脳の働きで有るが、欲にまっしぐらな思いをして居ると其処に全てを集中する事に成るので判断力は無く成り、心も頭脳も身体も隙だらけに成る。心の隙には霊的障害が発生し易い。憑依を起こすと、本来の心を邪魔する者が居座る事に成る訳で、勝手に頭脳や身体機能に命令をして仕舞う様に成る。其の数が多ければ多い程勝手な命令が多く成り、頭脳も身体も無秩序に成って行く。
 言い換えれば、心(魂)の衣で有る頭脳・肉体で出来て居る身体は、頭脳を主に欲を追求した食生活を送ると心(魂)と頭脳・肉体は分離し、其処に隙が出来ます(自律神経失調症)。心(魂)が欲にまみれた頭脳・肉体を嫌う結果です。其の隙に低級霊、悪霊、凶霊が入り込み、厄や病気が発生し、運命の低下を伴います。
 病気と言うのは気の病です。脳の判断力の低下に因って、霊的障害を受けて発生する病気が全ての病気の70%以上です。
 動物性蛋白質(乳製品、卵、四つ足、二つ足、魚介類等)を摂取して、其れに砂糖が加わると、血液が酸毒化して判断力が鈍る。そして、DNAが傷付き身体をコントロール出来なく成り、心に隙が生じ、其処に霊的障害が発生する。
 生き物は殺されて食べられる為に生まれて来たのでは無い。植物は種を介して沢山に分身する事が出来るので、罪が少無いが、動物は殺されたら分身する事が出来無いので恨みが残る。此のエネルギーは永遠と消えない。心を頭脳を身体を崩すエネルギーで有る。
 癌と言う病気は、無秩序に細胞分裂を始め身体が崩壊して行く。独自に意志を持って身体の中に蔓延って行きます。其れは悪心なのです。
 膠原病は、細胞が繊維化を始め、筋肉が硬化して機能低下に陥る。
 リューマチは、酸毒化した血液が滞り易い(流れが悪い)関節部位を中心に腫れ、硬化・変形する。
 糖尿病は、インスリンとグルカゴンと言うホルモンの拮抗作用のアンバランスが発生し、糖分が身体に蔓延し身体が腐って行く。
 運命が悪いとか交通事故の原因は、判断力低下(一瞬の気の逸れや迷い)に因るもので有る。
 難病、奇病と言う病気も此と同じメカニズムで有る。もう一人の自分で有る悪心がそうさせて居るのです。そして、ウイルス性の病気とて霊的障害は無いとしても食生活の過ちで有る。
 悪心を閉じこめ、心に隙を作らない食生活、想いの生活を送りたいものだ。
 浄霊と神霊治療は光の治療
 聖士會館の施霊(浄霊と神霊治療)は、聖天仁大神様の力を御借りして行います。施霊をして居る時は神様の御陰の元に行って居る訳ですから、側に居る人は、施霊者は輝き、受霊者(患者)に対して、施霊者の手からキラキラ輝く霊流(神の光=金色の光=淡い檸檬色に見える)が放出されて居るのが見えます。但し、悪心障害者には見る事は出来ません。
 謙虚と礼節
 神様に御願いばかりして居て、感謝し、御礼を言う事を忘れて仕舞っては何時しか神様からの慈悲は薄れて仕舞います。欲を追求して居る事に成るからです。何時も謙虚で礼節を重んじた心を持つ事が大切です。
 運命の好転と幸福
 神を想い、神から慈悲(霊流)を戴き、心の浄化(自己浄霊と心の管理)を行うと、運命はドンドン好転し、ドンドン幸福に成って行く。其れは、霊格が向上して行くと言う事。
 先祖霊、守護霊を供養して霊格向上を図ると運命は好転して行き、幸せを感じる様に成ります。
 全ては霊界からの操り、全ては心の向き
 色々な人が居ます。だけど、霊界に行ってからの生活を考えたら輝きの心を持って生活したいと誰も思う筈なのだが、目先の些細な欲に目が眩んで生活するのが凡夫です。自分の意志で心の向きを変えなければ霊界での生活の向上は望めない。
 悪心を持つ人は、地獄・魔界に波長を合わせて居る為に其処の住人に良心を閉じ込められ、利己主義な生活を送る人です。興奮するとドンドン暗闇の住人の悪心を持った操りが加速し、判断力を失い自己中心的な心が膨張し罪を重ねます。
 良心を持つ人は、民の世界に波長を合わせて居る。穏やかな心の生活を送る人です。悪心を抑える事が出来るのは、他人の歓びを自分の歓びとする事が出来るからです。
 輝きの心を持つ人は、光の世界に波長を合わせて居る。常に明るい心を持った生活を送る人です。心の光で周りを包み込み常に希望と幸福の心の光を与えられる人です。
 夢
 夢は潜在意識内に有る記憶と霊的な働き掛け、又は、全てが霊的な働き掛けです。
 眠りに入る直前の顕在意識が薄れ掛けて行く時に身体は陰性に成って居ます。其の時に陰性体質で尚且つ低級霊(悪霊・凶霊)に波長を合わせて居る人は金縛り等の低級霊に波長を合わせ易い。金縛りは低級霊の憑依現象です。
 顕在意識が働いて居無い睡眠時の恐い夢は低級霊の憑依現象です。
 何れも常に低級霊に波長を合わさ無い様に心の管理が大切です。
 常に神霊に想いを寄せて居る(波長を合わせて居る)と明るく楽しい夢を見ます。
 肉体と幽体
 肉体は食物に因って作られて居ます。幽体は直接霊流に因って作られて居ます。
 現界では食欲が旺盛な人程、肉体(頭脳)が主体な思いの生活を送ります。此は目で見えるものが全ての生活の中心です。其れとは反対に、食の細い人は、欲が少無い分だけ肉体(頭脳)の質量は少なくなり、幽体(心)の質量が増える。目で見えるものに加えて、目に見えないものを感じ、思いと想いの世界が広がります。
 肉体(頭脳)が主体な人は、霊的なものは見えず感じられないから信じられない。だから、目で見えるものが全ての世界の中に生きるしかなく唯物論者に成ります。幽体(心)の質量の多い人程、心(精神世界)の世界が広がり、見えないものを感じ、又、見えない筈のものを見て精神世界の無限の広さを感じ、又、見て唯心論者に成ります。幾ら文明が進んでも、99%の非科学(霊感と経験:唯心論:無限世界)と1%の科学(証明:唯物論:有限世界)は変わらない。
 幽体(心)が主体に成れば成る程、肉体(頭脳)に質量の割合は少なく成るのだから、更に思いと想い(精神)の世界が広がるのだが、思いとは欲世界(地獄・魔界)の影響も多い。想いは天界(神界)の影響を受ける。無限な世界を持つ霊界からの影響は其の人の判断力に因って、欲がらみの思いか、慈悲の想いかに分かれる。
 幽体(心)の質量の多く成れば成る程食欲が落ち小食に成るのは、幽体の質量が多く成り、霊界(天上界)から届く霊流をエネルギー源とするからだ。現界の動物は肉体(頭脳)の中に幽体(心)を持つが故に主に立つ肉体を作る為に食事をし、生きて行く。完全に幽体(心)が主位に成れば霊流に因って維持されて居る幽体(心)だから食事は要らない。
 明るい人と暗い人
 街で擦れ違う人、時に気に成る人が居ます。此の人の過去は?現在は?未来は?と思いを寄せて仕舞う時が有ります。人は人其其に悩みを持ち生きて居る。其の悩みに負けた生活を送って居る人は、心が暗く成って仕舞っては霊格が下がって行きます。其の悩みを糧にハツラツと生きて居る人は、光を追い求めて希望を持った生活をして居ます。人其其・・・・・・。然し、先祖や守護霊の霊格が高い霊人は心の暗い人には見方をしません。心の暗い人には、霊格が低い、低級霊、悪霊、凶霊に好まれます。
 嫌われる人
 知らず知らずの内に他人に色々な意味で迷惑を掛けて居る事に気付か無い人は自己中心(我が儘)で有る。何時も責任転換して他人を悪者にする性格ですから友達を失います。何時も自分が皆の中心に居たい英雄願望の性格なので、他人には綺麗な所だけを見せたいから臭い物には蓋をして悪事を隠す事を始終行います。自分を外から見詰め直す事をしないからです。他人に忠告されても性格を直す事を怠る人です。そう言う人は心が狭いから気付きと気遣いに欠けます。
 ケチ
 自分を満たす事しか考える事が出来無いケチと言われる人は、何事に置いても自己中心(我が儘)で言動や行動を起こします。他人の痛みや苦しみを見ても見ぬ振りをするくせに、自分の痛みや苦しみは大袈裟に表現し他人に助けを求めます。愛情深い人が助けてくれても、助けてくれた人の恩を直ぐに忘れて仕舞うので何時しか誰も振り向いてくれなく成ります。そう言う人は愛情や友情に欠けますから大切な人や友達を失います。動物的本能(欲望)だけで生きて居る淋しい性格です。孤立して誰も居無い淋しい世界の中で独りで生きる事に成ります。
 光り輝く人
 愛情に満ち溢れ、心に小悪魔を持って居ない人です。心が広く真の優しさを持って居ます。だから、悪心が無いので怒れる事も無いし、何時も平常心で有り、神様の愛と慈悲が胸に共鳴して居る霊格が高い人で有る。其の想いを感じられる人には光り輝いて見える。
 運命が良い人
 先祖霊と守護霊の霊格が高く、先祖霊と守護霊に好かれる想いの生活を送ると運命は好転します。先祖霊供養と守護霊供養が出来ると更に好転します。又、乳製品を含む動物性蛋白質と砂糖の摂取を止めると更に好転します。
 神様や霊格の高い先祖霊や守護霊を何時も胸に抱いて居る人は常に胸が輝いて居る。そう言う人は、神の知恵・宇宙の知恵がドンドン降り注いで来て運命が好転して行く。
 欲に負けない性格を作る
 彼が食べたい、此が欲しい・・・と思った時に、思う儘に欲するのでは無く、其れを我慢する事も大切な事で有る。後から良く考えると其の時に其れ等を食べたり欲したりしなくても生活レベルに変化が無いとか、食べた事に因って病気が進んだとか、必ずしも欲した其の瞬間に決断した事が良い結果を生むとは限らない。特に患者は欲する物が病気を加速する場合が多い。欲の儘に生きて居る動物レベルだと霊性が低い。頭脳は欲しいと思っても10分間我慢すれば欲に打ち勝つ事が出来るので有る。欲に打ち勝つ事も大切で有る。
 罪深き凡夫
 自分の性格を知り尽くし、如何に短所で有る小悪魔を封じ込めるか?長所を解放して行き自然に小悪魔を封じ込めて仕舞う位の性格に成りたい。小悪魔の発動は些細な欲から始まる事を知ら無ければ成らない。
 神に嫌われる人
 神を否定する人。乳製品を含む動物性蛋白質摂取の多い人。薬物を好む人。自己中心な人。内面と外面が違う人。常識や礼節の無い人。傲慢で我が儘な人。嘘吐き。罪深き人。
 心に陰りが有る人は黒っぽい物を好む様に成る。知らず知らずの内に神から遠ざかって行く。
 運命が悪い人
 運命とは必ず切っ掛けが有り、結果が有る。運の悪い人は先祖や守護霊の加護が無く、何時も低級霊、悪霊、凶霊の影響を受けて居る。だから、運命の悪い人は分かれ道でドンドン悪い道を選択して居る。傾いた人生を送って居る。
 運が悪いのは、心の隙が有り、心にゆとりが無いからで有り、其の場凌ぎの人生を送りがち、又、自分への傲りが招く結果です。其の事を謙虚に受け止めて反省と心の浄化と他人への貢献に務めると運命は好転します。
 運命好転
 霊格の高い先祖や守護霊の数が多い程運命が好転するのは、好意的霊波動が集まれば集まる程、高濃度に成り、物質に近付く。そうすると現界の物質社会に影響を及ぼす力が強く成る。だから、そう言う好意的な高級神霊を味方に付ける為に、先祖供養や守護霊供養、自己浄霊を行い先祖や守護霊、そして、自分の霊格の向上を図る事が大切です。又、霊界入り後の生活の向上を図る事が出来ます。【隣人愛の情愛に道溢れた生活を送る】と言う尊い想いの生活をする。
 先祖霊
 自分の親、そして、其の親と言う様に血が繋がって居て(霊線で繋がって居る)先に霊界入りして居る霊人を先祖霊と言います。
 其の先祖霊の住所が、民界や天界ならば子孫に好意的な関係に有りますが、闇界ならば救済を求めて来たり、悪意を実行したりします。
 先祖を慕う気持ちが先祖霊に通じても、闇界の住所に居る先祖因り祖先からは霊線を通じて慈悲や加護は来ません。又、幽界や霊界に入ってから、霊界には馴染めなかったり、現界に執着し過ぎて輪廻転生を起こした場合は、其の先祖霊と其の先祖との霊線は切れて仕舞います。此の様に無限な数の先祖霊が居る訳では有りません。
 浄霊という先祖霊供養は先祖霊からの慈悲や加護を戴く事が出来ます。
 守護霊
 自分に取っては好意的な霊の事です。結婚する事に因って相手の先祖は守護霊に成る要素を持って居ます。又、普段から無欲で好意的に他人を助けたり、面倒を見たりすると守護霊は増えて行きます。人や動物、植物に好かれる人は霊人にも好かれ、守護霊は増えます。
 浄霊という守護霊供養は守護霊からの慈悲や加護を戴く事が出来ます。
 霊流:全てを満たす要素の輝きの光
 霊流とは、浄霊と幽体の生命維持の源です。其れは完全体の情報を含み、霊格が高い人程高濃度の情報を受け取る事が出来ます。現界で受ける霊流は二次的な間接霊流なので薄いのですが、霊格の向上に因っては、接骨や臓器等の修復をも可能にします。
 水や氷に反射してキラキラ眩い輝きは霊界の太陽の輝きにそっくり。
 霊界の構図:霊界は凸レンズの様な世界
 光の世界は、民の世界、天界は中心の天上界の太陽を中心として、円錐状に裾広がりを為して居る。だから、天界は民の世界因りも中心に有り、其の中で霊格が高く成る程天上界の太陽に向かって近付いて行くので直接霊流を浴びる濃度が高く輝きの光は強い。真上に太陽が有り、下界に行く程(民の世界)霊界の太陽は目線の位置に下がって見える。又、裾広がりをして居る分だけ直接霊流の濃度は薄く成る。
 闇の世界は、地獄、魔界を中心の青白い光の世界を中心として、円錐状に裾広がりを為して居る。裾は光の世界の太陽の光が漏れて居る(反射)ので薄暗いが、魔界に向かって中心に行く程、霊界の太陽に遠ざかる程闇に成って行く。下界に行く程微かに青白い光の世界からの凍り付いた様な青白い光が射している。
 此の二つの世界の関係は、輝きの光の世界の霊界の太陽は白色の光(有らゆる輝きの光)。其の反対に、闇(冷たい青色)で有る。
 輝きの光の世界と青白い光の世界は真反対の世界だけれども、何れも浄化する霊流は両世界から発せられて居ます。輝きの光の世界は想いを寄せて浄化され向上して行くのに対し、青白い光の世界は強制的に浄化される傾向に有ります。
 秩序
 全ては成る様に成って、有る様に有る。だから、良く考えると全ての建て斗しが分かる。無双原理とは宇宙の法則だから。然し、血が綺麗で無ければ最高の判断力は出来ない。
 霊界の秩序は本来普段遣って無い頭の記憶の中に有る。備わって居るので有る。霊界の秩序は現界の秩序の中心で有るから、現界ではどうすれば安定するのか?と考えれば答えは見付かる。
 身体から幽体が離れた時に、振り返ると仮死状態に成った自分の身体を見る。此は身体が主では無く幽体が主で有る事の証明で有る。人の意識は幽体で有ると言っても良いと思います。幽体が頭も身体も動かして居る。其の幽体は何時も霊界と繋がって居ます。守護神、先祖霊と守護霊が好意的な霊は隣人愛の情愛に満ち溢れた時に影響を及ぼします。凶霊や悪霊等は自己愛に溺れた時に影響を及ぼします。想念が霊界の各界へのトンネルを作り、其の中を霊線が延びて来て影響を及ぼします。天界にトンネルを合わせば其の中を光の霊線が延びて来て良心の考えと行動をしますが、地獄や魔界にトンネルを合わせば其の中を黒い霊線が延びて来て悪意の考えと行動をします。其其の想念が各界の霊人達の影響を受け、考えや行動を極めて行きます。其の霊線が増えれば増える程更に極めて行きます。自分の良識の判断を越えて仕舞い気付いた時には大きな犯罪を犯した後だったと言うのも此の様な結果です。
 血の繋がった先祖を先祖霊と言います。子は親に似ます。先祖の霊界の住所(霊格に因って決まる)に因って其の影響を受ける為に運命や能力も影響を受けます。又、謙虚に慈悲を受け悟れば、守護霊からは更に強力に影響を受ける事に成ります。先祖を遡って行き、何代か先に地獄・魔界に居る先祖が居ると、当然其の影響を受ける事に成ります。又、其の先の先祖が民界や天界に居ても影響を受ける事が有りません。実際には霊線で繋がって居ても暗い世界の影響を受けて更に其の先の明るい世界の先祖の影響を受ける事は有りません。ですから、先祖浄霊を行い先祖が皆天界の住人に成れば其の影響力は大きい。更に守護霊の影響力を以て加速する。現界での生活は守護霊の選択に因って運命も能力も変わります。
 民界の住人は現世と同じ様な生活を送って居ます。馨と音楽と光は基本的な霊格向上だが、興味の有る集落にドンドン移動して感動や感謝の想いを増すと更に霊格向上をする。民界から天界への向上は、精霊が舞を舞って綺麗な光と音楽と共に天界から迎えに来ます。爛々と輝く霊界の太陽を真上に見て、天界は光に満ちた世界で、目が慣れないと周りの情景すら見えない。此処での生活が時間を経て民界に移行します。天界の上には火の壁を越えると天上界が有り、其処は霊界の太陽の中。霊界の中心です。霊体では無く想念だけの世界です。
 地獄を越えて下降し、魔界を越えて下降すると、青白い光の世界に出ます。其処は氷の世界。欲を抜き取られ感情の無い世界ですから、氷に同化して居るので霊人を発見するには骨が必要です。中心に有る神殿から発して居る輝きの光に引かれて行くと、神殿の中心から天界に吸い込まれて行きますが其の時に感情が与えられます。
 神霊治療は守護神、先祖、守護霊の力を借りて行うのだが、大切な事は悪意の有る霊性を受け入れるべきトンネルを切断する事で有る。そして、患者に守護霊を増やしてあげる事が大切です。そして体術を駆使して身体を修復する。
 感じる・・・
 誰しも見えないものを見たいと思う。然し、見たい見たい!と言う欲望は必ずしも成就されない。見えないから否定する・・・・・・更に心が翳り唯物論者に成り神から遠ざかり、運命は下降し狭い世界に生きる事に成る。詰まらない生き方・・・・・・。
 目に見えないのなら心で見る感じる様にと心を開く事が大切。そうするとスッと心に光が差して見えないものの存在を感じる様に成る。其処から心の扉の向こうの世界を知る。感激の瞬間!
 霊界の太陽と現界の太陽は酷似して居る
 霊界の太陽から発する霊流(光と熱)は霊体への全てのエネルギー供給。現界の太陽から発する光と熱は間接的に身体へのエネルギー供給。
 現界に於いて、其の霊流の光を反射させる事は誰でも可能です。心身を浄化する(綺麗にする)と霊流の通過(受けと放射)が良い。
 ページ(座標)の移動
 霊界では同格の霊界の移動(同座標内の移動)が原則です。霊格向上を図る人は輝きの光を求めて移動している。
 ホットライン
 守護神、先祖霊、守護霊と何時も密接な関係に有る人は、何時も慈悲を受けて居ます。守護神、先祖霊、守護霊の霊格が高ければ高い程、そして、其の慈悲に報いるだけの悟りをすると、益々御陰は幸福感に満ち溢れます。
 錯覚
 神は求める者にしか答え無い。勝手に現れる神は居ない。神が現れる時は、輝きの光と、浄化される綺麗な音楽と、心地良い馨を伴う。低級霊は雑音を伴って現れる。
 心の世界に成る
 花の心、草木の心に同調する。命有るもの、其の想いと思いと命の脈動を感じ、何時しか自身の一つ一つの細胞と同調し、緊張が取れ、時間の概念が無くなり、肉体の存在を忘れ、心だけの世界に成る。時空を超えて世界は広がります。
 病気の治らない人
 全てを自分中心で物事を見て考えて居る人は、周りに同調しない。当然其の事を本人は気付いて居ない。心が歪んで居る。肉体は心の衣だから心の歪みを映して居る。だから心を悔い改めない限り肉体の歪みは取れない。
 想念と病気

 「忙しくて病気をする暇が無い。」と言う人は風邪も引かない。そう言う忙しい人が若しも風邪を引いたら直ぐに治って仕舞います。ならば暇な人が風邪を引くのか?「馬鹿は風邪を引かない。」とも言う。「賢い人は風邪を引くのか?」等と良く言われます。
 忙しい人は気が張って居て、心に隙が無いから風邪(ふうじゃ)が取り憑付けない。

 馬鹿に取り憑いても利がないから、風邪(ふうじゃ)でさえ馬鹿には取り憑かない?
こんな面白い話が有るが、実際に病人は地獄・魔界からの黒い霊線を身体に何本も繋いで居る人が多い。自己中心的な生き方で、神霊や先祖霊や守護霊に見放され、低級霊・凶霊・悪霊に波長を合わせて居て、更に自己中心的な生き方が加速し、更に低級霊・凶霊・悪霊を黒い霊線で呼び込み、其れ等の操りに因って心が歪み、そして、肉体が歪んで病気に成った事に気付いて居無い。運命も下降して行く。
 神霊治療(浄霊)はそう言う低級霊・凶霊・悪霊も根刮ぎ浄霊し守護霊にし、先祖霊浄霊、守護霊浄霊も行い、黒い霊線を繋げるトンネルも切断して仕舞いますが、心の管理が出来ない人は再度自分でトンネルを作り低級霊・凶霊・悪霊を呼び込む事に成り、心と肉体の病に陥る。霊界の秩序を知らない人はそんな繰り返しの人生を送り易い。
 反対に隣人愛の情愛に満ち溢れた人は、光の霊線を繋げ、心が満たされて居る為に心の歪みが無いから病気もし難いし、運命も好転して行く。
 躾をされず、礼儀作法を知らないと、現界の秩序にも気付かない。親の愛情に恵まれないと、先祖霊や守護霊の愛情にも気付かない、ましてや神様の愛情(慈悲)等解る道理が無い。当然人の愛情も解らない。動物や植物の心は更に解らない・・・・・・解らない人生を我が侭に生きる事に成る。心が形成されないから肉体も不完全・・・・・・全ては自分の為にと成るのだろう・・・・・・。
 輝きの光の霊線を繋げて居る人は心が輝いて居るから肉体も輝いて居る。後ろから応援してくれる霊人達が沢山居るから食生活全てに於いて満たされて居る。

 思いと想いと霊線
 些細な欲から大欲・・・・・・欲にも色々な段階が有ります。些細な欲は地獄の一番浅い薄暗い世界と波長が合い、其の霊人達から黒い霊線を繋がられ操られます。欲を深めるに連れて深い魔界と波長が合い、其の霊人達から黒い霊線を繋げられ操られます。
 尊い想い・・・・・・隣人愛の情愛に満ち、優しい心を育て深めて行く程、天界の世界と波長が合い、神々から金色の霊線を繋げられ愛と慈悲を戴け光り輝きます。
 愛情
 愛情と言う表現は、「優しく♪」と勘違いしては行けない。「厳しく!」も愛情で有る。其れは【真意】に気付かなければ解らない。【誠意】も然り。
 偽善者
 どんなに綺麗事を言っても偽善者を偽っても、心が偽って居たら(嘘吐き)偽者で有る。其の人の目が物語って居る。心から善人に成らなければ何時も心の底でビクビクした生活を送り、罪を重ね、何時か爆発して仕舞います。
 善人は心に陰りが無く、目は澄んで居る。
 植物と霊界
 植物は霊界の各界層と密接な関係に有り、霊格に応じた界層の同植物から二次的な間接霊流を受けて居る。そして、霊界の太陽から現界の太陽に直接霊流が移行し、現界の太陽から注がれる二次的な直接霊流を受けて居る。此は人間とて同じ原理で有る。
 奇跡
 欲の無い祈りが神様に通じた結果に起きるもの。其れは、神様にどれだけ尊い想いが通じたかに因って結果に差が出ます。神様の慈悲と加護で有り、先祖や守護霊の慈悲と加護で有る。隣人愛の情愛の想いは、神様、先祖、守護霊から加護を戴けるから、神様に好かれる様に心の管理の努力をする事が尊い。神様に答えを戴く迄祈り続ける努力も尊い。 奇跡とは神様が気付かせてくれたと言う事。
 
病気や怪我、運命の下降も成る様にして成った訳で有り、其処に必ず原因(欲)が有り、黒い霊線が作用して起こった成り行きで有る。奇跡(好転)を得るには自己浄霊と心の管理に尽きる。
 子育て
 親は子供が産まれたら、躾、礼儀作法を教育をする。そして、学問を教育して一人前に育てる。其れを怠る親は指導者として失格で有り霊性が低く、成長した子供も当然霊性が低い。霊格向上に目覚め難い。
 1歳未満で亡くなった赤ちゃん
 多くの場合、1歳未満で亡くなった赤ちゃんは、霊界では光りの世界に戻り、其処で現界での記録を消され再教育を受けて現界に転生します。一般の輪廻転生をする人と違って霊格は落ちない。


 

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