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米の値段(夜明け前の先覚者)
 渡辺 登は田原藩主三宅土佐守の家老、画家華山と号した。寛政五年(1793)9月16日ni生まれた。田原藩の領地は僅か一万二千石余りの小藩。華山は、その一生の大半を麹町で過ごしている。
 華山が生まれた頃の渡辺家の収入は十五人扶持(ふち)[一人扶持は一日五合の日給でこの場合七升五合]石高に直すと二十七石。所が実質年間の手取は十二石足らずだった。
 この当時300石(600万=1石を2万円として)の知行取りでその実質収入は100両(200万円)年間3両(6万円)の不足が出たというから、渡辺家の場合の二十七石は実収は九両(18万円)今の月収のして15000千円だったのだからその窮乏振りは理解出来よう。八人兄妹だった華山の家では、口減らしの為に弟妹達は寺に貰われて行ったり、奉公に出された。生活の助けの為に習い始めた絵が、後年彼を画家にした。こうした環境で育った華山と洋学の洗礼を受けて来た高野長英と、三英・・・・・・そうして天保と言う時代。それが夜明け前の先覚者が通らねばならなかった蕃社の獄へと繋がって行くのだ。
 天保四年は出羽の国で大洪水が有り奧羽地方は米や麦がすっかり駄目になって仕舞った。その上八月に入って関東地方は風水害に襲われた。
 この為米価は高騰した。夏には一両で五斗、八月の大雨の後は四斗一升となった。
 三年前の元年三月に一両で六斗九升五合、九月に八斗五升五合も買えた事を考え合わせると、倍以上も米価が上がった事になる。この値上がりは日用品等の物価に大きな影響を与えた。
 幕府はこの年、救い小屋を江戸の各所に建てて物価高に喘ぐ江戸市民を救財した。10月24日、町奉行が幕府に、すでに31万8千人余りの江戸町民の男(15歳―65歳)に一日五合、女三合の割で米を与えたが、尚飢える者が有るので、再度米を与えて欲しいと願い出ている。天保五年の人口調査で江戸市民は522,754人となっているから江戸市民が、今で言う生活保護の対象者となったので有る。然し、更に物価の値上がりは続き、翌年六月には千住で米屋が打ち壊しを受けている。天保七年は、春から酷い冷害になった。六月には寒くて綿入れを着る程だった。7月18日、関東、東北地方は台風に襲われた。予想も出来ない凶作となった。米価は高騰し、一両で三斗五升しか買えなくなった。この頃の高給取りと言われた大工が一日の賃金は四匁五合で二十日働くとして九十匁。ほぼ一両と同じなので、三人家族で一ヶ月やっと食べていけるだけという苦しさだった。
 この米価を昭和41年に直すと一石(二俵半)は約2万円で、天保七年の大工の手間賃は月額にして七千円足らずと言う事になる。この物価高は例え様もなかった様だ。
 06/02/01 吉野 誠

 税のかからない商売
 商人は独自の発展を遂げていた
 商人は、士農工商と言われる四つの階級の中で、手工業の下の最下位に位置していた。
 商人は町の中で自分達に割り当てられた地域に居住しなければならず、同業組合で組織化されていた。京都と大阪の二大都市では、手工業者を入れると、住民の過半数に達していて、町の管理にも携わっていた。幕府のお膝元の百万都市江戸では、商人と手工業者を合わせると四十万人以上で、五十万人の武士に次いで多かった。当時日本は二百六十余の藩に分かれていたが、各藩の大名の居城が有った都市にも商人地区が有った。日本全国では約二百万人が商人階級に属していた。手工業者の総計は百万であったから、合わせると、全人口の約十パーセントが商人と手工業者だったと言う事になる。
 日本の商人と手工業者は、政府である幕府から事実上全く注意を払われず、言わば無視されていたという点で、得意な立場に有ったと言えるだろう。政府の統治の枠組みの中には商人と手工業者は入っていなかった。手工業者は人々が生活する為に必要な道具を造る人達で有り、商人は品物や食料を売る人で、課税の対象として特に重要で有ると思えなかったので有る。
 日本の商人達は、この統治者に軽視されていると言う立場を数世紀に渡って逆にメリットとして来た。言わば政府の関心の外で独自の発展を遂げる事が出来たので有る。
 又、国内市場が統一されていた事は、彼らに大きな可能性を与えた。当時日本には、既に陸路に置いても水路に置いても全国的な流通網が有った。商品を日本各地から買い入れ、日本各地へ売り出すと言う発想はごく自然な事だった。
 日本全国何処でも同じ度量衡を用いており、商品を取り引きする時の梱包の大きさも同じだった。ヨーロッパでは考えられない事だが、当時の日本では既に高度な規格化が実行されていたので有る。例えば畳も関東と関西の相違は有るが、全国ほぼ一律の大きさだったから、どの地方の家にも敷く事が出来た。建具の大きさも、全国的に統一されていた。金持ちの家でも、貧乏人の家でも、町でも、農村でも同じだった。その結果、火災やその他の大災害の為に家を再建築しなければならない様な場合、寸法に合わせて新たに注文する必要はなかった。在庫の品を直ぐ使う事が出来たし、畳や建具等も、災害を免れた建物に使われていた物を利用する事が出来た。貧しい民の掘建て小屋の戸でも、一般市民の家の敷居は勿論、大名屋敷の敷居にも填める事が出来た。貧富の違いは製品の大きさでは無く、材料の値段や品質の差だった。
 通貨も全国的に統一されていた。ドイツでは1870年代に至る迄徴収されていた国内関税などと言うものは、日本では既に17世紀が始まる前から無かったので有る。
 商人階級は、幕府が彼らを重要視しなかった事によって、農民よりも更に徹底した自主自立を享受する事が出来た。大名が遣って来て、税を要求する事等無かった。
 京都、大阪、長崎、堺、新潟等の直轄領では、幕府が行政官を派遣していただけで、事実上商人達によって自主的に運営されていた。行政官の主な任務は、これらの都市が幕府の法律を遵守しているか、不穏分子による反政府的な動きが無いかを監視する事に過ぎなかった。
 中でも人口三十五万の京都は、日本で最も古い伝統豊かな商人の町で有った。天皇が居住する御所は有ったが、天皇や皇族の存在は、京都の人々の日々の生活においては、例えば、ウィーンにおけるハプスブルク家や、サンクト・ペテルブルクにおけるロシア皇帝の存在よりも遙かに小さなものだった。
 京都は当時から、何千人もの神官と僧侶のいる神社仏閣の町でも有った。神官と僧侶は四民(士農工商)以外の身分で、京都と言う町にとって重要な役割を果たしていた。神社や寺には毎年何十万人の参詣者が訪れ、それは町の大切な財源にもなった。
 京都の商人と手工業者は町毎に町内会の様な自治組織を設置し、約四千人の世話役(行政官)を選出した。彼らは、京都程の大きさの都市には必ず生じる様々な任務を遂行した。大きな神社仏閣も、この自治組織に参与する権利を持っていた。町は、消防隊を運営し、警察も維持した。様々な重要な係りが有った。例えば戸籍簿を作成する戸籍係りとか、公正証書や遺言書の執行に関する問題を処理する登記係り、道路や橋の建設、修理などを担当する土木係り等で有る。
 町内会は、種々の同業者組合と合意の上、営業税を取り決めた。これが町の最も重要な収入源で、この税収によって全ての公共的な事業が負担された。
 京都は古くから絹織物の中心地だった。町には鎖国時代を通じておよそ一万台の織り機が有り、贅沢な布地を織る専門工が沢山いた。芸術性豊かな技巧的な柄を織るので、一台で一日僅か10センチ、どんなに織れても1メートルがやっとだった。刺繍や彩色の施された物も有名で有る。京都における年間の絹製品の生産量は、約三百万メートルで有った。綿織物も含む日本全体の繊維工業の総生産量は三億メートルを越していたから、京都の生産量は極僅かで有る。しかし高価な布地に芸術的な柄を織り込んだ京都の絹織物は、その金額に関して言えば、群を抜いて頂点に立っていた。
 京都では、他にも印刷、製本、青銅製工芸品、刀剣、陶磁器、漆工芸、それから薬剤等の製品が作られた。
最初の大商社が出来たのも京都で、1717年以前の事で有る。支店網は大都市に張り巡らされていた。
 京都の大手の絹物商人達は、高級品で無い極普通の絹織物が全国でどの位の需要が有るのか分かっていた。しかしそう言う商品を京都で織らせるのは経済的でなかった。其処で彼らは地方の養蚕を営んでいる農村に目をつけ、資金を投下して其処に何千台もの織機を設置し、大衆向けの安価な商品を織らせた。村は絹物商と長期に渡る納入契約を取り交わす事によって安定した現金収入を確保し、その収入を資金の返済に当てた。
 巧みな組織化の例として、良い匂いのする樟脳の流通が上げられる。樟脳は一般に防虫剤として広く知られているが、内用薬としては心臓や循環器の病に使われ、外用薬としては筋肉の痙攣と打ち身に良く効くと言われている。樟脳は、樟木から採れる。樟脳の油が採れる木は、少なくとも10年から20年は育っていなければならない。原料を取る場所は、樟木が野生で育っている主に辺鄙な山岳地帯で有るにも拘わらず、その売買の中心地は京都だった。それは供給ルートがきちんと組織化されていたからこそ、起こり得た事で有る。
 鎖国時代に日本国内の樟脳の供給ルートが巧みに組織化され、広範囲に及んでいたことは、日本が開国後、世界最大の樟脳の供給国となり、ヨーロッパやアメリカに原料が大量に船で送られたことからも良く分かる。
 京都は又日本の銀行発祥の地でも有る。最初の設立は1637年に遡る。所謂「両替商」と言われた銀行は僅か数十年の間に飛躍的に発展し、全国的な金融機関となった。顧客には信用貸しをし、抵当権を設定し、手形証書を発行し、商品取引、先物取引に資金を提供した。
 当時の日本の銀行制度は、恐らくイギリスとオランダを除いたヨーロッパの他のどの国よりも遙かに進んでいた。主に卸売り業者を取引先とする大銀行の他に、個人を対象にした小規模な銀行も有った。其処では一般市民が僅かな貯金を預け、利息を稼ぐ事が出来た。小さな店先には、商標として蹄鉄が入り口に掛かっていて、塵紙、油、糸等の日用品も売られていた。
 大阪は全国各地から集まる商品の最も重要な積み替え地で有った。大阪には京都とは又違った商人ならではの心意気が生まれ、花開いた。大阪には前述した様に巨大な米蔵が有って、全国各地から米が集まった。米蔵は大阪の商人達によって維持、管理されていた。彼らには地域を越えた米取引に対する特別の認可が幕府から与えられていた。商品の取引市場では、米の他にも海産物、野菜、果物、大豆、乾物、油、藁紙等の価格が決められた。
 大阪で付けられた価格は、陸路で600キロ離れた江戸に伝わり、江戸での物価を決定した。1700年以降、大阪の取引市場で決められた価格は、八時間以内に江戸に伝達する事が可能になっていた。その方法は旗による信号だった。ヨーロッパの船舶交通で使われた信号と似た物で有る。この為江戸と大坂を繋ぐ街道沿いには、山の頂上や山腹に旗小屋が設置され、天候が許す限り、毎日価格が伝達された。但し箱根の近くの短い区間だけは人が走らなければならなかった。其処は、旗による信号の伝達が出来ない峻険な地形だったからで有る。
 江戸の人口は、既に1700年前後には100万人の大台に近付いていたが、1750年頃には150万を超える迄に増加した。この人数の住民を養って行く為には、膨大な量の食べ物と消費財が必要で有る。二百六十余人の大名達はそれぞれ江戸にも屋敷を維持し、多数のサムライたちを養わなければならなかった。その頃、江戸には総勢少なくとも70万人の武士がいた。
 江戸の商人も手工業者も自立していた。彼等も役所との摩擦を少なくし、大名家への物品の納入を確保する為に自主的に組合を作っていた。
 経済の中心地で有る京都、大阪と江戸との間の交通量も当時としては相当なものだった。鎖国時代を通して、毎年百万人以上の旅行者が京都・大阪と江戸の間の海路、陸路を往復していたと『日本町人道』で原田伴彦は述べている。
 江戸と大坂を結ぶ有名な東海道は、完璧に整備されていた。宿場として五十三カ所の中継所が設けられていて、全行程が凡そ4キロ毎の旅程(一里)に分けられていた。至る所に厩舎が有り、何時でも馬が交代出来る様に配備されていた。五十三カ所の宿場にはそれぞれ旅館、食堂が有った。安価な木賃宿から豪華な旅館まで様々で、温泉の有る旅館も有った。大きな風呂が有るのは当たり前だった。その他に遊興施設、音曲、踊り子、芸者組合等も完備していた。宿場の近くには店が出来て、土産物等を売っていた。詰まり、今日と何ら変わらないと言う事で有る。
 宿場は同時に郵便局でも有った。郵便物の輸送と配達は、飛脚と呼ばれる特別な商人組合の手に任されていた。飛脚制度は既に1614年から有り、手紙と荷物の全国的な輸送を一手に引き受けていた。郵便物の配達は日時が正確で、確実だった。料金は距離によって異なっていて、江戸と京都・大阪間では手紙が六日かかるのが普通だったが、定期的な速達便も有り、その場合は三日で届けられた。
 1746年には、飛脚組合は個人客に配達を保証する事が出来る様になった。これは貴金属や手形証書、その他の貴重品や書類の送付に重要な事だった。
 幕府も、商人が営む郵便事業を公文書類の送付に利用していた。幕府の書類を配達する郵便配達人は、特別な配達人で有る事を示す為にワッペンを付け、特別な銅らを持っていた。特別配達人は何時も二人で努めた。もし一人が支障をきたした時には、もう一人が目的地迄配達出来る様に。二人の特別配達人が通りを走ってくると、人々は皆脇へ退いて場所を空けなければならなかった。有力な大名で有っても同様で有った。
 こう言った遣り方は、他の街道でも、東海道程きちんとした形ではなかったが、大体同じ様に行われた。
 開国してからは、郵便制度はヨーロッパの遣り方を範として国営化され、古い飛脚組合は解体した。郵便局員となって郵便局に勤める事を希望しなかった商人は、別の新しい仕事を探さなければならなかった。独自の運送会社を設立する者もいた。その中には、土佐藩の岩崎弥太郎が設立した三菱グループの様に、今日、全世界に広がる支店網を駆使し、独自の商船、飛行機を持って年間何百億ドルもの商取引をしている会社も有る。
 旧東海道も開国後その様相を変えた。何世紀にも渡って整備され、人が歩き馬が通った道に沿って、線路が敷かれ、鉄道が走る様になった。古い宿場は鉄道の駅になり、近代都市に発展した。鎖国時代に、既に道路網、運輸組織が拡張され、完備されていた為に、難なく移行する事が出来たので有る。それは工業化が始まった時、近代化の準備が殆どなされていなかったヨーロッパよりも遙かに容易で有った。
 又どの町の商人達も、農民と同じ様に、寺子屋と呼ばれる独自の学校を運営していた。其処では読み書き算盤と言う基本的な勉学の他に、音楽、習字、墨絵、歴史、地理と言った物も教えた。商人と言う立場から、簿記とか金融、商人としての心得等を実践的な教育が行われていた学校も大都市には有った。学校の経営には、その区域の商人達から集めた資金と、生徒の親が支払う授業料で運営された。
 この時代に通信教育制度が有ったと言う事は注目に値する。通信教育はヨーロッパでは極最近のアイデアだと思われているが、日本では、既でに18世紀の初めに通信教育を専門に行っている学校が有った。その狙いは普通の寺子屋で得られない知識を教授する事で有ったた。通信教育の学校の先生は生徒に文書で課題を与え、それを郵便で送った。生徒はその課題と取り組み、要求された解答を返送し、誤りを正して貰った。
 通信教育学校は時には全国各地の何千人という男子生徒、女子生徒達を指導した。教師達は折々に各地に出向き、生徒達は定められた場所に集合した。場所は大概裕福な商人の家だった。其処で先生と生徒は課題と解答に付いて徹底的に話し合った。興味深いのは、通信教育の受講生は往々にして女性が多かったと言う事で有る。この事は、女性も当時向学心に燃えていた事を示すと同時に、当時は男性中心社会だったので、彼女達の向学心に答えてくれる場が少なかった事を示している。
 都市には、低額な料金で様々な分野の書籍を借りる事が出来る貸本屋が有った。何千冊もの本を整えている貸本屋も少なくなかった。古い貸し出し帳を見てみると、一番人気が有ったのは、気軽に読める娯楽小説で、芸者に恋の物語、逸話を集めた物、銭湯や床屋で話題になる世間の噂話や小噺旅日記、冒険物語等で有る。
 その次に好まれたのは、今日ハウツウ物と言われている実用書で、何処で何を買う事が出来るとか、自分で何か一旗揚げるにはどうしたら良いかとか、如何にして健康を保つか、地震、大火事、台風と言った大災害の時はどう行動すべきか、その他、倫理、道徳、礼儀作法等の本で有った。
 こうしてみると、日本は本当に「素朴な小売商人の国」だったのだろうか。そして、開国後あっと言う間に世界有数の工業国に発展した事は、ドイツ人記者の言う様うに、不可思議としか言い様の無い事なのだろうか。
 著者はそうは思わない。子細に調べてみれば、恰も蝶が蛹から羽化する様に、自然な事だと分かる。ドイツで関税のバリケードが完全に取り払われるのは二百五十年以上も前に、日本の商人達は、通行税や国内関税に妨げられる事無く3000万人の市場に対応する事が出来ていた。交通網等の所謂下部構造が網の目の様に張り巡らされ、全国各地に商品とサービスを提供する事とが可能で有った。それはドイツよりも遙かに早い時期で有る。
 日本の商人は、幕府や大名の専横に悩まされる事がなかったと言う事に付いて、もう一度言及しておきたいと思う。何故かと言うと18世紀及び19世紀初頭のヨーロッパでは、平和な時でさえも、如何にに専横や独裁が横行していたかと言う事を忘れがちだからで有る。
 それに引き換え日本では、長期的な計画を立て、従業員がベストを発揮出来る様に彼らを扱う術を会得し、顧客との関係は信用第一と心得て、これに専心するならば、規模は小さくても確実な地位を確保する希望を持つ事が出来たので有る。
 然し、そうは言っても、成功する事は決して簡単な事ではなかった。
 鎖国時代を通じて国内市場での競争は激烈だった。1700年頃には、既に市場は殆ど飽和状態だったので有る。貨幣経済は十分に発達しており、資金はかなり均等に国民に振り分けられていた。大富豪もいなかったが、悲惨困窮者も殆ど見られなかった。
 然しそれ以降、日本の市場は常時商品の供給過剰に悩まされた。とにかく働きたい人間が多過ぎるので有る。日本は徹底的に供給過剰社会で有った。
 同時代のヨーロッパには、パリやロンドン等幾つかの例外を除けば、「都市」は無く、人口に万人に充たない町が点々として、鉄道の敷かれる前は交通の便も悪く、自給自足だった。絹、木綿、磁器、調味料、茶、砂糖、オレンジ類は、特別の商人ギルドを通して遠くから、主としてインドや中国から仕入れなければならなかった。品物は常に不足しており、希少価値を保っていた。それは、商人が顧客を振り分ける社会、即ち「売って遣る」「買わせて戴く」の社会で有った。
 日本では逆で、商品が市場に溢れていた。それは「売らせて戴く」「買って遣る」の社会で有る。市場で生き残りたいと思う手工業者は、何か新しい物を絶えず考案しなければならなかった。彼らは、製品の品質を改良するとか、形や色を変える等して、何とか競争で頭半分でも前へ出ようと努力した。誰もが同じ目標を追っていたので、着想が斬新で、品質が良く信頼性の高い製品だけがチャンスを掴める市場が発達した。誰かが何処かで買い手の注意を惹く様なな新しい物を作り出すと、瞬く間にそのイミテーションが市場に現れた。
 商人達は最も大切な資金と顧客を宝物の様に扱った。顧客の信用こそが第一だった。狭い閉鎖された社会では悪い評判が立つ様なな不誠実な行いをする事は出来なかった。例えそれで大金を一度は儲ける事が出来ても、評判が崩れると言う事は、人生が崩れる事だった。他の場所に移って働く事は空間的にも社会的にも難しい。働く場所は何処も一杯だった。
 今日、日本の工業製品は、細部に置いては欧米の製品より優れた物が多いと一般に言われている。日本製品は大体何時もデザインが良く、コンパクトで有る。品質も高く、日常の使用においても信頼がおける。形や使い勝手も欧米の品より着想が豊富で、設計等もより入念で、機能性にも優れている。数十年程前迄は未だ全盛を極めていた欧米諸国の工業部門を奈落の底に落とした日本人のこの能力は、一体何に由来するのか。その答えは、400百年前に始まっていたので有る。日本が統一した経済圏として纏まり、その後、鎖国と言う条件の中で、品質に対する高度な意識と商人的能力とを発展させた400年前に始まっていたので有る。

 驕れる白人と闘う日本近代史 著者:松原 久子  06/01/11第十五回目 吉野 誠

 
縦糸と横糸
 ヨーロッパではキリスト教という一神教が、唯一の精神的権威として人心に君臨した。君臨しただけでは無い。政治的権力を持って人心を統制した。キリスト教の掲げる教義が本当に浸透しているか否かを極め細かく探り、信仰の中身を問い詰めた。その中身が教会の意に添わなければ、その程度によって、叱責、悔恨の強要、刑罰、破門、或いはは焚刑に処せられた。然し人間は、信仰に付いて決して完全に統制され得るものでは無いから、ヨーロッパでは早くから反駁、反論の精神が台頭したので有る。言葉で自分を巧みに防御し、相手を攻撃し、言葉の罠を最小限食い止める術を身に付ける事は、ヨーロッパでは、暫し生死に関わる問題だった。
 日本では、一つの教義を絶対的真理として信ずる様に強制される事はなかったから、違った信仰を持つ事は命に関わる危険な事ではなかった。日本では反駁の精神を煽り立てたり、燃え上がらせたりする一神教は存在しなかった。又世俗の世界でも、古い時代に見られる様な絶対専制君主はいなかった。その為、日本では言葉の使い方が不得手で有る。優雅さを湛えつつ、ぴしりと叩き付ける。微笑みつつ、ぐさりと切り付ける。その防御と攻撃の武器を日本人の殆どが身につけていない。そう言う必要性がなかったから、その能力に欠けていると言う事である。
 十九世紀後半以降、個人主義の人間は自分が尺度である、言う事が何度なく復唱されて来た。個人主義者は、何が正しく、何が正しく無いかを、自分を取り巻く社会の判断に左右される事なく自分自身で承知していると言うので有る。
 然し今日では、この様な楽観的な考えは、もはや誰も本気で信じなくなって来ている。正邪善悪の尺度を内に持っている筈の個人主義者達が、余りにも悲惨な問題を次々に起こすからだ。銃を自由に保持する事の影響、麻薬が惹き起こす犯罪、轢き逃げの常習化、離婚率の上昇。どちらかの親がいない家族が増加し、少年少女の家出は珍しくなくなり、未だ義務教育中の少女が頻繁に妊娠する。誘拐殺人も流行している。社会の混乱振りを示す事件は枚挙に暇が無い。政治家や大企業トップ達の、法律の裏をかいた犯罪も増加中。個人主義、個人の自由と言うものに高い価値を与えた事は、本当に人間を幸せにしたのだろうか。人間は果たして正しい尺度を自己の内面に持っているのだろうか。
 生存空間が無限に有り、資源が限り無く利用出来ると言う条件の下に築かれた古い個人主義はゆっくりと消滅し、その代わり連帯、仲間意識を求める声が湧き上がって来ている。利害・関心の共有、住民運動、チームワーク、これらは全て古いタイプの個人主義とは相いれない概念で有る。
 それは丁度鎖国時代の日本が、二百年以上もの間体験したのと同じ状況で有る。何処か別の所へ出て行く事が出来ず、過密状態の中で、日本の社会は生き延びる工夫をしなければならなかった。い如何に上手く生き延びたか、一考する価値は十分有るのではないか。
 それにも関わらず、今以て日本人の生き方は「大勢追従主義」と言う否定的な性格付けがされている。大勢追従主義とは、確固たる意思も無く服従する人間、或いは、自己の意志を貫く精神力も無い人間の事を言う。
 欧米で、日本の「大勢追従主義」の原因に付いて尋ねてみると、日本人には自我が無いと言う答えが必ずと言って良い程返って来る。日本人の均質的な行動は、何世紀にも渡って個人の自由な意思が抑圧された結果で有ると言う。
 日本にもこの意味の個人主義者は沢山いる。彼らは他の人達と何ら変わりが無く、協調を心がけている。自分の利害に関わりの有る摩擦が起きても、西洋人よりも一歩も二歩も多く退いて、がむしゃらに自己を押し出す様な事はしない。
 もしみんなが自我を全てに優先して仕舞ったら、社会は崩壊すると言う鎖国時代の感覚が一貫して未だ生きているので有る。
 地球上の人間はやがて100億人になるだろう。人間は生きて行く空間と資源を分かり合わなければならない。譬え浪費を慎み、環境を大切に扱ったとしても、何時の日か必ず限界が来る。その事を心に留めて、今一度、日本の歴史が培って来た智恵に目を向けてみるべきではないだろうか。

 著者あとがき
 アメリカの国益とは何か。戦略は国防総省や国務省、CIAのみならず、各地のシンクタンクで長期的な展望の下に練られている。戦略実行となれば、マスコミは何のかんのと議論しつつ様々なリークを伝え、扇動し、結局は戦略を正当化する。全ては複雑にして巨大なシステムで有り、これこそが世界を震撼させるアメリカの武器で有る。
 この本書のテーマで有る処の欧米の攻撃的対外姿勢の当に延長線上に有る。

 著者:松原 久子

 猿の踊り
 日本が欧米から学んだ「武力の政治」
 欧米が日本に与えてくれた教訓の中で、最も悲しい教訓は、強くなければならない、欧米に支配されている世界で生き延びて行く為には、軍事的に強くなければならないと言う教訓だった。
 1871年から72年に掛けて、明治になって最初の海外使節団が、日本が通商条約を交わしている十一カ国全てを歴訪した。然し何の成果もなく帰国した。
 それは五十人からなる使節団で、三十歳の伊藤博文が副使だった。彼らの任務は、不平等な条約を改正出来るかどうか、欧米諸国の意向を探る事であった。
 世界一周の旅の最初の逗留地ワシントンで、一行は大歓迎を受けた。市内見学があって、正装に威儀を正した公式なレセプションがあり、続いて祝宴が催された。アメリカ政府は、日本に住んでいる外国人が日本の法律を全面的に尊重し、守らなければならないのは当然であり、その事に意義を挟む余地は無い事を強調した。違法が訴えられた場合は、本当に違法があったかどうかを確信するのは領事館の役目である。アメリカ政府は領事館員の権限を侵す事は出来ない、と述べた。
 「それで5%付帯条項は?」と日本側は尋ねた。
 アメリカで南北戦争が終わったのは、僅か六年前だった。奴隷の解放によって、一般市民が人種問題に関心を持つ様になっていた。工業化が丁度始まった所で、離村した農民とヨーロッパからの移民が都会に氾濫し、至る所でスラム街が生まれた。最初の大陸横断鉄道が出来たのは1869年である。然しし西部と南西部全ての州では、未だ先住民の散発的な反乱があった。
 この様な状況の下で、通商条約に於いて明確に保障されている特権を放棄する等と言う事は、アメリカ政府から見れば愚かとしか言い様の事だった。
 不平等条約の改正交渉は、あっけなく失敗した。
 ロンドンでは、極東からの賓客はアメリカ以上の輝かしい歓迎を受けた。その歓迎振りは華やかさと植民地帝国の自信に満ち溢れていた。だが不平等条約の改正の話になると、大英帝国の政府は冷ややかに拒絶の態度を示した。
 フランスは晋仏戦争に敗れ、血生臭いパリ・コミューンの後の混乱状態にあった。
 勝利を収めた独逸側から、三年以内に五十億フランの賠償金を支払う事を課せられていた。出来たばかりの第三共和国政府は、日本に譲歩すると言う話には、耳を傾ける余裕が無かった。日本使節団に敬意を表して、最高のワインと食事で大晩餐会を催すのが精一杯だった。
 その後、ベルギー、オランダ、ロシアでも素っ気無い返事の連続だった。
 ドイツでは、使節団一行は、普仏戦争の勝利の美酒に酔い、ドイツ帝国建国の成功に鼻高々のドイツ人を目の当たりにした。使節団は、ヨーロッパの中心で勢いに乗った新興国の姿と軍事力の意味を心に刻み付けたのだった。5%付帯条項についてドイツ政府と話が出来無いかと問うと、鋸の歯のようにギスギスした「ナイン!(否!)と言う答えが返って来た。
 デンマーク、スウェデン、オーストリアでも答えは同じだった。 
 イタリアも、丁度初めて国家としての統合がなされた時だったので、使節団と交渉すると言う雰囲気では無かった。スイスですら、列から離れてダンスをする理由は無いと言って断った。
 失望の連続だったが、途中で使節団の半数は日本へ帰る事になり、残りの半数は、日本もパビリオンを出している1873年のウィーンの万国博覧会を訪れる事になった。
 ウィーンでは、彼らは失望しなかった。ヨーロッパの観客は、日本のパビリオンに展示された伝統的な柄の京都の絹織物の優雅さに魅了されたのだった。博覧会の主催者はこの評判を評価して、日本に「進歩の賞牌」を贈った。
 然し「進歩」とは何か。欧米人が理解している真の進歩とは何か。伊藤を始め当時の日本を代表する政治家達は、それは少なくとも美しい絹織物では無い事を承知していた。
 使節団が外交上何の成果も上げる事が出来ずに世界一周の旅から帰って来てから、僅か二年後に、日本政府は朝鮮の沿岸で艦隊の演習を行った。南端にある沢山の小さな島々の間を縫う様に測量船を航行させたのである。
 朝鮮は当時、外国との交渉を一切排除し、中国とだけしか国交を持っていなかった。極貧の農民達と豊かな大地主からなる少数の上層階級との間に、極端な貧富の差のある王国だった。支配者達は戦闘的な反ヨーロッパ主義者だった。既に1866年頃、上陸しようとしたフランスの宣教師の一行が殺害された。直ぐにフランスが送り込んだ討伐軍は、血みどろの戦いの末撃退されて仕舞った。偶々領海内に迷い込んだアメリカの船も焼き払われた。アメリカの討伐軍も追い返された。
 この様な状況の中で、予想した通り、朝鮮は日本の船団に向けて砲撃して来た。日本はこの砲撃を待っていたのである。日本側は搭載していた大砲の覆いを取って報復し、二つの港町は炎上した。
 少人数であるが強力な精鋭部隊が上陸し、小規模な戦闘が行われた。戦闘的に劣っていた朝鮮の軍隊が優位に立つ事は無かった。日本政府は朝鮮に修好条約の締結を申し出た。砲撃で破壊された二つの港町を目の前にして、死者の数を確認した朝鮮人は、固い表情で「修好条約」に署名した。
 全ては瓜二つだった。
 条約では、朝鮮は日本に三の港を開くこと、その港都に日本の治外法権地域を設け、国際慣習に則って、領事裁判権を行使する事が取り決められた。
 では通商に付いてはどうだったか。
 国際慣習法に厳格に従い、日本の交渉が、朝鮮の交渉人に確約すると言う形で、次の様な通商条約が朝鮮に呈示された。両国間には、「自由な通商」が行われる事とするが、朝鮮が日本から輸入する商品に付いては、関税はゼロとする、と言う物であった。
 国際間の通商の泥沼を知らない朝鮮人は、やがてこの泥の中に首迄沈められて仕舞うのであるが、当時はそんな事を知る由もなく、1876年、この条約に署名したのだった。
 日本が朝鮮に対して行った遣り方は、如何に日本が西洋の精神を素早く、忠実に学んだかを立証するもで有る。下界に扉を閉ざしていた日本が、開国して僅か二十年程で、鎖国政策を取っていた朝鮮を同じ策略で開国させると言う技の達人になった。
 日本はその後一歩一歩、朝鮮半島に於けるその存在感を強めて行った。軍隊を治外法権地域に駐屯させ、観兵式を行い、挑発に挑発を重ねた。反発があれば厳しく対応した。反抗は進歩に対する背徳である事を朝鮮人に理解させた。日本は、ある種言葉遊びの様な法律文書を十分読みこなして、此方に有利な解釈を引き出す訓練を受けた者を、国事代行者として朝鮮に送り、法律を盾にして日朝間の関係改善の交渉に当たらせた。
 日本では工業が日増しに発展していた。特に突貫工事で拡張中の、溶鉱炉と製鋼所と圧延炉を備えた重工業が業績を上げていた。従って重工業が必要とする原料の需要も増大する事になる。石炭、鉄鉱石、そしてニッケル、クローム、マンガン、バナジウムと言った合金属である。此等の原料の大部分は輸入に頼らなければならなかった。
 そしてこの輸入に関しては、日本は完全に欧米列強に依存していた。此等の原料の原産地は欧米列強が世界に所有している植民地だった。日本は日本の重工業が必要としている原料に対して、欧米が要求する金額を支払わなければならなかった。そして更に、戦略上重要な原料の搬入に付いても、欧米の恩恵に浴さなければならなかった。
 日本の商船はロンドン、ブリストル、リバプルール、アムステルダム、ロッテルダム、シェルブール、マルセーユ、ブレーメン、ハンブルク、コペンハーゲン、ニューヨーク、サンフランシスコへ航行する事を許されていなかった。又日本が日本の製品を其処へ運び込む事も許されていなかった。インド、インドネシア、中国へ船で行く事も出来なかった。と言うのは、其処でも欧米列強が全ての港をコントロールしていて、自分達が認可した商社が扱う商品の輸送船以外は出入国しない様、厳重に監視していたからである。
 そいう事だったから、必要な外貨を得る為に、日本が製造した物を輸出したいと思えば、従来と全く変わる事無く、横浜、神戸、長崎その他の治外法権地域にある欧米の商社に、輸出品を持ち込まなければならなかった。そして欧米の商社が決める価格で引き取られ、文句を言う事が出来なかった。
 日本は欧米列強に喉元を絞められていた。その結果、工場労働者の賃金が益々低下した。工場労働者の賃金を下げる以外、欧米の商社が積極的に買ってくれる様な安い価格の商品を製造する事は不可能だった。
 かよう海栗欧米列強によって雁字搦めにされた経済状態から解放される方法を日本は見出さなければならなかった。日本政府は、年々悪化し、流血の騒ぎさえもたらしているこの苦境から抜け出す道は一つしかないと考えいた。
 其処で政府は、未だ欧米の餌食になっていない唯一の原料産出国である朝鮮に、目を向けたのだった。朝鮮には良質な石炭が豊富にあり、無尽蔵とも言える鉄鉱石の鉱脈があった。
 その後、東京では、日本軍の練兵上(後の日比谷公園)に隣接する広大な土地に、舞踏会用の大ホール「鹿鳴館」が、明治政府によって建設された。
 1883年に華やかに落成式が催された鹿鳴館の目的は、外国からの賓客を招いて日本国政府主催の饗宴と大舞踏会を催す事だった。
 日本の一般世論でも、鹿鳴館で毎晩行われている事は正に猿芝居だ、と言う評判だった。国民は不愉快の念を露わにし、新聞は無駄遣いだといって憤慨、非難した。
 政府の見方は違っていた。シャンデリアの下の舞踏会に、大きな望みを繋いでいたのである。シャンデリアの下で踊る事によって、欧米の外交官や重要な賓客たちの心を掴む事が出来、彼等に、日本も西洋化の道を立派に進んでいると確信させる事が出来ると信じていたのである。そうすれば、欧米列強は、通商条約と5%の付帯条項に付いて話し合う気持ちになってくれるだろうと考えたのだった。
 然し四年後の1887年、一連の公式レセプション、舞踏会、仮装舞踏会は突然打ち切りとなった。シャンデリアの下で踊る事が日本の威信を高める為の道であると考えていた外務大臣は、世論に押されて辞任した。次第に国民と政治の指導者達の間で、日本が切望する国家としてのステータスは、シャンデリアの下でダンスをする事によっては獲得出来ないと言う事が認識されのである。
 当時の日本の政治情報は、未だ不安定であった。将来の展望も流動的だった。形式的には天皇が政治のトップの座に就いたが、未だ憲法も無かった。最終的にどの様な政治形態をとるかも見当が付いていなかった。
 大勢は、イギリスの立憲君主制を範とすると言う方向に傾いていた。普通選挙による強力な議会を作る事が想定された。天皇は、イギリス王室が与えられているのと同じ様な機能を果たす、詰まり、象徴的な代表としての国家元首である。一方、実際の政治業務は、議会と政府が行うと言う政治形態である。これは、歴史を振り返ってみれば、日本の伝統に最も近いものだった。
 アメリカ合衆国を日本の政治形態の範とする事を考えているグループもあった。彼らは天皇に何ら政治的任務を与えない事を主張する人達で、日本共和国を提唱した。
 何十件と言う憲法草案が国民の間で流布し、議論された。各都市に、憲法を提案する市民運動が起こった。こう言った一連の提案は、法律家の協力の下に、正式に政府に提出出来ると言う程の勢いとなった。これは自由民権運動と呼ばれ。全国的に拡大し、集会条例などで弾圧されつつも国会開設を嘆願、二十万余命の署名が添えられていた。
 多くの人々の目的は同じだった。即ち、日本を経済的にも軍事的にも欧米の柵から開放する最適な政治形態を見出す事である。
 日本の知識人の多くは欧米の文化的、学問的、技術的な業績を讃美し、自分は西洋の信奉者である事とを表明していたが、世界政治の現実を考えると、その讃美は嘲笑を招いた。
 「人は片思いでは生きて行けない」
 台頭して来た国家主義者達が痛感した事である。彼らは欧米礼賛に背を向けた。欧米は日本にとって技術と軍事以外、手本となる様な事は何もしていない、と彼らは言い、日本の伝統に立ち返る事を求めたのである。
 欧米列強が入り込んで来る前の日本の伝統とは、鎖国時代の幕府の伝統である。然しその伝統を今迄散々誹謗して来たので、今更其処に戻ると言う事は、政治的自殺行為だった。だから国家主義を唱える人達は、別の道を探さなければならなかった。彼らが着目したのが、日本国民の誰もが極自然に抱いている天皇に対する敬愛の念だった。天皇を神聖にして不可侵の存在に祀り上げる事によって、これを政治的に利用出来ると彼らは考えたのである。
 この頃、伊藤博文は既に政治のトップに立っていた。四十四歳だった。彼は総理大臣になる直前に一年間ベルリンで過ごしたが、帰国した時は、ドイツ帝国の憲法を手本する事を心に決めていた。数世紀に渡る宿敵フランスを破り、国家主義と未来への希望に沸き立っていた若い国ドイツの首都ベルリンで、伊藤は、絶対権力を有する皇帝と皇帝に直属する陸海軍を持ったドイツが、国際的に一目置かれる大国へと発展して行く様を、自分の目でしっかりと見たのであった。
 それ迄国民の間で見当されて来た様々な憲法草案は、伊藤の影響で、全て脇へ押し遣られて仕舞ったた。伊藤は、ドイツの憲法学者で外務省の顧問だったカール・フリードリッヒ・ロエスレルが、ドイツ帝国の憲法に準拠して練り上げていた憲法草案を支持した。
 伊藤の強力な手腕の下、数から言ったら少ないが、目的意識の強い国家主義指向の同士達の支援を得て、ロエスレルの草案が明治憲法の土台に選ばれた。天皇は、ドイツ皇帝の様に、神聖不可侵で、批判の対象になり得ない君主の地位を与えられた。天皇は全軍隊の最高司令官に任命された。ドイツ皇帝と全く同じである。
 新憲法は1889年に発布された。幕府が崩壊してから二十年以上経っていた。
 政治に参画していた多くの人達は失望した。彼らは、日本の未来には、国民の中に深く根付いている民主的な伝統が存続して行くものと彼ら信じていた。勿論ヨーロッパ的な考えを取り入れ、時代に合わせて改良されべきだが、長い間培われて来た民主的な日本の伝統こそが、土台になるべきだと考えていた。然し彼らは政治の舞台で敗北したのである。それは、彼らが理想の為に闘わなかったからでは無い。欧米が、最初から何ら思い憚ることなく「力の政治」で日本に登場した為に、国家主義が鼓舞され事とになったからである。
 振り返ってみて、著者はただ痛嘆するのみである。
 ある民族を、長期間継続して辱めると、超国家主義へと変貌する危険が生じると言う事は、今日では誰しもが知っている所である。
 大日本帝国憲法における由々しい規定は、ドイツ帝国憲法と同じ様に、軍隊は天皇に直属し、議会の如何なるコントロールからも免れると言う規定であった。これによれば、軍部が一旦権力と影響力を獲得すれば、遣りたい事とは何でも遣れる訳である。軍部は、天皇の名に於いて行なったと言いさえすれば良かった。
 それが二十世紀の三十年代に、現実となったのだった。軍部の独断によって満州占領が強行され、政府は事後承認した。国際的な批判の中でリットン調査団が日本の撤兵を求め、日本は国際連盟を脱退した。軍部は益々勢い付き、中国には排日運動が広がた。日中の抗争が頻発し、日本は一撃を加えて懲らしめ様と上海へ内地師団を送った日中戦争の勃発である。この忌まわしい時代の最も残虐な事件として、今や世界的に有名なのが「南京大虐殺」である。元々食糧現地調達と言う軍部の冷酷無謀な指令によって、1937年12月から1938年2月に掛けて、南京を占領した日本軍が住民から食糧略奪、暴行の限りを尽くしても不思議でない。中国側、日本側、連合国側の証拠書類が区々で、何千人、何万人、或いは何十万人がどの様に殺されたのか、未だに論争中である。
 アロー号事件の時、北京で略奪暴行殺人の限りを働いたイギリス軍、フランス軍を遙かに凌ぐ日本軍。当時の国際慣習を遅蒔きながら必死で学んだ成果である。
 朝鮮問題に戻ろう。中国は初めの内は、朝鮮が日本の影響下に入る事を阻止しょうとし、朝鮮は朝鮮で、中国への依拠を強めて、何とか日本の干渉から逃れたいと図っていた。朝鮮が中国に軍事援助を求めると、日本軍は1894年、即座に朝鮮に侵入し、中国の軍隊をソウルの近郊で打ち破った。日本の艦隊は中国の船団を沈めた。
 下関で締結された日清戦争後の平和条約に基付いて、台湾が日本に割譲され、賠償金として今日の金額に換算して三億ドルを日本は受け取った。中国は朝鮮を独立国として認めた為に、日本は朝鮮に自由に進出出来る事になった。
 欧米の手本に忠実に従って、日本政府は、朝鮮の植民地化を一歩一歩進めて行った。朝鮮が原料産出国である事が最大の関心事だった。日本政府は、朝鮮で産出される原料を日本に輸送出来る様、港湾施設の建設と鉄道計画から着手した。日本は進歩を齎す立場に昇格し、植民地保有国の資格を獲得したのだった。
 そのご褒美は、待つ間もなく贈られて来た。今迄全く有り得なかった事とだが、欧米列強が歩み寄りを見せたのだった。流石に未だ5%の付帯条項に付いてでは無かったが、治外法権の問題に付いて交渉の容易があると言う申し出だった。
 そして数年後、治外法権地域が日本に返還され、領事裁判権も撤廃された。その上、初めて日本の商船がヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアへ航行する事が許されたのである。
 日本政府と日本国民の多くは、欧米側が示した好意的な態度は、日本が朝鮮半島で行った植民地主義的な奮闘と、中国に対する軍事力の行使によって、文明国の仲間に加わる資格が十分ある事を認められた印だと理解した。
 苦境に立った朝鮮の国王は、ロシアと言うカードに賭けてみる事に最後の望みを繋いだ。国王はロシアに軍の駐留を要請した。ロシアは日本との戦争によって弱体化した中国から原料豊富な満州を奪い取り、中国の沿岸の旅順に要塞を造ろうとしていた所だったので、この要請を快く受け、海軍部隊をソウルへ派遣した。
 これは、既に世界の他の舞台でしばしば上演されていた『植民地という得物を巡る争い』と言う劇の再演の予告だった。此迄は常にヨーロッパ人が配役を分け合っていた。イギリス人とスペイン人、オランダ人とポルトガル人、イギリス人とデンマーク人、フランス人とイギリス人と言った具合に。新作舞台劇『朝鮮という得物を巡る争い』には、初めて黄色人種の俳優が登場し、今迄白人にのみに与えられていて役を演じる事になったのである。
 1905年、ロシアが懸命に防衛した旅順の要塞を攻略し、対馬沖でロシアのバルチック艦隊を撃滅し、日本がロシアを打ち負かしたと言うニュースは世界を震撼させた、白人の間では、昔の黄禍論が復活した。
 然し日本人は、自分たちは列強の仲間入りが出来たと考えた。古い植民地劇を良心的な新演出で再演した事に対して、何れ称賛のメダルが授与される事を、日本人は確信していたのである。日本は朝鮮が保持していた軍隊を解散した。植民地は独自の兵隊を持つ必要は無かったからである。朝鮮政府のトップに日本人の専門家を置いて、行政を近代化した。1885年から1901年の間に合計四回総理大臣を歴任した伊藤博文が、朝鮮の初代統監となった。伊藤の指導の下に司法制度が新たに整備された。朝鮮の人々も以後、日本の法律に従わなければならなくなった。植民地の住民が植民地支配国の法律に下に置かれる事は、世界共通の事だった。日本の法律家が朝鮮の最高裁判所で過半数のポストを占有した。朝鮮警察の幹部は日本人になった。植民地の模範的な開拓者に相応しく、日本は学校と大学を建設した。其処では日本語で授業が行われた。欧米人が日本にキリスト教会を建設した様に、日本人は神社を建てた。
 そして、伊藤は三年後に、朝鮮の国家主義者に暗殺された。
 イギリス国王が任命する総督を駐在させた様に、日本政府は伊藤の暗殺の翌年、朝鮮を菊の紋章の下に置く事とし、朝鮮を併合した。
 大日本帝国の形が整ったのである。
 其処で政府は、再び西洋の扉を叩いて、5%付帯条項に付いてどう考えているか尋ねた。今度は、この日露戦争に勝者である日本に、扉は広く開かれた。植民地主義者一族の最も若い一員の為に、彼らは革張りの椅子を交渉の机にぐっと引き寄せたのだった。
 こうして、幕府が通商条約を結んでから五十三年後、明治天皇崩御の前年に、5%付帯条項は漸くく破棄されたのである。
 欧米の教訓が日本で立派な成果を上げた事は、誰の目にも明らかである。権力の種は芽を出した。開国前の調和のとれた平穏な生活を望んでいた人達は失望した。年を重ねる事に急速にその勢力は押さえ込まれて行った。日本の政治が、植民地拡張主義の方向へ急旋回するに従って、それに反対を唱える事が益々難しくなった。
 実際に反対する人も又多くなかった。何故なら、軍刀を振り回す事こそ、国際社会に於ける最上の流儀に思えたからである。
 近代日本は、二百年以上の鎖国に日本人が培った、難しい条件の下であっても平和を維持すると言う能力、日本人が誇りに思って良い子特質を生かす事は、最早しなかった。欧米人が有史以来発達させて来た紛争の解決方法で、日本も欧米との紛争を解決しようとしたのだった。即ちち、広島と長崎に原子爆弾が投下され、1945年の夏、日本は無条件降伏し、アメリカ軍が日本全土を占領して、再び一つの時代が終わりを告げた。それは権力政治の、軍国主義の、植民地拡張主義の時代の終わりであった。舵が百八十度切り替えられ、日本は新たな航路の上に乗せられた。
 道義的に誠実であると言う自覚の下、アメリカ人特有の情熱を注いで、アメリカは、日本人を根本的に再教育する事に取り掛かった。再教育の一環として、日本の過去が先ず断行されなければならなかった。特に満州事件以来この国が世界の歴史の舞台で決断して来た事は、全て弾劾裁判の渦の中に引き摺り込まれたのだった。
 こうして、嘗て既に一度あった事が、又もや繰り返されたのである。日本人は、執拗に厳しく勧告された。お前たちは過去を恥じなければならない、と。
 もう二度と軍隊を持たない。もう二度と戦争をしない。もう二度と領土を拡張しない。もう二度と武力で紛争を解決しない。もう二度と、自身が神となって軍隊に命令し、国の運命を決める様なな天皇を仰がない。
 あの様に大きな騒ぎと悲しみを世界にもたらした「軍国主義の長い伝統」から、日本は解放されなければならない。
 突然日本は欧米から、よりによって欧米から、憲法に従って平和を愛好し、軍事的な突飛な行動を放棄せよと言う処方箋を頂戴した。
 新憲法は、日本は永遠に陸軍も海軍も空軍も持っては行けないと決めている。この憲法は今日効力を持ち続けている。
 未来は平和でなければならない。日本人は世界の平和に役立つ行いにのみ従事しなければならない。
 日本人は平和を促進する産業を興さなければならない。
 これが日本に処方された薬であった。
 日本人は薬を飲み、直ぐに気分が良くなった。忘れて仕舞っていた遠い昔に返った様な安心感を味わった。

 驕れる白人と闘う日本近代史 著者:松原 久子 06/01/05 第十四回目 吉野 誠

 
欧米と対等になろうとした明治政府
 ドイツ人の医者であったベルツは、東京帝国大学で教鞭を執っていた約三十年の間に、日本と日本人の生活に対して、そして又日本の学問の伝統に対して、畏敬と愛着の念を深めて行った。日本人女性と結婚したベルツは、日本人が欧米から様々なものを模倣するに従って、自己のアイデンティティを確実に失って行く事を見抜いた極僅かな欧米人だった。何世紀も掛けて育てられた西欧の精神世界は、日本人には永遠に異質であると彼は考えていたのだった。
 ベルツは東京で大変信望があった。彼は帝国大学の教授であったばかりでなく、天皇の主治医でもあり、彼の患者には沢山の有名な政治家や閣僚もいた。と言う事は、彼の耳に入る事は当時の日本を動かしていた人達の考えを反映していたものと言える。
 1868年に発足した明治政府は、権力の座から落とされた徳川将軍と、結局は全く同じ困難な状況に置かれていた。日本と欧米との関係は何ら変わらなかった。列強は以前と同じ様に治外法権地域に居留し、其処で以前と同じ様に無条件の支配権を行使していた。彼らは其其自国の兵力を維持し、その兵力の配分は任意に取り決め、又変更する事が出来た。彼らは華麗な制服に身を飾って、頻繁に軍事パレードを行った。
 欧米列強は「5%付帯条項」を口実に、日本へ入って来る全ての商品をコントロールした。同時に彼らは日本の海外貿易を全て掌握していた。幕府が調印した通商条約では、日本は自国の製品を自由に輸出する権利を持っていなかったのである。それどころか、日本から欧米列強やその他の植民地に輸出する商品は全て、治外法権地域にある欧米の代理人店を経由しなければならなかった。彼らは全能だったのである。商品の種類、量、そして価格も彼らが決めた。輸送に関しても販売に関しても彼らは独占権を持っていた。日本は売る事が出来ただけでも、有り難いと思わなければならなかった。
 国民の間にわき起こって来た動揺と不満、特にサムライ階級に高まって来たやり場の無い焦燥感を、明治政府は何もしないで傍観している訳には行かなかった。沸き上がる怒りを何とか反らす為に、政府はその捌け口を作らなければならなかった。
 どんな事があっても、白人への怒りが爆発する様な事があってはならない、此政府に取っては絶対であった。それは日本の終わりを意味した。其処で政府は、スケープゴートを探さなければならなかった。崩壊した幕府が最適なスケープゴートになった。老中達との合意の上で通商条約に調印したのは結局将軍だった。日本が今、堪え忍んでいるこの惨めな状態に責任があるのは、幕府を置いて他にないではないか。
 何と言っても日本は、笑止千万な幕府等と言うものの為に、二百年以上もの間、世界から身を隠していたのであるから、その間に、古臭く、貧弱で、お粗末で、恥ずべき国となって仕舞った。誇り高く尊大な欧米人が日本人を小馬鹿にし、日本の彼此を見下すのは当然の事である。尊敬すべき白人が日本人に人差し指をピンと建てて正しい道を教えるのは、全く不思議な事ではない。近代は西洋の時代であり、日本は何とかその仲間に入れてもらえる様に努力しなければならぬ。
 我々は鎖国政策を貫いた愚かな幕府のお陰で、島国根性が培われ、世界の常識から遠ざけられ、多くの奇妙な風俗習慣を生み出して仕舞った。鎖国は、日本がその歴史の中で犯した大きな間違いだった。鎖国のせいで我々の視野は狭くなり、考え方も狭量になった。世界の進歩から取り残されて仕舞った。何と愚かであった事か。我々は自分自身で世界の近代化に参加する事を放棄した為に、今、そのつけを払わされているのだ。
 日本も、ヨーロッパの国々が皆そうした様に、人類の進歩の為に貢献すべきだった。そうすればとうの昔に白人為と仲間になって、彼等から対等なパートナーとして認めて貰えた筈だ。
 若し鎖国をしていなかったら、オランダに独占権を与えて貿易を行うのでは無く、日本が直接、当時ヨーロッパが渇望していた繊細な陶磁器や絹を運んだだろう。日本は、鎖国前迄は大洋航海に十分適した船を造っていたのだ。イギリスやスペインですら、日本から大型帆船を買っていた。
 その大型帆船で、我々は医学、薬草、経済、数学に関する日本の書籍をヨーロッパに持ち込んだだろう。そうすれば、今日のヨーロッパ人は、1709年に発刊された博物学的研究書として名高い、貝原益軒の「大和本草」十六巻に付いて知っていたに違ない。約四十年後、スウェーデンの博物学者カール・リンネが「植物の種」を著す際に、大いに参考にしたであろう。
 若し当時、日本とヨーロッパの間で学問的な交流があったとしたら、大数学者の関孝和は、関の丁度十年後に、関と同じアイデアが閃いたライプニッツと、書簡を取り交わしていたかも知れない。当時の錚々たる大学者達の中に、日本人の名前を見出す事は、何と鼻が高い事か。
 そして、日本の医者の華岡青州は、必ずやヨーロッパに於いて近代外科医学のパイオニヤとして称賛されただろう。全身麻酔をして最初に手術を行ったのは青州である。麻酔による手術に成功したアメリカ人の医者モートンよりも四十年も前の事だった。青州の画期的な発見の情報は、若し交流があったなら、即刻ヨーロッパへ伝えられ、日本の医学の勝利は広く知れ渡っていただろう。
 然し、愚かな幕府のせいで、我々は世界から取り残されて仕舞った。
 こうして明治政府は幕府をスケープゴートにし、過去を捨て、欧米に追い付く決心をした。
 ヨーロッパと日本との間に、二百年も前に有効の橋を架け、パートナーシップに基付いた共同研究の可能性を想像する様な「世間知らず」は、世界広しと言え共日本人だけであろう。
 当のヨーロッパ人でさえ、百年、二百年前の自分達の祖先が、船に乗った奇妙な人間の一団を発見すれば、直ちに撃ち殺し、まごまごしている奴は海中に放り投げ、書物等にも目もくれず、船中のめぼしき物を奪って終わったであろう事を認めざるを得まい。
 然し明治政府にとって、欧米は協力で華麗で嫌が上にも輝いていた。日本の過去を捨て去って欧米人を見習う事、これこそが当面の課題であった。
 如何にヨーロッパに対する態度や考え方ががらりと変わったかは、当時日本の政界で指導的な立場にあった人物の人生を例に示せば、分かり易いと思われる。
 最も興味深い人物は伊藤博文である。伊藤は長州の農民の子として生まれ、下級武士の養子となった。未だ十七歳だった1858年に、彼は長州藩主の命により、ヨーロッパの武器技術を習得する為に長崎へ派遣された。然し、伊藤は精神面に置いては倒幕派であり、戦闘的な攘夷主義者であったので、暫くして、長州のサムライが決行した江戸のイギリス公使館の放火事件に参加している。
 この伊藤が1863年、二十二歳の時、彼が仕える長州の大名から、他の三人の若いサムライと共に、六ヶ月の予定でロンドンに行く事を命じられた。世界最大の植民地帝国の中枢を視察する為である。伊藤はロンドンで、下関が連合国の報復を受けて破壊された事を新聞で知ったのだった。
 長州の若きサムライ達がロンドンで、又イギリスを周遊して何を体験したかに付いては殆ど伝えられていない。確かな事は、伊藤の考えが決定的に変わったと言う事である。彼はイギリスが、大部分の日本人が想像していたよりも遙かに光り輝いている事を目の当たりにした。彼は権力と植民地保有国の富の象徴をそこにまざまざと見たのだった。
 伊藤達は、石造りの住居が建ち並ぶ通りを見た。重々しい扉には真鍮の金具が付いていた。街路にはガス灯があり、人々は歩道を闊歩していた。男性は頬髭を生やし、フォロックコートを着て、山高帽かシルクハットを被り、傘を持っていた。女性は技巧を凝らした帽子を被り、長いスカートを靡かせ、レースの縁飾りの付いた高い襟のブラウスをを着ていた。町には豪華な馬車が目まぐるしく行き交わっていた。馬は目に覆いをし、お仕着せの制服を着た召使いが御者台に座っていた。伊藤たちは、モールと肩章の飾りの付いた外出用の制服を着た兵隊を目にした。軍楽隊と騎兵隊に彩られた軍事パレードも見た。整然と行進する兵隊と号令を掛ける将校達、馬が牽いた砲架車に載った近代的な大砲を見た。
 彼等は鉄道に乗ってイギリスを廻った。繊維工場を見学した。巨大なホールには何百人という女工達が紡績機や織機の前に立って働いていた。鉄の弾み車が革ベルトと複雑の組み合って機械を動かしていた。その動力は蒸気機関だった。
 彼等は、巨大な鉄の船が製造される造船所を見た。それから埠頭に建ち並ぶ倉庫を見た。倉庫には大英帝国が全世界に所有する植民地から流れ込んで来る商品が納められていた。カリブ海から来た砂糖、西アフリカから来たコーヒーとココア、アメリカから来た煙草と穀物、エジプト、メソポタミア、そしてインドから来た木綿、中国から来た茶、日本から来た絹が収められていた。
 彼らは毎年何万トンもの石炭を産出する炭坑も視察した。コークス工場、レンガの製造工場、セメント工場、それから煙突からもうもうと煙を吐き出し、空を真っ黒にし続ける溶鉱炉も見た。
 伊藤は日本に帰って来ると、欧米との対決はどんな事があっても避けなければならないと言う信条の代弁者の一人となった。欧米はびくともしない潜在的な力を持っていて、日本等欧米の前では憐れな程小さく、弱々しいものだと言う事を、彼は自分の目で見て来たのだった。日本に開かれている唯一の道は、欧米との協力態勢を維持する事だった。然し同時に、若し何時の日か欧米に依存しない自主独立を奪還しようと思うならば、日本は工業と軍事力の増強に全力を尽くさなければならなかった。
 明治時代の日本の政府は、この目標に向かって邁進したのである。新政府は先ず嘗ての士農工商と言う身分制を撤廃した。この身分制はそれ迄、職業選択の自由を広範囲に阻止して来た。身分制の撤廃で、サムライ達は特権を失ったが、一方で、経済界へ進出する可能性を獲得する事になった。サムライは、商人や銀行家と提携し、会社を興す事さえ出来る様になった。
 商人は、手工業者、農民にとっても、身分制社会の撤廃は、今迄サムライだけに許されていた有らゆる職務に就ける事を意味していた。と同時に、工業化によって、圧倒的な労働力の需要が生まれた。
 政府は又、兵役義務の制度を導入した。これはヨーロッパの有力な国々では一般に行われていた事である。陸軍の構成については最初はフランスをその範とした。海軍に関しては言う迄も無くイギリスに倣った。
 新たに創設された陸軍士官学校では、将校に昇格した者はヨーロッパの士官をモデルにして作られた将校服を着用し、厳しく訓練された。兵役義務に付いている者達には、スマートな制服が支給された。最初の軍楽隊は鹿児島出身の初年兵達によって編成された。上級の将校は金銀のモールに飾りを着け、勲章や肩章、襟章でゴテゴテと飾り立てた。頭にはひさし付きの帽子かヘルメットを被り、靴はブーツだった。
 床屋が大繁盛した。と言うのは、丁髷は切り落とさなければならない事になり、当時の欧米人を真似て、モジャモジャの頬髭が最新流行になったからである。
 頻繁に地震が起こる日本列島で、レンガ造りの家を建てる事は全く合理的でなかったにも拘わらず、政府は銀座通りの両側に、ロンドンやパリの様な数階立建てのレンガ造りの建物を建てた。銀座は鎖国時代から、銀貨鋳造所がある繁華街で、東京の代表的な商店街だった。それぞれの建物には、柱で支えたアーチ、出窓、鉄の欄干のついた小さなバルコニー等があり、欧米そっくりであった。
 こういった建物には結局殆ど誰も入居しようとしなかった。と言うのはヨーロッパをモデルにした為に、窓は小さく、内部も壁で個室に区切られていて、風通しが最悪だった。長く、暑い、それも蒸し暑い東京の夏では、家の中の物が黴が生えて仕舞う。此等の建物の大半は二、三年で取り壊され、日本の気候にあった建物に立て替えられた。残りは1923年の関東大地震の際に崩壊してしまった。
 白地に黒い斑点のある雌牛がプロシャのホルスタインから輸入され、北海道で放牧された。牛乳、チーズ、クリームケーキが時代にあった食品として宣伝された。日本には肉食に対して嫌悪感があったので、天皇が範を示す為に、フランスの料理で調理した最初の牛肉を召し上がった。

 更に政府は経済にも活を入れた。個人企業は、状況の変化に未だ十分対応できる態勢になっていなかった為、政府は国家事業として、鉛、亜鉛、銀、金等の鉱山を管轄の下に置き、その総合的な近代化を指導した。日本の石炭の産出量は僅かだったが、政府はその僅かな石炭を産出する九州の採掘を強化した。コークス工場とガス製造工を建設した。幕府の下で作られた溶鉱炉を引き取り、そこに更に新たな溶鉱炉を増設した。機械製造工場と造船所を創設した。ガラス工場、セメント工場、紡績工場、製糖工場を造った。
 徹底的に、そして猛烈なスピードで行われた日本の西洋化は、政府がイギリス、フランス、米国、独逸その他のヨーロッパ諸国から招聘した「御雇い外国人」の援助なくしては不可能だったろう。先ず必要不可欠な軍事面での御雇い外国人を初めとして、法律、財政、通貨の専門家、医学者等有らゆる重要な分野の学者、技師、土木建築等の設計者、それから技能工達が招聘された。
 その人数は、広範囲な分野に渡っている割には、全体として決して多くはなかった。一番多かったのは1873年、74年、75年の三年間でも、五百人より少し多い位で、十年後には百人そこそこであった。
 御雇い外国人は通例二年の勤務契約であった。費用は全て日本政府が負担した。当時は、「発展途上国への援助」と言う様なな結構な考え方は未だなかった。御雇い外国人の棒給は貴族並から王様クラス迄だった。又、エルウィン・ベルツの様に、最初の契約期間を延長若しくは更新して長期に勤務する御雇い外国人も何人かいた。
 同時に政府は、若い日本人の逸材をヨーロッパとアメリカに、延べ数十年以上に渡って、年間約三百人も送り続けた。彼らの指命は西洋のシステムを現地で学ぶ事であった。これも勿論日本政府が費用を出した。
 明治政府が行った事は全て、日本が非西洋・非キリスト教の民族として、虐げられた状態から脱却する、という大きな目的の為であった。
 明治政府が健気にも目標としたのは、日本には強力な工業力も、近代的な陸軍や海軍も無い等と、欧米人に絶対言わせない様にする事だった。
 将来は、日本に治外法権地域を無くす事、欧米に領事裁判権を無くす事、そして欧米からの輸入関税の5%付帯条項を無くす事を、政府は切に願った。
 明治政府は、外国人が、日本的なものに対してこれ見よがしに小馬鹿にした様なな顔をしなくなる日が何時か必ず来る事を夢見ていた。
 今考えてみれば、明治政府が実行し、指示した事の中には、殆どグロテスクとしか良い様の無い物もあった。
 日本語、特に日本語の文字は迷惑極まり無い不平と言った外国人は数限りがなかった。同じ事を言う外国人は今日でも沢山いる。其処で明治政府は、日本語を廃し、英語を日本の公用語とすると言ったとんでもない計画を立てた。この計画はあわや実現され所だった。
 又欧米人が終始異常な激しさで嫌った物に、日本の古くからの習慣である「混浴」がある。明治時代に流れ込んで来たキリスト教の宣教師達は、混浴をソドムやゴモラ(旧約聖書に書かれている男色、乱交、獣姦の巣)と同一視し、計り知れない程罪深い事であると非難し続け、この習慣は未開で劣等である事の象徴だと言った。
 この事を重要視した政府は、この習慣を無くそうとした。警察官が浴場へ送り込まれ、政府の新しい指令が遵守されているかを点検した。浴場の真ん中で即席で壁が作られ、以後、男女は裸の姿をお互いに見る事は出来無い様になった。初めは、どうせ湯気で見えなくなって仕舞うのだが、西洋側の道徳的な憤激はそれでは収まらなかった。浴場をカーテンで仕切れば十分ではないかと日本人は思ったのだが、西洋側の道徳的な憤激はそれでは収まらなかった。
男女別々の入口を設け、壁も声が聞こえ無い位厚くすると言う所迄徹底してようやく納得したのだった。
 折りもおり、時を同じくして、莫大な費用を掛けて造った東京の国立美術館で最初の油絵の展覧会が開かれた。世紀末のフランス絵画とベェネチア絵画が展示された。其処には、鏡の前に立って朝の化粧をしている全裸の女性の全身像とか、ソファーに楽しそうに伸びと横たわる真っ裸の女性の絵があった。これは西洋でも当時、大胆だとされた芸術の一つの潮流だった。此等の絵画の前には長蛇の列が出来た。人々の反応は、困惑状態に陥る人から、思わず吹き出し、上半身を折って笑い出して仕舞う人迄、様々であったと伝えられている。
 男女、子供が全裸で混浴する事は野蛮だと非難するのに、油絵で全裸の女性の肉体を微に入り細をうがって描いた上で公衆の面前に展示するのはどう言う事なのだろうか。
 彼から百数十年の年月が流れた。裸体に対するヨーロッパ人の感覚がどの様に変遷して来たかを調べれる事は大いに意義のある事だが、此処では象徴的な二つの事とを述べるに止めたい。
 今日一流と言われるドイツのホテルにはサウナがあるが、男女共同使用になっている。見ず知らずの旅行者が男女とも全裸でサウナに横たわり、汗を掻いている。時々シャワーを浴び、水を飲み、又横たわる。
 「それがどうしたと言うのですか。我々は人間の肉体が罪の温床だ等と言うキリスト教の考え方を、滑稽だと思っていますよ。そんな古臭い観念はもう通用しません」
 これがホテルのマネージャーの憤然とした説明だった。
 更に、北海や地中海の特定の海辺には、老若男女共全裸でなければ立入禁止という区域が設けられている。「自然の儘の肉体を尊重する文化区域」と銘打たれている。身に付けて良いのは、眼鏡、時計、ネックレス、補聴器となっている。其処で日光浴をしている全裸の老若男女達は、肉体に対する自分達の考え方こそが、史上最も進んだ者であると言う自負を全身に現しておられる様だ。
 「日本には何時から郵便局、銀行、学校、大学があったのか」と、日本人に質問すれば、恐らく何の躊躇も無く、「明治時代から」と言う答えが返って来る。
 明治よりずっと以前から、確実な配達と全国的な配達網を誇る素晴らしい郵便制度があったと言う記憶は、もう誰の意識にもなくなっている。
 「そう、そう、飛脚と言うのがありましたよね。だけど有れは郵便制度と言えないでしょう」
 多くの日本人は、明治時代に日本に導入された欧米の郵便制度は、可成り昔からヨーロッパで発達していたものだと思っている。所が、郵便切手は1840年になってやっとイギリスで考案され、郵便ポストが設置されたのは1855年、全てが軌道に乗ったのは1860年以降だった。と言う事は、当時、日本に導入されたイギリスの郵便制度は、ヨーロッパでも、未だ出来たばかりのものだったのである。多数の記録で証明されている事だが、其れ以前のヨーロッパでは、郵便の配達回数も配達網も、信頼の置けない欠陥だらけのものだった。
 日本人は、近代的な物、進歩的な物は全て欧米から来るのだと言う毒魔に、百年以上に渡って洗脳され続けて来た。自分達の豊かな歴史は萎んで仕舞った。何か手本となる物を探す癖を持つ日本人は理想化されたヨーロッパにしがみついて仕舞うのである。
 さて、銀行制度は?
 一般的な今日の日本人は、明治以前には日本の銀行は無かったと思っている。と言うものも、日本の大銀行が創立年として、明治以降の年を自ら挙げているからである。此等の銀行のいくつかは、元々鎖国時代に創設された両替商が、明治になって組織や名称を変え、今日の形になったと言う事なのだが、こう言った消息は余り知られていない。
 株式市場や商品取引市場の分野でも、日本人は遅れて後から来た人達だとか、物真似する人達だと言う事を良く耳にする。これは欧米では珍しい事では無い。
 確かに東京証券取引所は、その創設の年を公式には1878年としている。然し実際には、既に1720年から大阪で米相場の先物取引が活発に行われていた。その事実は、昔の取引の記録も残っていて、取引の複雑な遣り方や経済の問題等を記載した古い教科書もあって、はっきりしているのに、日本人はその事を主張しようとはしない。 
 日本国内で独自の制度が確立され、基礎があったからこそ、日本は、近代的な証券取引制度や金融制度を円滑に取り入れる事が出来たのである。その後日本が、欧米の得意領域と考えられていた国際金融市場で成功を収めた事は、驚きと不審の念さえ呼び起こした。然し日本には、一般に信じられているよりも遙かに古い伝統があり、それが遅ればせながら力を発揮したと言う事なのである。
 日本の学校制度も同じ様な歴史を持っている。鎖国時代の末期には、既に一万五千以上の寺子屋があり、就学年齢に達した子供のほぼ70%が学校に通っていた。にも拘わらず、教科書に記されている日本の教育制度の始まりは、1868年、即ち明治元年からとなっているのである。
 同じ時期にイタリア、スペイン、ポルトガルと言ったヨーロッパの国々でも、識字率を高める運動があった。此等の国々では、十九世紀の末には、未だ全住民の50%以上が字を読めなかった。バルカン半島の諸国と東ヨーロッパ、それにロシアでは、80%以上が読み書きが出来無かった。それに比べると、日本の識字率の高さは相当なものだった。
 日本でも同じ様な方法で、既に早くから大学校が発達していた。仏教、儒教哲学を教える学校だった。其処では古典や宗教のテキストばかりでは無く、文学、歴史、哲学、数学、倫理学、書道、音楽も教えた。決まったカリキュラムがあり、就学年数も決まっていた。
 それなのに今日の日本人は、その事を殆ど知らない。
 日本の「大学」は、701年に奈良に創設され、後に京都に移って五百年程続いた貴族の大学に遡る。この大学は十二世紀にサムライの大学に引き継がれた。サムライの大学の多くは、受け継いだ伝統を鎖国時代の終わり迄守り続けた。其処で教える講義内容も、時代と共に増え、管理学、測量学、灌水学、橋梁、運河工学、築堤工学、埋め立て工学等と言った新しい課目が設けられた。
 明治政府は此等の大学を引き取り、管理体制や内部組織を改革し、時代にあったカリキュラムを作った。帝国大学として名称も新たになった。そしてその年が大学の創立の年となった。教授陣も学生も古い大学から引き継がれたにも拘わらず、日本は過去を断ち切ってのだと言う気合いを西洋に示しかったのである。
 1876年に、エルビィン・ベルツが日本の歴史について尋ねた時に返って来たある日本人の答えが、頭を掠める。
 「私達には歴史はありません。我々の歴史はやっと今から始まるのです」

 驕れる白人と闘う日本近代史 著者:松原 久子 05/12/28 第十三回 吉野 誠

 狙った値上げ(関税自主権がなかった為に)
 「日本には、十社からの二十社の、超大商社、大商社、中間業者、小売業者と言った中世的で複雑な流通機構が有り、商品は生産者から消費者へ渡って行く過程で加速的に値上がりして行く仕組みになっている」とドイツ人の日本特派員は書いている。そして日本の商品の流通機構は、如何に企業間の競争を歪ませ、不当で有害で有るか、それに引き換え欧米諸国では、生産者から消費者に最短距離で商品が届く様になっているので、消費者は低価格の商品を手にする事が出来るのだと長々と解説している。
 著者も、日本では多くの物品がどうしてこうも高いのかと訝しく思っていた。特にそれは果物、野菜、魚、肉等の食料品に付いて言える。日本製の工業製品も、生産された日本では無く外国で買う方が安い事が屡々有る。 
 物価を高くしている細かい網の目の様な流通機構は、開国以前の時代からの遺物で有る
 何故全ての商品がその様に沢山の人の手を渡らなければならなかったか、それには二つの理由が有った。
 第一の理由は、約三千万の人間が狭い空間の中で生きて行かなければならなかった鎖国時代の日本では、慢性的な労働力の過剰に悩まされていた事で有る。誰もが経済活動の隙間を見付けて其処に入り込もうとした。労働市場での何世代にも渡る競争は、一方では、製品の品質の高さと、修理その他メンテナンスの為の徹底したアフターサービスの良さを生んだ。今日でも日本はこの特徴を世界に誇っている。そして、その一方で、極度に細かい段階に分かれた商品の流通機構を生み出したので有る。有らゆる部門の商人達は商品の流れの極一部にでも参加出来た事に満足した。彼らの懐に入る中間利潤はほんの少額で有るが、沢山の人の手を渡って行く事によって、その商品の価格は上がって行く訳で有る。
 第二の理由は、食料品に関する問題で有る。日本人の食卓に上る代表的なものは、大変傷み易い海の幸で有る。此等は出来るだけ短時間で消費者の下に運ばなければならない。特に日本人は魚を生で食べるので、新鮮で質の良い事が昔から事の他要求された。1700年前後には百万の人口を抱えていた江戸の様な大都市では、江戸湾で取れる魚介類だけでなく、地方から調達しなければならなかった。極暑の夏も有る日本で、冷蔵の近代設備も無い時代に生鮮食品を一年中供給する為には、綿密に組織された高速輸送網が必要で有り、その為のコストが商品価格に加算される事になったので有る。
 然し、日本は何故今迄でも古い構造を引きずっているのだろうか。この疑問を解き明かす為には、国を開いてからの様々な出来事を検証しなければならない。
 1858年の最初の通商条約では、欧米からの商品に対する関税の増額は、「相互の合意の下に」決める事になっていた。それは幕府側のかなりの譲歩で有った。当時も今日と同じ様に、主権国家は税の額を自主的に決定する事が出来た。それは主権国家の当然の権利だった。然し、幕府が関税の額を決める自主権を持たず、欧米列強の承認を得なければならないという事になると、当然意見の不一致が生じて来る。
 条約締結から六年も経つと、勤勉な国民が総力を上げた結果、全国各地に有った製作所は瞬く間に拡張され、鎖国時代に生まれた繊維工業は特に著しい発展を遂げた。当時は絹と綿が輸出の四分の三以上を占めていたが、欧米列強への売り上げは、1859年の約百万ドルから1865年には三千三百万ドル以上に増加した。此の六年間に毎年かなりの輸出超過を計上した。大騒ぎをしたゴールドラッシュ時の金の流失も、僅かで有るが回復させる事が出来た。輸出超過によって得た外貨は、国の発展に役立つその他の工業部門の拡張の為に投資された。
 貿易収支が自分達に有利に推移しなかった事は、誇り高き欧米人を相当挑発したに違いない。彼らは貿易赤字を被る為に日本へやって来た訳ではなかった。その為欧米列強は珍しく一団結して、欧米から輸入される全ての商品に対する関税の上限を五%とする様、無理やり要求して来た。関税を低く固定するこの様な不法手段によってしか、欧米の工業製品は日本の市場で競争に耐える事が出来なかったので有る。
 特に問題はイギリスの羊毛と綿製品だった。イギリスは日本の強力な貿易相手国で、全輸入商品の85%がイギリスからだった。そのほぼ半分近くが繊維製品で、その他は船と未精錬金属と医薬品だった。フランスが第二位で約10%。残りの5%をオランダ、アメリカ、ロシア、そして当時ヨーロッパの中央で新興工業国に発展して来たプロシャが分け合っていた。
 幕府は極度に政治的に苦しい状況に有った。全国の有力な大名を初めとする多くのサムライ達、そして多くの有力な商人達の支持を幕府は失っていた。その要因は、通商条約に調印した事、ゴールドラッシュ以降、通貨制度が崩壊し貨幣価値が暴落した事、そしてその結果貧困が生じ、異常な焦燥感が全国的に蔓延した為で有る。
 日本は暴風雨の前触れの中に立たされていた。幕府はこれ以上欧米列強に譲歩する事はとても出来なかった。特に関税の問題に付いては論外で有った。緊迫した経済状況を更に悪化させるだけだった。幕府はただ時を稼ぐしかなかった。その間「尊皇派」が力を増して来た。二百年以上も統治して来た幕府を倒し、天皇を国家元首として全面に立てたいと考える者達で有る。戦闘的になっていた何人かのサムライは、横浜の治外法権地域を全面的に攻撃する準備を始めた。
 幕府はこの常軌を逸した計画を最後の土壇場で阻止する事が出来た。幕府は自分の軍隊から派遣した分隊を増員して、白人の警備に当たらせた。しかし高まる感情の波は日本中に広がり、一触即発の状況になった時、「生麦事件」が起きた。
 馬に乗った四人のイギリス人(三人の商人と一人の婦人)が、横浜近郊の生麦で、薩摩の大名行列に場所を空ける事を拒んだ。サムライ達は、日本の法律に従って馬から下りる事を三度要請したが、彼らは拒否した。そこで三人のサムライ達が商人の一人を一刀の元に切り倒し、他の二人に重傷を負わせたので有る。例によってイギリス公使は幕府にこのサムライ達を直ちに最重刑に処する事と、十万ポンドという高額な慰謝料を要求した。幕府は要求された金額を支払い、死に至らしめた事件について正式に陳謝した。然し薩摩藩主は、商人を斬り殺した忠実な家来を庇い見逃したのだった。
 日本の法律によれば、このサムライのやった事は正当だった。大名が通る時は、馬に乗っている者は誰でも馬を下りなければならない。これは二百年に渡って守られてきた厳しい規則で有る。騎乗の儘でいる者は、暗殺者の可能性が有ると言う疑いが掛けられる。イギリス人達が馬を下りる事を拒否したのは、彼らが暗殺を企んでいたからで有るまい。彼らにとってそれは個人的な力比べみたいな積もりか、ふざけ半分だったのかも知れない。自分達は不可侵だと自負していたから。
 オランダの医者ポンペ・ファン・メールデルフォールトは、ヨーロッパに帰ってから、殺されたイギリス人の家族と話す機会があった。この家族は法律上の状況を冷静に理解していたと言う。彼らは勿論家族の一員を失った事を嘆き悲しんだが、サムライを非難する事が出来ない事を十分承知していたと報告している。然し世界の最強国、イギリスの公式の反応は違っていた。イギリス政府は艦隊を鹿児島湾に派遣し、犯罪逮捕に応じなかった事への報復として鹿児島の町を砲撃した。一万五千人もの死者が出た。艦隊司令官は、イギリスの商人を殺害したサムライの引き渡しと、二万五千ポンドの支払いを要求した。砲撃を生き延びたそのサムライはイギリス側に自首した。その後、彼を見た者はいない。薩摩藩主は要求された二万五千ポンドを支払った。
 日本人は皆激怒した。世論の圧力を受けて、幕府も断固とした意思を表明しない訳には行かなくなった。それで幕府は、全ての欧米列強と取り交わした通商条約の破棄を通告し、全ての外国人に日本を去る様に正式に要求したので有る。欧米列強の代表者達が幕府のこの文書を受け取った時、何と言ったかと言う事は伝えられていない。恐らく彼らはカクテル・パーティか何かで集まって大笑いしたで有ろう。突然一方的に通商条約の無効を宣言すると言う日本の試みは、彼らにとっては、納戸に入れられた行儀の悪い子供が出たくて泣き叫んでいる位にしか思えなかったに違いない。
 1863年、長州藩の何人かの激情家達が、下関の沿岸に装備された八門の哀れな程古びた大砲で、通り掛かったアメリカの商船、続いてフランスの艦船を砲撃した。連合艦隊の報復攻撃は未だ十分な成果を上げる事はなかった。下関の沿岸では、何度も突発事件が起こった。数隻の外国の商戦が沿岸の砲台から砲撃を受けた。一発も当たらなかったが、欧米列強には許し難い事だった。1864年、イギリス、フランス、オランダの軍艦十七隻が下関沖に集結した。総計百九十門の大砲と五千人の人員を擁した連合艦隊だった。次の日には、下関には瓦礫と灰以外何も残っていなかった。上陸した部隊は砲台を占領した。この勝利の写真は世界各紙に送られた。収奪した大砲の幾つかはパリへ船で運ばれ、今日でもパレ・シャロットで見る事が出来る。
 幕府は連合国の要求に従って三百万ドルの損害賠償金を支払い、通商条約破棄の通告を温和しく取り下げた。こう言った事で幕府はその崩壊を早めたのだった。今迄主として外国人に向けられていた国民のやるせない激しい怒りは幕府に向けられる様になった。無定見、優柔不断、意志薄弱、それ故に機能不全と非難された。元々この通商条約は天皇の勅許を得る事無く、幕府が勝手に調印したものだった。一応は勅許要請したのだが、断られ、欧米列強の圧力に屈して調印に至ったので有る。だから調印以来日本に降り掛かって来た様々な悲劇は幕府の責任で有り、もはや収集不可能になって来た。
 然し、1865年九月、下関砲撃の恐怖も冷めやらぬ内に、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四カ国連合艦隊は兵庫に投錨、其の一部は大阪に向かい、大阪港に停泊した。百門以上の大砲を背景に、大阪城の幕府閣老に兵庫開港と条約勅許の取り付けを迫ったので有る。脅しに屈して、幕府は直ぐ様京都の天皇の下に参上し、条約勅許を得た。これで通商条約は日本側が文句の言えない正式なものとなった。然し、兵庫開港は見合わせて欲しいと言う天皇側の願いを其の儘公使達に伝えた。すると彼らは言った、「今、勅許を与え、条約の全てに同意したのではないか。それなのに兵庫開港を拒否若しくは延期するならば、その代わり関税5%に署名せよ。全ての欧米商品に対して5%を越えない事だ」幕府は黙って頷いた。連合艦隊は堂々と引き揚げて行った。幕府も京都の天皇も胸を撫で下ろした。イギリス公使パークスの作成した5%協約はその後江戸で幕府により署名され、四カ国公使に配布された。これが所謂「5%付帯条項」で有る。
 初代イギリス公使オールコック卿の言葉を思い出してみよう。「コンスタンチノープルから江戸迄、我々が外国政府と締結した条約で、その外国政府に我々の軍事的な威力が影響を与えなかった条約はなかった。」1910年迄の以後45年間、この「5%付帯条項」は有効で有り続けた。45年の長きに渡って日本は欧米から輸入する全商品に、決して5%以上の関税をかける事は許されなかったので有る。
 「5%付帯条項」の影響は、署名した次の年の貿易収支に現れた。それ迄、僅かでは有るが百万から二百万の輸出超過で、貿易収支の黒字は工業化の途上に有る日本の支えになっていた。その貿易収支が一変したので有る。日本はその年、当時の状況で言うと、一千万ドルと言う壊滅的な赤字の収支決算となったので有る。
 日本は真綿で首を絞められる様に、インドや中国と同様な運命を辿らされる危険に晒されていた。この二つのアジアの大国と比べて日本が唯一有利だった点は、日本の国内には、治外法権地域を除いて、未だ外国の軍隊がいなかった事で有る。
 インドでは占領されてから、中国ではアヘン戦争とアロー号事件以後、欧米の植民地保有国は、両国の既存の工場製糸工業を潰すことを組織的に図ったばかりで無く、両植民地に工業が発展しない様、有らゆる手を尽くして芽の内に掴み取って仕舞おうとした。と同時に、未だ初期のヨーロッパへの原料供給国に成り下がっていた。日本は刻々と同じ危険に近付きつつ有った。「市場は我々に取って、呼吸する為の空気の様に重要で有る。」とオールコックはヨーロッパ人の本音を吐露している。「もし息をする為の空気を得る事が出来ないならば、我々は空気を奪い取らなければならない」
 1867年、将軍は政権を返上した。十五代目の将軍で、在位は僅か一年足らずだった。政権を手放さねばならなかった時、彼は丁度三十歳で有り、精力的で、大望を抱いていた。彼は最後迄、速やかに工業化を達成する為の広範囲な改革に着手する等、日本を経済的にも軍事的にも強力にし、権力を強化する事に努めようとした。然し、殆どの国民は、幕府制度を時代遅れと考えていた。そして天皇親政を主張する尊皇派に望みを託した。尊皇派は主に薩摩藩と長州藩の連合に土佐藩が加わった人達で、どの藩も今迄は国勢の主流派ではなかった。彼らは明治維新として歴史に残る数々の改革に着手した。1868年新政府は当時十六歳だった天皇を擁し、天皇の名において、日本を過去十年の崩壊から立ち直らせる任務に就いたので有る。
 以後明治時代の45年間、新政府は辛抱強く、欧米諸国と「5%付帯条項」の破棄に付いて交渉を重ねた。使節団をワシントン、ロンドン、パリ、ハーグ、モスクワ、ベルリンへ送ったが、何処でも冷たくあしらわれた。多国間会議を何回も東京で開催し、各国を招待した。列強は日本に、キリスト教の宣教師に無条件に門戸を開くといった条件を出して、この条件を受け入れなければ交渉する積もりは全く無いと言った。日本は相手のこういった前提条件を次々と容認したので有る。然し、それを容認しても「5%付帯条項」と治外法権地域の領事裁判権」を撤廃する代わりに、日本は全ての外国人に無制限に土地の購買権と相続権を認める事、日本の最高裁判所には日本人より多数の外国人裁判官を置く事という欧米側の二つの提案を受け入れる積もりだったという事が判明したからだった。これは、アヘン戦争とアロー号事件後に叩きのめされ、疲弊し切った中国が認めなければならなかった譲歩よりも、遙かに大きな譲歩で有ると日本の新聞は批判した。
 日本を溺死させない為に、明治政府は、殆ど無関税の欧米の工業製品で日本の市場が溢れ返るのを阻止する方法を模索した。そうしなければ日本はインドや中国と同じ様に欧米工業製品の一大市場となり、同時に自国の技術開発に止めの一撃を加えられて仕舞うからで有る。
 関税に付いて欧米列強と理に叶った合意に達する事は望めなかったので、政府は、出来るだけ目立た無い様に、間接的な方法で輸入商品の価格が輸入業者から消費者へ渡って行く過程で高くなる様な方策を講じた。その為の最も良い、そして無難な方法が、鎖国時代に生まれた育った彼の流通システムだった。そのシステムを明治維新の後も保持し、拡張して行く事は、日本側から見れば、生存の為に止むを得無い事だった。
 このシステムは45年もの間発展し続けた。その為に今日尚日本では、この章の冒頭で引用したドイツ人在日特派員の批評の様に、「日本には、十社から二十社の、超大商社、大商社、中間業者、小売業者と言った中世的で複雑な流通機構が有り、商品は生産者から消費者へ渡って行く過程で加速的に値上がりして行く仕組みになっている」ので有る。

 驕れる白人と闘う日本近代史 著者:松原 久子 05/12/23 第十一回目 吉野 誠

 茶の値段(アヘンは「中国古来の風習」だと信じている欧米人)
 多くの欧米人は、中国が嘗てアヘン中毒の国で有った事を未だに記憶している。各地にアヘン窟が有り、眠そうな中国人の男女が薄暗い部屋のソファーに横たわり、水パイプからアヘンを吸っている様子は、スパイ映画やアクション映画で欧米の何百万の人達がお馴染みで有る。中国人は夢を見させてくれるアヘンに自ら進んで耽り、脳を蝕んで行ったと思われている。
 アヘンの濫用は昔の中国の風習だったと言う観念が、欧米では如何に広がっているかと言う事を思い知らされたので有った。それどころか、中国が再び秩序を取り戻し、アヘンの風習に終止符を打つ事が出来たのは、自分達欧米人のお陰だと確信している人が沢山いる事を知って唖然としたのだった。
 然し、学者達は史実をきちんと述べていた。
「二千年の長きに渡って中国人は、南は山と熱帯雨林に、北はゴビ砂漠と万里の長城に守られて帝国を統合し、国境を越えて影響力を持ち、周囲の尊敬を集めて来た」とオックスフォード大学の歴史学者ジョーン・ロバートは書いている。「比較的短期間にと言ってもやはり数百年は掛かっているが、帝国の舵を取る人達が儒教と言う統一された世界観の下に育成された。彼等は、勉学と驚くべき選抜試験によって厳選された精鋭達で有った。宗教、言語、風土、気候等あらゆる条件が異なった民族の集まりで有るにも拘わらず、中国は他に例を見ないやり方で、高度な技術を持った壮大な文明圏を作り上げたので有った。」
 この文明圏では、長い年月を掛けて医学の分野でも幅広く研鑽が積まれ、深められて行った。二千年以上から中国では、アヘンとそれに含まれているモルヒネが痛みを和らげる薬剤で有る事が知られていた。そしてアヘンの使用は嗜癖の危険性を伴うことも分かっていた。
 それでは十八世紀末にいったい何が起こっていたのだろうか。
 東インド会社は既にかなり長い間、茶貿易を行っていた。1664年前後に東インド会社の当時の重役達はイギリスのチャールス二世に、価格にして四、五ポンド程度の僅かな茶を送った。国王は実は海外の鳥のレクションが趣味だったので、茶を送ったのは間に合わせに苦肉の策だった。
 所が、この苦肉の策からイギリス人の国民的熱狂が生まれたのだった。と言うのは、国王がその風味と、気分を高揚させる効果に魅了された為に、お茶はやがて宮廷や議会、そして金持ち達のお気に入りの飲み物になったので有る。
 こうして1720年前後には、英国の茶の需要は絹と木綿を抜いて、東インド会社が母国に送る商品の価格第一になる程増大した。中国はその主要供給国となった。東インド会社は茶を広東で買わねばならなかった。広東は嘗てイギリスがポルトガルを武力で追い出した中国南部の港町で有る。
 然し、ヨーロッパ側に、嘗て同じ困った問題が再浮上して来た。イギリスが提供する商品には、中国人の購買意欲をそそる物は何もなかったので、イギリスは茶が欲しければ、銀で支払わなければならなかった。
 更にヨーロッパの王侯貴族達が、茶ばかりで無く、中国様式の工芸品に言わば狂った様に夢中になると、中国は東インド会社に取って底の無い樽の様になってしまった。彼らは、中国の絹、磁器、屏風、ランプ、漆の家具等を競い合って買い求めた。その結果、銀の流失は限度を超え、東インド会社の十八世紀中の支払い超過は一億ポンドという当時としては天文学的な数字の金額となった。
 当時いかに中国の工芸品が珍重されていたかを物語る逸話が有る。ドイツの一地方、ヘッセンの先帝候は、アメリカ独立戦争で苦戦中のイギリス軍に、援軍として兵隊を大量に売却した。彼らはヘッセンの村々で農作業している所を捕らえられ、制服を着せられて売られたのだったが、その代金として先帝候が受け取ったのは、中国製の二つの大きな磁器の花瓶だったと言う実話がる。この花瓶は今日でもカッセルで見る事が出来る。
 イギリスでは、世論も、議会も、中国人が西洋の商品を買い渋っている事に怒りを露わにし始めていた。ロンドンの一般大衆には、どうして中国人が西洋の品物を讃美しないのか、購買する事に執拗に抵抗しているのか理解出来なかった。新聞は、中国人が我々から何もかう意思が無いのは、彼らが偏狭な、文明の遅れた、野蛮な人間である証拠だと書きたてた。
 その結果、国際収支の赤字を埋める為に為された努力はグロテスクとしか言い様が無い。中国人がヨーロッパの商品に全く興味を示さなかったので、東インド会社は二、三十年もの間、中国市場向けに特別に作らせた儒教と道教の奉納画を中国に輸出したのだ。然し、この仕事も余り上手く行かなかったので、彼らはポルノの画集の輸出に切り換えたが、中国当局はこう言った物が国に入って来ることを望まなかった。其処でのこの商売も駄目になったのだが、当局と話し合っている内に、彼らは中国での非合法な販売ルートの情報を手に入れる様になった。
 イギリスにとって貿易赤字が如何に憂慮すべき、切迫した物で有ったか、1793年にイギリスの王室が公式な親書を北京政府に送ったと言う事でも計り知る事が出来る。大使のマッカートニーは、当時既に三億近い人口を擁していた中国とより良い均衡の取れた通商を実現する為に、中国の宮廷の流儀に従って皇帝の前で三回跪き、九回額を床に着けた。
 中国の皇帝がマッカートニーに渡した文書による回答は、微動だにしない自信に溢れた希有な文書で有った。然し、それは当時の世界の現実から見て、無知としか言い様の無い物だった。
 「世界の遠い片隅で統治する汝英国の王よ、汝共は我らに使者を送って寄こした。その使者は我ら帝国の慣習に従って、三跪九叩の礼を尽くした。我らの帝国は我らの臣民達が必要とする物全てに恵まれている。それ故汝の国と貿易をする必要がない。然し、汝の国では茶が育たないとの由、同情をもって、我らの臣民に今迄通り茶を汝らに売る事を許可する」
 この様な慇懃無礼な語調のイギリス国王宛の文書を皇帝は大使に渡したので有る。
 マッカートニーが近い将来世界の大国に上がり詰める国の大使で有る事を、中国皇帝が認識していなかった事は明らかで有る。又、隣国のインドがイギリスに征服されたのは、政情不安だとか、政権交代と言った何時もの状況とは次元を異にしていると言う事を、皇帝に説明した大臣や側近は誰もいなかった事も明らかで有る。
 恐らく大臣も側近もインドの出来事を初めとして、中華の大国の外で起こった事など問題にする価値も無いと考えていたので有ろう。その位中国人は世界の他の国々に脅威を感じていなかったので有る。
 然し、その間、東インド会社はインドでアヘンを栽培させ、張り巡らされた仲介人の網の目を通じて広東へ船で運ばせていたので有る。ポルノを売り込んだ際に確保した非合法販売ルートを通じ、腐敗した中国の役人達を買収する為に莫大な金額を投下して、毛細管の様に広がった供給網を作り上げたのだった。 
 その経済的効果は期待以上だった。インドに於けるアヘンへの栽培は、東インド会社の独占で有った。その独占権を徹底的に行使したので、アヘンの栽培は年々拡大の一途を辿り、中国でのアヘンの消費も増加する一方だった。アヘンの常習者は増える一方で、中国の各都市にはアヘン窟が次々に出来た。
 東インド会社は二百年もの間成功しなかった中国貿易を、アヘン市場の二十年足らずの集中的な開拓によって成功させたのだった。1815年から収支は大幅に改善された。然し、東インド会社の重役達が、中国貿易で利潤を上げられる様になり、二百年来初めて黒字を計上した事に満足感を噛み締めていられていたのは、1830年迄で有った。
 アヘン貿易によって東インド会社が莫大な利益を上げていると言う話は、人々の関心を誘い、アメリカ、フランスと言った西洋諸国の商人達ばかりか、イギリスからも東インド会社とは関係無い一匹狼の商人達が広東へ続々とやって来る様になった。
 やがて遅きに過ぎたが、北京政府も自分達の国の南から北に掛けて、特に沿岸の豊かな港町に何が浸食しているかが分かって来た。直ちに政府は、アヘンの輸入は中国の法律に反すると言った再確認の意味の指令を出した。
 アヘン貿易を公然と行う様になっていた欧米の商人達は異議を申し立てた。彼等は自由貿易の原則を盾に取り、その原則は皇帝政府も認めていたのではないかと主張した。そして自分達は、既に二十年以上も皇帝からの反対を受ける事無くアヘン貿易を行って来たと言う事実をもって異議を申し立てた。彼らは慣習法を持ち出して、皇帝の専横な処置に対して抗議したのだった。
 初めは謙虚さを見せながら、次第に横暴で冷酷になって行く周到なやり口の背後には、東インド会社の幹部の狡猾な頭脳が有った。彼等は前もってマスコミを誘導していた。中国に於けるアヘン市場の開発と並行して、イギリスに於ける世論とそれに影響を受ける議会の空気を早くから操作し、遺漏のない準備に怠りなかったので有る。
「彼らはジャーナリズムの扱いが巧妙だった。」とジョーン・ロバートは辛辣な嘲りの隠った語調で書いている。「だから新聞は、彼らは儲け等と言う事を超えて、ヨーロッパ文明を普及する指命に燃えた立派な商人達だと書いている。彼らに取って重要だったのは、自分達は正しいと思われる事で有った。神の摂理とヨーロッパの進歩の側に立って、世界から野蛮な行為を一掃する事にのみ努力をしたのだと言われる事だった。」
 その為イギリスの世論のみならず、ヨーロッパ大陸諸国世論も、アメリカの世論も、今日ならば麻薬業者とか仲買人とか呼ばれるアヘン商人たちを断固として支持し応援したのだった。
 勿論、東インド会社はその辺の小さな個人会社では無い。国家から特許状を与えられた政治的大商事会社で有り、植民地政策を遂行する為に東洋の各地に軍隊を駐屯する権限を持ち、長官ともなれば絶大な権力を行使出来た。王室も議員達もこの会社の重要な出資者だった。それを逆手に取って重役達は上手くマスコミを操作したのだった。
 外交音痴の謗りを免れないが、かくして絶望の淵に立たされた北京政府は、清廉潔白で買収等はされない一人の有能な役人を広東に派遣する事にした。1839年の事で有る。恐らく彼にも誰に喧嘩を売ったら良いか分からなかったに違いない。そうでなければ、数日の内にヨーロッパの商人達のアヘン倉庫を突然押収する等と言う無謀な事はしなかったで有ろう。自国の法律を実行すると言う誇り高い自覚の元に彼は二万箱以上、売買金額にして当時、四百ポンドのアヘンを廃棄する様個人的権限で指導、監督した。
 ロンドンでは各新聞が、イギリスの財産を廃棄するとは卑劣なやり方だと書き、度を超えた野蛮な行為だと非難し、海賊がやる様な手法を皇帝は承認したばかりか命令した。この行為はイギリス王室を侮辱する物だと書き立てた。
 中国に対する報復が始まった。世論の喝采を背に受けて、イギリス艦隊は一斉に攻撃を開始した。ヨーロッパの呼称によれば、アヘン戦争で有る。三年続き、中国の降伏で終わった。
 それに続く平和条約では、中国はイギリスに二千百ポンドの賠償金を支払う事、香港を割譲する事、加えて新たに四つの港をヨーロッパに開港する事が取り決められた。条約には、欧米列強は今後アヘンを随意に中国に輸出する権利を有すると明記された。 
 江戸幕府が不安だった理由は当に此処に有る。アヘン戦争を、江戸幕府程高い関心を持って注目していた政府が世界の何処に有ったろう。アヘン戦争に至る迄の前史、敗北した後の中国の惨状を、日本の政府程熱心に分析した政府も他には無かった。危機感は幕府内部に留まらず、広く一般大衆の間にも広がって、侃々諤々の議論が行われた。アヘン戦争に至る経緯に関する本と、戦争が終わってからの中国の惨憺たる有様が書かれた本が出版され、多くの人に読まれた。
 二百年前に鎖国が始まって以来、政府の鷹派の人達が何時も言っていた「白人は与し難く、危険で有る。」と言う警告が正しかった事を、初めて一般世論が認めたのだった。
 白人が何か欲しいとなれば、絶対譲歩しない。彼らは欲しいと思った物が手に入らなければ、別の方法を考え出して目的を達成する。彼らに扉をほんの少しの隙間でも開けば、彼等はそれを無理やりこじ開ける。彼等を上手く説き伏せる事が出来ても、彼等は笑って、やりたかった事を強引に実行する。彼らに断固として立ち向かっても、彼らは恐ろしい武器の力を使って情け容赦無く反撃して来る。
 白人からどの様に身を守る事が出来るだろうか。
 アヘン戦争に関連した中国の出来事は全てを目の前にして、幕府は細心の注意を払わねばなら無い事を痛感させられた。西洋人は信用出来なかった。
 アヘン戦争が終わる1842年、幕府は全ての大名と各沿岸砲兵中隊の指揮官全員に、アメリカの船が江戸湾に入って来た1837年の時のように挑発して砲撃する様な事を絶対してはならない、そうなったらどんな事態に発展するか予測が付か無い、と言う厳重な指示を出した。
 と同時に幕府は、兵器を早急に近代化し、沿岸と港の防備を徹底的に強化し、二百年もの間放棄していた艦隊を建設するだけでも、差し当たり国の最低限の防衛になり得ると考えた。
 そう言う事情だったので、ぺりー司令長官が例の黒船、即ち東印度艦隊を率いて現れる十年前には既に溶鉱炉は操業し、鍛造工場や鋳物工場が建設され、大砲を製造する事が出来る旋盤とフライス盤の開発が始められていた。蒸気機関はオランダの設計図に基付いて造られ、固定した動力装置として次々に工場に設置されたり、エンジンユニットとして船に取り付けられ始めていた。
 残念な事に、日本がヨーロッパの技術を早急に取り入れた動機は、ヨーロッパ人の独創性を讃美したからではなかった。そうではなくて、寧ろその動機は、欧米列強の隠れた意図に対する不安と不信感に有ったと言わねばならない。そしてその不安と不信感が日本人をかくも大急ぎにさせたので有った。
 その不安と不信感が如何に正当で有ったか、そして再三江戸湾に姿を現す欧米の船団に対する幕府の極度な慎重さが如何に理に適っていたか、中国の悲劇が明らかにしてくれる。
 「アヘン戦争後、中国は欧米列強に対して実に大幅な譲歩を行ったが、欧米列強はそれでも不服で有った。」
 これはプリタニカ百科辞典からの一文で有る。それでイギリスは、1856年に極些細な出来事を新たな戦争を始める言い掛かりにしたのだった。中国船籍のアロー号が密売の為にアヘンを積んでいた。十三人の中国人乗組員は中国政府に捕らえられた。イギリス人船長はイギリス国旗を掲げた船を侮辱したと主張し、これこそ国王陛下に対する侮辱で有ると非難した。イギリスは偶々フランスと友好関係が復活していたので、両国は同盟を結ん天津迄進撃した。この同盟軍の大砲の圧力で、1858年に中国政府は、これ迄の四つの港に加えて十二の港をヨーロッパに開放し、治外法権を有する白人の居住権と白人独自の裁判権を保証し、白人は自分が望む土地を何処でも買い取る事が出来、中国全土でキリスト教を布教する事が出来ると言う新たな協定に署名した。
 然し、中国政府は、この協定に署名した後で、幾つかの容認事項の内容の削減や取り消しを要求した。
 すると、中国の協定違反にヨーロッパ諸国の世論は憤激し、同盟軍は1859年懲罰の為の遠征に出発した。首都の北京が占領され、明け渡され、その後古きヨーロッパの伝統に従って思う存分略奪された。
 フランスの遠征隊は北京郊外に有る皇帝の夏の離宮に狙いを定めた。其処は世界の奇跡の一つに数えられていた程芸術的な建築物だった。フランス人達は欲しい物を全て奪い取ってから、その離宮に火を放った。離宮は基礎だけを残して焼け落ちた。中国は完全に屈服し、1860年北京条約を結んだ。
 アロー号事件、この一連の出来事をヨーロッパでも少し引け目がちにこう呼んでいるが、この事件の初期段階の頃、江戸では、幕府と初代のアメリカ総領事タウンゼント・ハリスとの間で交渉が行われていた。アメリカは1854年に幕府が司令長官ペリーと締結した、捕鯨船の為に二つの港を開いた和親条約を改定し、無条件の自由貿易、治外法権の居留地設置、白人独自の裁判権を容認した包括的な通商条約を結ぶ事を求めた。
 イギリスの外交官で、ハリスより少し遅れて日本にやって来たオールコック卿は、ライバルのアメリカが、丁度始まったばかりのアロー号事件を巧みに脅しに使って、日本を条約締結へと急がせたと記述している。このオールコックの言葉の中に、イギリスがまんまと出し抜かれてしまった悔しさを読みとる事が出来る。
「イギリスとフランスが中国に艦隊を送っている今こそアメリカにとって絶好のチャンスだと考えて、ハリスは幕府に強く迫ったので有る。」
 自分だったら大英帝国の為にもっと有利な条約を結んだのに、と言う彼の心情が行間から溢れ出ている。


 驕れる白人と闘うための日本近代史 著者:松原 久子 05/12/9 第九回目 吉野 誠

 ゴールドラッシュノ外交官(不平等条約で日本は罠に陥った)
 開国された日本へ、外国人は人数に制限無く日本へ入って来た。開国した当初の信頼に足りる目撃証人達は、口を揃えて述べている。日本人は、町の通りで白人を好奇の目で見てはいたが、実に自然に、友好的に接していた。彼らは変わった容貌と見慣れない姿形を見て少しも物怖じした様にも見えたが、然し、拒絶する様な、ましてや敵視する様な態度は全く無かった。
 1857年から58年頃の様子をオランダの船医ポンペ・メールデルフォルトが生き生きと描写している。彼が初めて日本に来たのは、未だ通商条約の交渉の最中で有ったた。
 我々が姿を見せると、何処でも人々の歓迎を受けた。人々は家の中や仕事場から、我々を見ようと出て来て、我々が来た事を喜んでいると伝え様とした。何人かは直ぐにお茶を持って来て、恰も長い旅から帰ってきて話したい事が沢山有る隣近所の人の様に我々に接した。
 やがて通商条約が結ばれた。
 然し通商条約は、日本側から見ると、全く期待通りには行かなかった。二百年以上の鎖国の後で、交渉して条約を取り決めると言う慣れない事を遣った幕府は、完全に列強の手中に落ちて仕舞った。幕府は欧米の誠実さと忍耐強さと、威風堂々たる態度を信頼し、条約はフェアで公正なものと思う以外なかった。此の期待は裏切られたので有った。
 幕府は、アヘン戦争後の中国と同じ様な運命に成る事を極度に恐れていた。其の為どんな事とが有っても条約には、後で罠だと分かる様な如何なる付帯事項を付ける事を阻止したいと考えた。条約の文言の選定に未経験なせいで、ヨーロッパから日本にアヘンを輸入する門戸を開いて仕舞う様な事は、何としても阻止したかった。幕府は、この一点に付いては粘り強かった。そして条約文が、此の日本の存亡に関わる問題に関して、他の解釈が入る余地が無い事を確認出来たので、幕府は初めて調印に踏み切ったのだった。
 所が其の為に幕府は別の罠を見逃して仕舞った。例えば、外国人は日本に来たら、ある決まった額のお金を日本の通貨に交換する権利を有する事が条約に記載されていた。其れは一見何の心配も無い取り決めの様に見えたが、大きな問題が有った。其れは白人が日本のお金を、どの硬貨で受け取りたいか決める権利を持っている点で有る。銅貨にして欲しいとか、金貨で受け取りたいとか要求する権利が白人に与えられた。
 幕府は最初の通商条約をアメリカと取り交わすと、十分吟味する事無く同じ条件の通商条約を他の四つのヨーロパ列強とも取り交わした。 
 然し、極めて重大なのは、当時の国際的な金と銀の交換比率が、日本国内の交換比率とは異なっていた事で有る。抜け目の無い商人だったアメリカ総領事のハリスが、此の事を見落とす筈は無かった。日本では金と銀の交換比率が一対五だったが、世界的には一対十五で有った。詰まり、同じ量の銀貨で、日本では通常の三倍の金貨が得られる事になった。此の交換比率の違いが大惨事を招いた。
 此の情報は、最初は上海へ、そして其処から白人たちの別の居留地へ、瞬く間に伝わって行った。情報は更に、フランスの植民地インドシナからイギリスの植民地シンガポールへ、そして太平洋を跳び越えて、カリフォルニアへと伝わって行った。カリフォルニアはゴールドラッシュが過ぎて十年経っていたが、何十隻もの船を一杯にするのに十分な無法者たちは未だ残っていた。
 こうして日本は数ヶ月の間に前代未聞のゴールドラッシュに見舞われたので有る。
 突然何百人という白人達が遣って来て、治外法権地域の横浜に上陸した。彼らは銀貨を袋一杯に詰めて持って来て、白人の為に幕府が設置した両替所へと走った。其処で銀貨を五対一の交換比率で日本の金貨に換えた。
 此の金貨を袋に入れて、急いで上海に行き、其の金貨を一対十五の交換比率で銀貨に両替し、再び横浜へと急いだので有る。
 通商条約には此の他にも、罠で有る事が間も無くく明らかになった取り決めが有った。其れは、許可された一定金額を交換する為に両替所へ行くのは必ずしも本人で有る必要は無いという事で有る。代理人を行かせる事が可能だった。
 外国人は此の取り決めを悪用した。彼らは両替所に現れ、委任状を山と積んで提出した。
 日本当局は其の委任状なる物が本物か、偽物か確かめる事が出来なかった。というのは、通商条約に又別の規定が有って、治外法権地域では、日本の警察による調査が出来なかった。だから外国人が両替所へ一人で遣って来て、二十通の委任状を提出して、此は自分と一緒に日本へ入国して、今、治外法権地域に滞在している二十人の委任状だと主張すれば、日本は法律上許されている量の銀貨を二十人分金貨に換えなければならなかった。
 こういった状況を全て間近に見聞していたオールコック卿は、半年以上横浜と上海の間で続けられた「折り返し渡航」の事を記述している。船は続々と一攫千金を夢見る人達を運んで来た。何百人という人達が銀貨で一杯の袋とピストルをぶら下げて上陸して来た。オールコックでさえも、彼らを「日本に雪崩れ込むヨーロッパの屑」と、遠慮の無い厳しい言葉を使っている。「ヨーロッパの屑」の間で撃ち合いになる事も珍しく無く、オールコックは余計な仕事を増やしてくれたものだと不平を漏らしている。撃ち合いの際には、多数の日本人が犠牲になって命を落としたが、日本当局は「ヨーロッパの屑」を直接裁く事は出来なかった。
 此の時期にリンダウという名の医者が治外法権地域のフランス地区に駐在していた。彼は、ゴールドラッシュの数カ月間に見た事、感じた事を書き残している。
 「技術が生み出した傑作で有る我らが船、色鮮やかで金ピカな制服、威風堂々たる観兵式、素晴らしい音楽、其れ等は全て、遠くから日本人たちを感嘆させた。然し身近な所では、我々は日本人の尊敬を全く失って仕舞った。洗練されたマナーや高貴な道徳ばかりで無く、人間としての最低限の要件まで失って仕舞ったた。最も品位に欠けたヨーロッパ人が来る様になってから、日本人の心の平和と幸せは目茶目茶にされて仕舞った。白人のいる所には、何時も危険と恐怖が有った。酔っ払って大暴れする、私と同じ人種の黄金の亡者達の遣る事は、悪行ばかりだった。彼らは喚き声を上げながら町を歩き回り、店に押し入り、略奪した。止めようとする者は蹴られ、殴られ、刺し殺され、或いは撃ち殺された。我が同胞達は、通りで婦女を強姦した。寺の柱に小便を掛け、金箔の祭壇と仏壇を強奪した」
 こうした事件は横浜に限らず、将軍のお膝元の江戸でも酷かった。幕府はなす術も無く見ている事しか出来なかった。被害に有った住民は、其れ迄平穏無事だった世界に侵入して来た暴徒の前に唯立ちすくむだけだった。
 前述のオランダ人船医ポンペ・ファン・メーデルフォールトが、最初の来日から一年後に再び来日した。彼は一年前には人々が物珍しそうに、然し楽しそうに挨拶した江戸の町を歩いた。雰囲気はがらりと変わっていた。
 「日本における貨幣両替のボロ儲けが伝わるや、忽ち欧米人の群が日本に押し掛けて来た。連中の多くは詐欺師か夜逃げ店員、カリフォルニアのゴールドラッシュで金鉱堀り当てに失敗した食い詰め者、脱走水兵等だ。此の輩は日本で数々の悪事を重ねた」
 通商条約が結ばれて一年経っただけなのに」と彼は悲しそうに書いている。「其れなのに私の姿を見る人々は家の中に隠れて仕舞う。内側で閂を掛けている音が聞こえた」
 条約の不平等は、領事裁判権の規定にも見られた。領事裁判権とは、日本にいる外国人の犯罪を、日本の法律に照らして裁く事が出来ず、全て其の国の領事任せなければならないと言うもので有る。此に関して幕府は当初、「裁判権は明確に分割されていなければならない」という規定はもっともな事だと判断して調印した。
 「貴方方は自分の国民に対して責任が有ります。そして私達は、私達の国民が悪い事をしたら、彼らを罰する事を引き受けます」
 領事のハリスは交渉の際に、此の様に説明したに違いない。
 日本側で交渉の任に当たった人達は、顔お寄せ有って長々と相談し合っただろう。
するとハリスは、此の様な規定は国際的な慣習に沿ったもので有ると言ったに違いない。国際的な慣習が本当はどういう物か全く知らなかった日本側の交渉人たちは、納得せざるを得なかった。ハリスは又、此の様に決めておけば、日本の担当者は日本語の分からない外国人に手をやく必要がなくなりますよ、とでも言ったのではないだろうか。
 「文明国家は全て領事裁判権の原則に従っている」と、ハリスは恐らく業を煮やして、躊躇する日本の交渉達に説明しただろう。
 然し此の規定には、其の後数十年に渡る果てしない対決の芽が潜んでいたので有る。というのは、「文明国家」即ち欧米諸国が領事裁判権の原則に従っているのは、植民地においてのみで有り、対等の国家間には勿論存在しない原則だからで有る。
 日本は植民地になった訳では無いが、条約から見れば、植民地として扱われていたと言っても過言では無い。当時欧米諸国は、日本を自分達と同等の国だとは考えていなかった。自分達は異質な、非キリスト教国で有り、有色人種で有り、劣等民族で有ると信じていた。だから大抵の白人は、あたかも此の国の主人で有るかの様に日本で振る舞った。其の様に振る舞う事は彼らには至極当然の事だった。と言うのは、彼等は、世界の主人は自分達は白人で有り、世界のどの土地でも、其の土地の住民から何ら制約を受ける必要は無いという意識を持って生きて来たからである。其れは何も両替のボロ儲けを目指して遣って来た欧米の山師たちに限らない。彼らは人間でこの意識を露骨に見せた為に分かり易かっただけで、白人の優越感は、条約締結に情熱を掛けた外交官達と其の背後に控える国々の当然の感情だった。
 幕府の悲劇は、自分達の正義、不正義に付いての見解が、白人とは全く違っていたという所に有る。日本人にとって、「正しく無い」とは、法律に違反した、道に外れた行いで有って、白人が遣ろうが、日本人が遣ろうが関係がなかった。
 白人の見解は違っていた。彼等には、日本人が正義、不正義をどう理解しているか等という事は全く問題では無かった。彼等は、先住民に対する白人の不正義というものは、本来有り得無いと考えていた。此の考え方は植民地での強弱、上下関係から生まれた。欧米人の考えでは、不正義を認める事は弱者を意味する。劣等民族に対する不正義を認めれば、植民地で維持されている力関係が崩壊する事になる。其の力関係を獲得する為にこそ、彼らは何世紀も粘り強い戦いを続けて来たので有る。だから、弱者だと思われる様な態度を見せる事さえも、其れによって力関係が乱されるのではないかと彼らは恐れた。
 誤解は双方に有った。自己の不正義を否定する事によって、強者で有る事を示す欧米の手法は日本人には完全に異質のものだった。
 逆に白人側も、不正義を認める事が、日本人の考え方では決して弱者を意味する事では無く、場合によっては強者を意味する事さえ有るのを知らなかった。
 もしオールコックを初めとする欧米列強の外交官達が、彼ら自身「ヨーロッパの屑」と呼んだ白人達の疑う余地の無い悪事に対して、有罪の判決を下していたならば、日本の歴史の流れはひょっとしたら違っていたかも知れない。然し、オールコックも、アメリカも、ロシア、フランス、オランダ外交官た達誰一人として日本側の苦情を取り上げた者はいなかった。というのは、彼等は「ヨーロッパの屑」の方が、異教徒の先住民よりも未だましだと思っていたからで有る。
 日本当局は、治外法権地域以外の場所で悪事を犯し、逮捕された白人に対しては細心の注意を払って扱った。当局は、日本人に対して行うのと同じ様に、其の場の状況や犯罪の可能性に関する正確な報告書を作成した。そして目撃者の姓名と正確な住所を記載して、領事裁判権の協定に決められている通り、其の報告書を逮捕した白人と共に、其の国の領事の監督下に引き渡した。
 領事が、日本側に回答する必要有りと判断する迄には通常数カ月掛かった。殆どの場合、証拠不十分により不起訴という簡単な回答だった。数人を殺した殺人の場合でも、該当者は既に出国したという回答が届くのが通例で有った。
 日本の法律的見解とは全く一致しない様な事が、屡々ば起こった。日本当局によって現行犯で逮捕され、日本側の判断では、有罪で有る事が疑う余地の無い白人が、領事館を通して反対の訴えを始める事が少なくなかった。彼らは、日本当局による自分達の逮捕は自由の剥奪行為で有ると言い、銃器を取り上げた事を窃盗で有ると言ってて、慰謝料や損害賠償を要求するのだった。
 全容が文書で明らかになっている事件を見てみると、そういった訴えは、日本政府が白人の損害賠償要求を受け入れる事で決着している。其其の総領事が、背後で自国民を支援した事は言う迄も無い。だから日本人に対して「たった」一件位の殺人を犯した白人や、物的損害「だけ」を与えた白人は、最早起訴しない事になって仕舞った。
 公正を求める事は甲斐無き事で有ったた。
 日本人は初めて、ヨーロッパの論理はどの様に展開されるかを目の当たりにした。欧米列強の外交官は、彼ら自身の文化圏の「屑共」に、物事には限度というものが有る事を教示しよう等とは考えなかった。
 欧米人は正義に対して二つの尺度を持っている。一つは自分達欧米人自身の為の尺度で有り、もう一つは非西欧人に対する尺度で有る。此の事を彼らは折り有る度に目に見える様に示してくれた。
 又強者の正義は、弱者の正義に勝るものだという事も見せてくれた。
 ゴールドラッシュは八ヶ月も続き、幕府は危機に対する無能振りをさらけ出して仕舞った。幕府が為す術も無く立ちすくんで仕舞った最大の要因は何で有ったか。一言でいうのは難しい。欧米の強力な軍事力への恐怖で有ったか。横浜の治外法権地域には威容を誇る欧米の軍隊が駐屯し、江戸湾には軍艦が突如姿を現したりして示威運動をしていた。
 はたまた日本人らしい約束に対する誠実さの為か、幕府は条約に調印した以上、欧米列強に対して、条約文書の文言を一字一句几帳面過ぎる程忠実に守らなければならないという義務感を抱いていた。此の姿勢が有ったからこそ幕府は彼の忌まわしい金・銀の交換比率を悲しい迄に厳守したので有る。
 両替所の前に長蛇の列が並び、欧米の領事さえも此は不条理な事態だと見なしていたゴールドラッシュの最悪の時期に、幕府は「御客様」が困らない様に、両替所は毎日休みなく二十四時間開けて置く事という規定を守ったので有る。
 とはいえ幕府は、ゴールドラッシュに襲われた期間に、公式な金と銀の交換比率を、当時の国際的な基準に適応させる事が出来る状態ではなかった。若し其れを遣ったとすれば、ゴールドラッシュを終わらせる事は出来たかも知れないが、日本国内の経済システムは混乱に陥っていただろう。
 決定を下す能力の無い儘に、百万両の金貨が流失し、其の後も毎日金貨が失われて行っても、幕府は何もしないでいた。アメリカの領事ハリスが、もう金貨は底を突いた、という迄何もしなかった。
 そして漸く領事のハリスは、金と銀との交換比率を国際比率迄上げる様に、幕府が本来独自にもっと早く遣るべきだった事を幕府に提案した。
 ハリスは此の親切な忠告をしたという事で、日本の救世主として歴史に名前を残している。然し、ニューヨークの輸入商人から身を起こし、東アジアで商売をする上の有らゆる策略を知り尽くしていたハリスが、六年に渡る日本での勤務の後、大金持ちとなってニューヨークへ帰り、悠々自適な余生を送ったという事を聞くと、救世主という評価には釈然としないものが残る。
 日本の国内経済にとって、全て遅過ぎた。惨憺たる金の海外流失と、其れに続く突然の金銀交換比率の変更は、金融界を混乱させた。日本は初めての大きな経済危機に陥った。食料品を初めとして商品が高騰した。鎖国時代には体験した事の無い貧困と悲惨が、日本全国に広がったので有る。
 ゴールドラッシュの余韻の中で、沢山の欧米の投機家が、今度は未だ国際比率と同じになっていない銀と銅の交換比率を利用し始めた。一寸した銀ラッシュになった。彼らは樽に入れた銅を荷車で両替所のカウンターに運んで来て、銀貨と交換した。然しこの仕事には労力を要した。というのは、大きな利益を得る為には、何トンという銀と銅を移動させなければならなかったからで有る。
 毎週船に積み込まれ、日本を離れていく何百という銀の樽を見て、ポンペ・ファン・メーデルフォルトは次の様に書いている。
 「我々白人に対して、日本人から呪いと罵りの言葉しか聞こえて無くても、不思議ではない。一般庶民程、我々の罪のよって一層深く貧困に沈んで行ったので有る。」
 こうした緊迫状況の中で不満が鬱積し、やがて噴出したといっても恐らく誰も驚かないで有ろう。慎重、冷静を保つ様にという幕府の懇願する様な警告にも関わらず、何人かの侍が遂に心の昂りを抑えられ無くなった。そして白人が殺害された。
 この件に関して幾つかの本を読んでみると、開国後可成り早い時期に白人に対して一大殺戮が起こったかの様な印象を受ける。当時は既に写真の時代が始まっていたので、殺害された白人は全て写真に撮られ公開された。手書きのスケッチには、何の罪もない白人が刀を振り回した顔のない侍に取り囲まれ、殺害される様子が刺激的に描かれている。
 こういった惨事に対して心底より哀悼の意を表するに吝かでは無いが、殺害された白人の数は、当時の鬱積していた切迫感を考えると、比較的少なかったという事実も、冷静に確認しておくべきで有ろう。通商条約に調印してから、欧米の挑戦に立ち向かう事が出来無い無能さを露呈して幕府が崩壊する迄、十年という年月が流れたが、此の時期に白人に対する殺傷事件は二十件以下だった。
 殺された白人の半分以上は船乗りだった。ロシア、イギリス、そしてフランスの船員達で、港の飲み屋か売春宿で喧嘩騒ぎに巻き込まれた連中だった。大抵相手は悪名高い侠客や博徒で、こうした地区を根城にしていた。残りは、治外法権地域に駐屯している軍隊の将校と商人に対する殺傷だった。将校は制服を着用し、身なりを正して上陸する際に、偶々侍によって殺害され、商人の何人かは、裁判所の記録や欧米側に資料によれば、尋常で無い状況の中で挑戦的な振る舞いをした為に殺された。其の他には、欧米列強の高官の殺害が二件有ったが、此は唯一の計画的な暗殺事件だった。
 有名なのは、アメリカの領事ハリスのオランダ人通訳、ヘンリック・ヒュースケンの暗殺で有る。日本人の増悪の標的で有った。彼は通商条約の交渉の際に極めて重要な役割を演じたのだった。
 此の事件の直ぐ後に領事はハリスの襲撃事件が有ったが、此は失敗に終わった。
 イギリスのオールコック公使にも、暗殺計画が実行された。十四人の侍が深夜、江戸の中心部の敷地内に有ったオールコックの館に侵入した。然し直ぐに発見され、幕府がオールコックの護衛の為に提供していた二百人の侍分隊に包囲されて仕舞った。オールコックはこの深夜の騒動に対して、幕府に一万シリングの慰謝料を要求し、幕府は言われた通りの金を丁重な謝罪の言葉と共に支払った。
 イギリス第二代の駐日公使だったパークス卿にも、卿が天皇を訪問する途上を襲うという暗殺計画が京都で三人の侍によって実行された。随行した将軍の代理が攻撃を防御し、暗殺者を一人を殺害した。他の二人は取り押さえられ処刑された。
 白人が被害を蒙った全ての事件について、幕府は情け容赦無く厳しく対処した。苛酷な処置をしたのは、白人の安全を保障する為に手を尽くしている事を、欧米列強に伝えたかったからで有る。然し苛酷な処置をした背景には、欧米列強が此を口実にして日本に軍事力を行使するのではないかという恐怖感が有ったので有る。       
 暗殺者は勿論白人の生命を脅かした日本人は全て処刑された。
 二人のイギリス人の将校が鎌倉で殺害された事件では、幕府はどうしても犯人を特定する事が出来なかった。然しパークスは犯人の処罰を迫り、若し日本側が満足出来る処置をしない場合は、最終的は処置を執ると言って脅した。幕府は仕方なく、容疑者の一人で有る侍の処刑を命じた。彼は最後迄無罪を主張した。
 自分達の努力が本物で有る事を示す為には、幕府は特に残酷な処刑方法を採った。処刑者の首を板の上に載せて三日間、公衆に晒した。処刑に際しては、欧米列強の要人を招待した。彼等は礼装し、大勢で遣って来た。新聞記者も連れて来た。勿論カメラマンは何時も一緒だった。
 首を切られ、民衆への警告の為に見せ物にされている侍の頭部の写真は、世界の新聞雑誌に掲載された。ヨーロッパで、アメリカで、大新聞の一面に載った。此等の写真は欧米の何百万という読者に、日本は冷酷無比で残忍な、人間の生命等何の価値も無いと考える政治体制が支配している、という印象を与えた。
 此の写真の印象は、欧米人の記憶に深く刻み込まれ、日本に対する固定観念となった。こういった残忍な行為が行われた詳しい事情に付いての情報はなく、一人歩きして仕舞った写真の記憶だけが、欧米人の日本像をヴェールの様に覆ったので有る。
 当時日本に駐在していた新聞雑誌の特派員は、白人が日本人に対して頻繁に犯した銃殺、撲殺、強姦に付いては、欧米に全く伝えなかった。こういった犯罪に対して、欧米の領事が、治外法権地域に於ける最高の審判者として科した最も重い処罰が、三日間の自宅拘禁で有った事等、本国に伝えた者はいなかった。
 日本人の必死な訴えに対して幕府が出来た事は、落ち付いて慎重で有って欲しいというだけだった。幕府は麻痺状態で有った。
 欧米列強、特にイギリスとフランスは、治外法権地域で再三演習を行った。時には招待された幕府高官の前を、千人以上の駐屯部隊の精鋭が、ピカピカの軍服に身を固めて行進したりした。
 「コンスタンチノープルから江戸迄、我々が外国政府と締結した条約で、其の外国政府に我々の軍事的な影響力を与えなかった条約はなかった」と、オールコック卿は微笑む様に本音を漏らしている。
 そうこうする内に一冊の重要な本の日本語訳が出版された。アメリカの有名な法律家、ヘンリー・ホイートンの『万国公法』で有る。アメリカとヨーロッパ諸国との間の通商・経済関係を、簡潔な表現で法律的に解説した著作で有る。
 此の本の日本語訳によって日本人は、白人達はどんな規則や法律に従って交流し合い、通商を行っているかを初めて認識する事が出来た。アメリカ領事ハリスを初めとする欧米列強の公使達が、国際的な遣り方だと言って幕府に推奨したものは、嘘だった事が分かり、幕府は衝撃を受けた。
 欧米諸国では、お互いの貿易相手国に、自国の領土内に治外法権地域を設ける権利を認め、自己の裁判権を放棄し、通商相手国に軍隊の駐屯を許可している国等無かったので有る。
 全てが反対だった。欧米ではどの国も、自国の主権を守る為に細心の注意を払っていた。法律は万人に適応されていた。若し、民法や刑法に違反した罪を犯した場合は、外国人にも法律が適用された。
 ヘンリー・ホイートンの『万国公法』を日本語に翻訳するに際して、幕府の要請を受けて協力したアメリカ人がいると言う事を聞いて、江戸駐在のフランス公使は、アメリカの領事に対して、こう言ったと伝えられている。「許可を受けずに、我々の法律の実体を日本人に知らせる手助けをした奴は誰か。そいつを此処から消す様に手配するべきだ。其奴の首を締め上げてくれる人間を探せないだろうか。」

 驕れる白人と闘うための日本近代史  著者:松原 久子   05/12/7 第十回目 吉野 誠

 初代イギリス駐日公使・オールコックが見た日本
 「開国した時の日本は遅れた未開の国であった」という考えが、欧米人の深層心理の中に、何故これほど根強くあるのかこの疑問についてもう少し考察したい。
 この疑問は、当時ヨーロッパやアメリカからやって来て、二百年以上も国を閉ざしていた日本を実際に見た人達は、いったい何を見たのだろうか。
 彼らの多くはしっかりと観察し、その印象について詳細に報告している。開国当時の最も興味ある目撃者といえるのは、ラザフォド・オールコック卿である。彼はイギリス初代駐日公使だった。
 当時の世界の力関係を考えても、彼は大変影響力を持つ重要な立場にあった。オールコックは、初期の欧米の駐日外交官(アメリカ人、イギリス人、ロシア人、フランス人、オランダ人)の精鋭の一人であった。彼は江戸と大坂の開市、兵庫と新潟の開港を要求し外国連合艦隊の下関砲撃などを主張した。オールコック卿の在任期間は1859年から1864年迄である。彼は決して、フェノロサやラフカディオ・ハーンのような日本愛好家ではなかった。
 「異教徒の大都会で、私は生活しています」と彼は書いている。
 「私は、半分文明化されたアジア人の中で、日々を過ごす事を強いられています。異なった種類の人間たちの間で、数え切れない程沢山の見慣れない顔に囲まれて。私の僅かな随員達も同じ意地悪な運命の犠牲者です」
 オールコックは、当時最大の植民地保有国の外交官として、自分の役割に忠実であった。彼は全てに優先させて国益を念頭においた。当時の日本について記した著作には、思わず意に反して吐露してしまった感嘆と、植民地王国の矜持(きょうじ)とがない交ぜになっている。彼は書いている。
 ヨーロッパには、江戸のように沢山の素晴らしい特質を備えている都はない。又、町の佇まいと周囲の風景のこのような美しさを誇れる都もない。そして江戸程征服し占領するのが難しい都も、他に見当たらないペルシャ王セルクセスの軍隊のように強力な大軍を編成すれば別だが。将軍の居城のある町の中心部の官庁街は、重要な区域であるが、此処は余りにも広大な地域であるから、仮に占領出来ても、その後安全に確保し続ける事は出来ないだろう。ヨーロッパの指揮官は、誰も江戸のような町を襲撃して占領するだけの自信はないだろう。敵対心を持つた住民の下では、町は軍事的に持ち堪えられないだろう。喩え一つか二つか橋頭堡を築く事が出来て、其処から町を容易に破壊する事が出来たとしても」
 この胸中を明かした一節は、1863年のロンドンとニューヨクで同時に出版した日本滞在記「大君の都」の中にある。
 この本は、東アジア地域に於ける欧米列強の権益拡大に強い関心を持っていた一般大衆を、大いに啓蒙した。
 アヘン戦争があったのは、この本が出版される僅か二十年程前の事である。此処にオールコックの著作から引用した一節は、たまたま戦略的な問題に感心を抱いていたヨーロッパの一外交官の個人的な印象以上のものであった事は確かである。
 図らずもオルーコックのこの一節は、日本にキリスト教を伝え、後に聖人の列に加えられたスペイン人の宣教師フランシスコ・ザビエルが、これより三百年以上前に、日本について記していた事を思い出させる。ザビエルは、「日本人は皆用心深く、我々ヨーロッパ人が知っている武器は全て、製造する事も使う事も出来る」と書き、日本は軍事力で征服を試みるには適さない対象である、と付け加えている。
 オールコックは聖人ザビエルよりも更に細部に立ち入っている。北海道の鉛鉱山に視察旅行をした際、彼は採掘される鉛の量が多くない事に注目した。「これが日本人の使う全てであるとすれば、それは大変少ない」と書き、「この事は、兵隊が銃砲の実践教育の為に使う実弾射撃の消費量が驚く程少ない事を意味する。オールコックは、鋭い論理性、高い知能、そして植民地化に情熱を抱く時代の精神に応じた鋭敏な臭覚を備えていた。
 江戸が軍事的に征服不可能な、或いは征服したとしても長年に渉る占領は不可能な首都であるという報告は、その可能性を再三検討していた列強の思惑を窺わせる。
 又、オールコックは、開国したばかりの江戸の町を馬に乗って見物して廻った。冷静沈着なこのイギリス人が冷静沈着に観察した結果、次の通りであった。
 「表面的に見れば、日本は封建国家である。比較するとすれば、ヨーロッパの歴史では十二世紀が該当すると思われる。所がこの国で目にするものは(十二世紀のヨーロッパには何処も見られないような)平和と物質的な豊かさ、そして人々の満足した顔である。 
 二百万以上の人口を持つ江戸は、恐らくヨーロッパのどの首都にもないものを持っている。例えば最高に手入れが行き届いた道路である。道路は中心部から全ての方向に放射状に延びている。木の茂る丘を通り、気持ちの良い窪地を突っ切り、常緑樹の見事な大木が影を落とす並木道へと続く。特に役所の塀に沿った大通りや、田舎へ伸びている道路際に、他の大都市に見られない野原や、広大な寺院の庭や、木が沢山ある公園等があって、我々の目を楽しませてくれる。郊外へ出ると、道に沿って生垣が見えて来る。手入れの入念さは英国の生垣に引けを取らない。大きな果樹園が彼方此方にあって、枝を水平に伸ばした桃、梨、梅の木が列になっている。春には枝は満開の花で一杯になる。蜜柑の木には強烈な香りの白い花が咲く。真っ黄色の昼顔の花が、掘っ建て小屋や作業場迄も美しく覆っている。郊外に点在する茶庭には、花を愛でるために桜の木が植えられている。日本人は花の咲く四月にはそういった茶庭や寺へ如何にも楽しそうに出掛けて行く。一家総出で、男も女も子供達も。彼らは並木道を通って庭や寺に行き、満開の桜を楽しむ。どの道も清潔である。塵一つ落ちていない。時偶見掛ける物乞いの仏僧を除けば、不快な人の姿を見る事もない。江戸は、私が訪れた事のあるアジアの国々とは、そしてヨーロッパの少なからぬ大都市も強烈な、そして快い対照をなしている」 
 「我々は爽やかな朝の空気の中、干潟を横切って足早に歩いた」とオールコックは田舎の旅を記述している。「左に海が見え、海の上には太陽が昇る所だった。右には未だ靄に包まれた山々が、遠くに連なっていた。鶴が水田の彼方此方にいて、小さい鰻が何か餌を捕ろうとしている。上手く捕まえる事が出来ると、それを飲み込むのだが、飲み込まれる方は激しく抵抗する。我々が沿って歩いて来た池には、何千羽もの野生のガチョウと鴨が泳いでいた。彼らは猟師や犬を警戒しないので、我々が直ぐ近く迄行っても平気である。狩猟家にとっては何と忌々しい光景だろう。誠に残念だ。此処では法律によって狩猟が禁じられている。鳥達はこの事を知っているようだ。二日後に我々は箱根に山の麓に着いた。海抜二千メートルである。この景色ほど美しいものがあるだろうか。細かい砂利が敷き詰められ、舗装された街道が、肥沃な谷間を通っている。其処には稗、蕎麦、稲等が豊かな収穫を約束している。豊穣な土地、良い気候、勤勉な国民、国が豊になる為に必要なものは全て揃っている」
 オールコックは、江戸と経済の中心地である京都、・大阪を結ぶ東海道に、人と商品の往来が途絶える事がないのを見た。そして、ある宿場に泊まった時の体験を次のように書き綴っている。
 「親切に世話をしてくれたその男は、一生懸命工夫して、腰掛ける事の出来るものを即席で作ってくれた。というのは、我々ヨーロッパ人は足を組んだり交差させたりして床の上に直接座る事が出来ないからである。日本人には天分がある。あっと言う間に、余り費用を使わずに、簡単な材料で十分使用に耐えるものを作ってしまった。それは大変な才能である。宿屋の主人は半ダースの木の桶を持って来て、その上にそれぞれ一枚の板を釘で打ちつけ、その上に綿の入った座布団二枚を椅子のシート代わりに固定した。彼はあっと言う間に、大した費用を掛けずに我々西洋人がキリスト教徒らしく座れるものを作ってくれたのだが、それを見ているのは実に楽しかった」
 オールコックの本から長々と引用したのには、二つの理由がある。先ず一つには、日本人の生活や行動について、目に見えるように具体的で詳細に記述している点で、他を凌駕していると思うからである。二つ目は、彼が信用に足りる過去の重要証人であるから。彼は日本のこの時代を終わらせる為に行動した一人だからである。
 国土が美しい事、道路、家々、庭、田畑の手入れが行き届いている事、人々が豊かな事、日常生活が活発な事、日本人は器用である事、楽しそうで満足している事等全て、オールコックは自身の目で見て詳述している。にも拘わらず、彼は、日本人は能力を持った民族で、そのバランスのとれた文化と生き方は、イギリスやヨーロッパ文化圏と比べても何ら遜色のないものであるという結論に達する事はなかった。
 そういった考えは彼の本の何処にも、それを暗示するような片鱗さえも読みとる事は出来ない。道路際の生垣がイギリスの生垣と同じように入念に刈り込んであっても、道路が清潔で、ヨーロッパのどの首都の道路よりも手入れが行き届いていても、人々の外見や、お互いの付き合いの仕方に洗練差が感じられても、楽しげで平和な文化を感じ取っても、オールコックには、彼らはやはり自分たちとは本質的に異なった奇妙な民族でしかなく、そして何よりも異教徒に過ぎなかった。
 日本人は子孫へと世代を重ねて、希望のない何時も同じ運命を辿っているだけである」と、オールコックはその本の中に書いている。「彼らは偶像崇拝者であり、異教徒であり、畜生のように神を信じる事なく死ぬ、呪われ永劫の罰を受ける者達である。畜生も信仰を持たず、死後のより良い暮らしへの希望もなく、くたばって行くのだ。詩人と、思想家と、政治家と、才能に恵まれた芸術家からなる民族の一員である我々と比べて、日本人は劣等民族である」
 率直で不気味なこの言葉は、1860年頃のヨーロッパの知識人の大多数を支配していた時代精神を忠実に反映している。
 現代のヨーロッパでは、さすがに此処迄の極端な見方はない。二つの世界大戦を経て、キリスト教徒であろうが、白人であろうが、いざとなれば何をするか分からぬ恐ろしさを自ら体験し、人間の狂暴性の行き着く所を思い知り、深い絶望感に駆られ、そこから這い上がって新しい人間観、世界観を求め始めたからである。宗教の無力さを知って、教会離れは急速に進んだ。ドイツ国内の教会の参割は閉鎖或いは撤去を余儀なくされた。フランスやイギリスでも教会へ行く人は、減少の一途をたどり、もっとも極端なのはスカンジナビアの国々である。だからといって、一神教が内包する不寛容性、排他性から完全に自由になった訳ではない。二千年間キリスト教文明の優越性、絶対性をたたき込まれて来たのであるから、その心地良さから脱皮して、他の文明をも同等に受け入れるというのは大変な事である。
 アメリカはキリスト教国だと思われているが、キリスト教が国教として君臨した事は、一度もない。アメリカ独立宣言前後の教会所属人口は最も多い所で16%、少ない所ではたった4%であった。現在のアメリカでは人口の60%が何れかの宗派に属しているが、これはアメリカの歴史の中で最も「宗教的」な時代なのである。毎週日曜日のケーブル・テレビでは、キリスト教原理主義者達が、幾つものチャンネルを通して勢いよく説教を続け、「聖書の一言一句は神の言葉であり、これを信じる者のみが天国へ行く。信じない者は、他宗に騙されている者は地獄に堕ちる。我々の信仰のみが正しく、他は邪である。邪と闘う事こそ神から与えられた我々の使命だ」と叫んでいる。このテレビ説教が如何に多くのアメリカ人に影響を与えているかは、視聴者から毎週集まる莫大な献金によっても明らかである。キリスト教原理主義者たちは、その大金によって政治家を動かす。と同時にヨーロッパ人が何世紀に渡って聞かされたように、自分達は上等で他は下等、自分達は正義で他は邪、自分達は善で他は悪、という二元論を視聴者に浸透させる。人心に浸透した二元論は、世論をコントロールしょうとする政治家のレトリックに使われ、それに呼応する下地となる。ともあれ、オールコックから百五十年を経た今日、日本がキリスト教国か否かを評価の基準にする欧米人は、確かにその本国への記事を見る限り存在しない。日本発の欧米のメディアが、日本にキリスト教徒が僅かしかいないのは、精神の劣等性の表れである等と伝える事は、今日殆ど考えられない。然しながら、日本を全く対等の国と見なすには、何処か深い抵抗がある。どうしても上等下等、善悪生邪の烙印を押さなければ気が済まない。そうなれば、欠点、弱点、奇妙な点は幾らでも見付かる。どんな社会にもその社会独自の苦悩があり、マスコミには具体的な酷さが毎日掲載されている。日本駐在の欧米人は、その中から日本独特だと思われるものを、新しい包装紙に包んで本国へ送ればよい。
 曰く、日本人には欧米では自明な自由と個人主義の観念がない。曰く、日本人は生活の質に対する感覚を持っていない。曰く、集団人間であるから操作、誘導されやすい。働き過ぎや、商品の大量な輸出もそのせいである。曰く、戦時中のアジア諸国における日本人の犯罪行為が未解決なのは、日本人の道徳性に欠陥があるからだ、等々。そしてそれは、欧米の多くの読者、視聴者を、丁度オールコックの本がそうしたように、満足させ、気持ち良くさせている。日本人が自分達と違っている限り、日本人は自分達と対等な人間ではないという、欧米人の潜在意識を快くくすぐるメッセージは今も昔も代わらない。
 西洋人の不滅の日本観は、オールコックがその本の最後に、彼独特の寓意的な当て擦りを用いて自問する箇所にも響き渡っている。「ヨーロッパと経済的、外交的な関係を築き上げた日本の今の世代の子孫達が、果たして百年後に、物質的に今と変わらない豊かさと日本国民としての満足感を維持しながら、精神文化において向上しているだろうか」彼は次のように自答している。
 「時だけが答えを知っている。我々が、病気の治療の際と同じように、用意周到な処置をすることによって、手術を回避することに成功したら、日本人は、自分たちを幸せだと思うべきだ。日本人は、我々を医者として受け入れる事を心掛けるべきだ。患者が苦い薬を与える医者に反感を持つのは当然であるが、重要なことは、治癒する希望を持つ事である」
 オールコックは日本の社会は病んでいると見ていた。それはヨーロッパが望んでいるものと違ったからである。そして自分達を、病んだ日本人よりも上の立場の医者だと自任しているのである。

 誰のものでもない農地
 欧米式の「農地改革」が日本に大地主を生んだ
 もう一度、鎖国時代の日本がどう言う社会だったかを簡略に纏めておこう。
 富は国民に広く分配されていた。社会的な負担となる極端な貧富の差はなかった。エリートとして権力と影響力を持っていたサムライは、それ故に概ね貧しかった。然し、サムライは概して功名心が高く、知識欲が旺盛だったので、時代の要請に対しても進取の気性を持って対応する事が出来た。
 国内市場は世界の何処にも無い独特な遣り方で発展した。三千万人の消費者を持つ大市場が容易に形成された。消費者たちは豊だったので、商品の品質やサービスの良し悪しに対しても高度な要求をした。市場は飽和状態で、活発な激戦が繰り広げられた結果、企業家の才覚を持った人と投資好きな人達の手に資金は集まっていった。
 整備された水路、陸路の交通網が発達していただけで無く、港、倉庫、貨物の積替所、沿岸用の船団、渡し船といった下部施設も完備していた。馬を休ませ、手入れをしたり、代えたり出来る中継所も十分あった。旅人の宿泊施設は、供給過剰な状態だった。銀行制度も十分に機能していて、大小の顧客に対する信用貸しの制度もあった。
 野心的な人々、勤勉な人々、学習意欲と能力のある人々が大勢いた。彼らは、鎖国政策という意味では自由が制限されていたにも拘わらず、常に、自分の事は自分で管理するという自主独立の精神を抱いていて、其処からエネルギーを得ていた。
 そして、政府は(幕府)は、強力で中央集権的であったが、人民の日常の経済生活には、殆ど干渉しなかった。その範囲でなら自由に発展し、行動しても良いという大きな法的な枠を作り、其れ以上は、方針を決める権限をもつ事で十分であると考えた。政府は国の運命に関して政治的全権を持っていたので、ヨーロッパの支配者の様に絢爛豪華を極める事で人民を圧倒する必要はなかった。
 鎖国の中で日本が以上の様な均衡と成熟に達していた事は、ヨーロッパの様な近代化に転じるに十分な準備がなされていたと言って良い。
 多くの村で高度に発達していた織物職人に技術と、多くの都市にあった織物作業場とを結び付け、近代的な織物工業にただ編成し直すだけで良かったし、各地の陶器、磁器の作業場を、来るべき輸出市場の為に再編成すれば良かった。熟練した職人達を、能力のある工業労働者として組織し直し、既に予備教育を受けていた技術者を、新しい状態に合わせる様にしさえすれば良かったのである。
 身分間の垣根を取り払って、誰もが職業の選択や昇進の機会が均等に与えられる様にし、既にある道路網は鉄道網に変え、馬の中継所を駅にし、旗りゅう信号区間を電報区間に、更に後には電話区間に変えさすれば良かった。沿岸航行の船を建造する豊富な経験は、それを鋼鉄で造る大型で近代的な船の建造に向ける様にすれば良かった。
 既に存在していた銀行制度は、これから成長する工業や新たに始まる外国貿易に適応出来る様にすれば良かった。各種各様の、又、階級によって分けられていた学校制度は、これを統一すれば良かったし、時代に合った新しい課目を追加して、専門学校修了とか、卒業試験とか、学士号とか、博士号とかいったヨーロッパの響きのある名称を導入すれば十分だったのである。
 「日本は開国後、広範な“農地改革”を実行して、農地は全て分配された」
 “農地改革”という言葉はヨーロッパ人の間では「困った事」という連想を呼び起こすのである。ある所で農地改革が行われたと聞くと、彼らは、農地所有者から農地が奪い取られ、貧しい人達や資産の無い人達に分配された、というドラマチックな展開を思い描く。
 勿論、大地主は財産の没収には決して同意せず、激しく抵抗する。彼らはあらゆる政治的権力を用いて抵抗する。
 そういう事であるから、ヨーロッパの歴史では大きな農地改革の前哨戦において、所有者と非所有者の間で激しい対決が生じるのも不思議ではない。遂には大地主階級そのものを排除するという流血事件に至る。例えば、ロシアの十月革命の如きである。共産党が権力を得る以前は、何世紀も長い間、大地主階級が農地を独占していた。中国も同じ運命にあった。
 ところが日本で開国後に行われた“農地改革”は、全く違っていた。その理由は、鎖国時代の日本では、農地所有の問題は、中国やロシアや全てのヨーロッパ諸国とは全く異なった方法で解決されていたからである。
 ヨーロッパ人の目には、大名という絶対的な力を持った領封君主であるかの様な印象を与えるが、日本の大名は大地主ではなかった。大名は、将軍から任せられた農地を管理するだけで、所有権はなかった。
 サムライは原則的に土地を所有していなかった。せいぜい自分の家が建っている僅かな土地位が自分の物だった。
 「所有」とは、自分の意のままにでき、何時でも誰にでも売る事が出来る物と定義すれば、農民も自分が耕作している農地を、欲しい人に何時でも売る事は出来なかった。唯、村社会の内部での賃借り、賃貸し、一時預けが許されていただけである。
 形式上、田圃や、農業に利用出来る農地は全て、村の所有だった。農地には此処の農民の一世帯へ、相続によるものであれ、賃貸借によるものであれ、使用権の形で委ねられているだけだった。
 江戸時代の古い記録には、力を付けてきた農民が、賃貸借を通して村の大半の農地に使用権を持つ事を、大名や、時には幕府が禁じる命令が数多く記載されている。禁じる論拠として、それが譬え賃貸であっても、一人の人が圧倒的に多くの農地を独占的に耕作する様になると、村という共同体の内部に不満が生じてくる事、更には自立出来なくなった力の無い農民は益々遣る気を無くし、その為に残った農地を嘗てと同じ労働力を投入して耕作出来なくなってしまう事が、繰り返し述べられている。
 村は共同で田の灌漑施設を管理した。又、水がそれぞれの田へ適量配分されるように、堤防、貯水池、用水路、水門等を作って、これらを共同で維持した。田畑の中の小道、橋、街道への進入路を作り、管理するのも村だし、河川や池に漁業権を持っていたのも村だった。海の近くの村は沿岸地域にも漁業権を持ち、湾内で魚介類、藻類、その他人間の食糧として重要な海産物を養殖する権利を持っていた。
 村落共同体は森林も管理していた。森は各村に配分されていて、農業の自立にとって重要だった。森林のある山々から遠く離れた平地の村も「自分たちの」森林を持っていて、これを使用する事が出来た。森から建築等の為の用材が採れ、薪、木炭、肥料を作る為に燃やす木の葉を確保する事が出来た。
 農地の共同所有の概念は、例えば埋め立てや開墾の様な方法で、新しい農地を造成した際の措置を見ると良く分かる。 
 この様な農地に関心のある、何百人、時には何千人が参加する大掛りなプロジェクトだった。新たに確保出来る農地に関心のある、村の農民たちが参加したのは言う迄も無い。しかしこういったプロジェクトの多くは、此処の村や、村の一部の人達の財力を遙かに上回る資金を必要とした。その資金を何とか調達する為に、出資者として大名と裕福な商人、そして、銀行が登場する。富裕な神社や寺も、農地の開拓に資金を提供した。特に大きな資金提供者は幕府であった。このプロジェクトに多くの大名領地が関わっていると、幕府は其処に積極的に参加した。幕府は政治的理由から、大名達が互いに調整しあって幕府の管理の範囲を超えて同盟関係を結ぶ事を警戒したからである。
 新しく獲得した農地は、その使用権の問題に付いてきちんと取り決められていた。プロジェクトに協力し、報酬を現金で受け取った者は、使用権を持たない。無償で労働力を提供した村は、貢献度に応じて報酬を要求する事が出来る。それをどう配分するかは、村の寄り合いで話し合って決められる。
 出資者は、地域の神社、寺、町人から幕府に至る迄、その出資高に応じて、当然ながら農地の使用権を要求する権利を獲得した。しかる後、「彼らの」農地を自分の裁量で農民に賃貸し、何を栽培するかを指示する事が出来た。
 それでは鎖国時代の日本では、農地を所有していたのは実のところ誰なのか?
「所有」とは「自分の物と呼ぶ物を、何時でも欲しい人に売却する権利」と定義するならば、実際は誰も所有していなかった事になる。農地は、基本的に売却出来無い物と理解されていた。何故ならば、農地は売却の対象にならない程価値の高い物だったからである。農地は全国民の食糧の基盤であったから、全国民の生存には、農地を永続的且つ最大限に利用する事に掛かっていた。農地の所有が変わると食糧の供給に不安をもたらすと幕府は考えていた。其処で幕府は、農地の所有者が営利的な関心の対象となら無い様に、あらゆる手立てを尽くさなければなら無いと考えたのである。但しこれは、農業と林業の為の土地に付いてのみの幕府の基本的な政策だった。というのは幕府は、商人や手工業者には、商行為や投機等の自由な経済活動を許していたからである。
 農業、林業に使われていない土地は全て、先の定義に基づいて所有物であり、需要と供給の市場原理に委ねられた。例えば、都市部や町の住居、手工業者の作業場、倉庫、事務所、店などに使われている土地である。これらを売買する事が出来た。然し、価格は非常に高かった。いったい誰が日本の様な狭い社会で、財産を手放そうとするのだろうか。
 あえて言うならば、唯一の真の大地主は、将軍、正確に言えば将軍職、即ち幕府自身であった。多くの分家に枝分かれした将軍家一族で、日本の全農地の四分の一以上を持っていた。勿論それは或地域に限定されてでは無く、全国各地に分散して最も肥沃な農地を所有していた。この農地が、幕府が拠って立っている権力の基盤であった。この農地から上納される税収入によって幕府の全ての歳出が賄われた。将軍の大勢の側室たちが住む「大奥」の経費から、沿岸の戦略的に重要な拠点に大砲の陣地を建設する費用に至る迄、賄われたのである。勿論幕府は、その膨大な農地を一歩たりとも売却しようとは思わなかった。
 天皇も、特に多いという事はなかったが、幾何か領地を持っていた。宮中の生活を維持する為の収入を得るのに、丁度足りるといった程度であった。千町歩足らずの農地で、大半の大名よりも少なかった。然も幕府の統治下では、売却する事は許されていなかった。天皇も公家達も、財政的には決して恵まれているとはいえない状態であったが、売却等という事に関心を持たなかった。
 神社や寺も、鎖国以前から受け継い出来た伝来の領地を持っていた、然し、監督官庁である神社奉行が、宗教団体が財政的に豊になり過ぎ、それによって権力を得て行く可能性がないか、常に監視していたので、その領地は決して広大な物ではなかった。領地を広げる唯一の方法は、新田開発の際に出資者として参加する事だった。
 という訳であるから、日本では開国後に行われた土地改革は、ヨーロッパ人が“農地改革”という言葉から連想するものとは、明確に違ったものだった。それは没収した農地を新たに分配する事ではなかった。没収される者がいなかったのだから。それは、「所有」とは何かという新しい定義に関する単なる法律上の手続きに過ぎなかった。
 1867年に最後の将軍徳川慶喜が辞任した時、幕府は、全国の領地の一切の所有権を自ら進んで放棄した。隠居した慶喜の後継者は、江戸幕府が開かれた1603年以前に徳川家が所有していた比較的小さな領地を受け取っただけだった。
 新しく誕生した明治政府は、今迄の日本の法律を根底から変える必要性を痛感した。助言や忠告といった形で日本に確実な影響力を行使出来ると実感した欧米列強は、今迄の日本の法律は、如何にも古めかしく理解し難い滑稽な代物である、と言った。そして日本が近代化を目指しているのならば、今こそヨーロッパを手本にして法律を作る時だと助言した。
 明治政府が行った多くの改革の一つが、1872年の農地改革だった。「土地の所有」を賃貸権と使用権の事だとする従来の日本人の考え方は、ヨーロッパの尺度に従えば原始的であると見なされた。そして新しく個人的な土地所有権の概念が取り入れられたのである。
 この事は農民達にとって、農地の共同所有や賃貸契約の申し合わせといった長年培われて来たシステムが、忽ちにして崩壊してしまう事を意味した。
 突然、公証人によって文書なるものが登場して来た。それによれば、どの稲田も、どの畝も、蜜柑の木、桑の木が植わったどの土地も、茶畑も、竹林も、魚の養殖池も、畦道も、村道も、ある特定の誰かが所有者となった。農民達が今迄共同の財産と思っていた物が、又、村の自治の物に共同で育て、使って来た物全てが、今や一枚の紙によって不安になる等に完璧な遣り方で、或特定の人、特定の家族、或いは有限会社、合資会社、株式会社といった法人に委ねられてしまった、農地に付いての責任は、良い事も悪い事も村という共同体では無く、東京の新しい政府の基で外国の助言者と共に作成された抽象的な法律の中にある事になった。
 農地改革に伴い、国家の所有となった森林の管理の為に、山林局が設置された。各大名の領地を受け継いだ各県には、国有林野の管理、経営の為に営林局が設置された。森林を育成する村の役割は、村人から官僚へ移行した。道路や橋に関しては、工部省が設置された。道路や橋を造る役割は、村に代わって県当局と政府がその義務を負う事になった。
 農民達は各自公正証書を受け取った。其処には、各自がそれぞれ何世代にも渡って耕作して来た田畑の所有権を獲得し、所有権は未来永劫に文書によって保証されると書いてあった。第一の根本的な改革は、農民達が今や真の意味で「所有した」土地を、自分の裁量で売却出来る様になった事である。そして第二の根本的な改革は、農地が自分のみのになったという喜びと共に、地租の支払いも付いて来たと言う事である。
 日本の歴史を研究している欧米の歴史家、そして又彼らの仲間である日本人の歴史家の中には、こういった一連の経過を「日本の農民の解放」と呼ぶ人達が沢山いる。やっとと彼らはいう。今まで農地を持つ事が出来なかった農民たちに、彼らが幾世代にも渡って汗水を垂らして耕して来た農地が所有物として渡された、やっと彼らは人間としての尊厳を持った状態に到達した、と。
 然し、それはまるで違う。寧ろ農地の個人所有というヨーロッパの概念の導入は、日本では奇妙な結果をもたらしたのである。
 即ち農業国日本は、忽ちにして投機の渦の中に巻き込まれてしまったのである。多くの農民が農地を売却する様説き伏せられた。彼らは、急速に発展する都市で、もっと良い暮らしをしたいと望む様になり、子供も良い学校に、大学にも入れて遣りたいと思う様になった。金を持った都会の商人の多くは、チャンスとばかり、あっという間に農地を手にし、大地主になった。金があり、商才に長けた農民達も、農地をどんどん増やしていった。時の流れに付いて行けない小心な農民達は簡単に騙されてしまい、甘い話しに惑わされて土地を二束三文で手放してしまったのである。
 投資家達は短期間の内に稲田を次々と手に入れた。綿の畑、桑の畑、ミカン畑を次から次へと買い求めた。彼らは又漁業権を買い、湾の使用権を買った。彼らは日本の農業機構を完全に変えてしまった。鎖国時代の日本には全く存在しなかったものが出現した。大地主である。
 そうなると、忽ち今迄なかった社会的緊張が生じた。大地主達は、日雇い労働者を使い、出来るだけ安い賃金で働かせれば、農地からかなり大きな収益を上げられる事に気付いた。それは世界の至る所で大地主が遣って悪評を買い、嫌われた正にその遣り方だった。彼らはそれを始めたのである。彼らは儲ける事しか考えなかった。彼らは、一片の書類だけで結び付けられた見ず知らずの人間たちの労働力を搾取する者になった。その書類には、法的に取り消しが出来ない様な労働条件が定められてあった。
 農民達が自分達の村で確保していた自治、窮乏の時に仲間である事を実感させた彼の嘗ての自主独立は、大きく損なわれ、あるいは消え失せてしまった。長い間、村を支えて来た相互援助のシステムも、大幅に壊れてしまった。以前の人々の心根は、新しいヨーロッパの精神に取って代わられた。階級意識である。
 嘗ての農民一揆の原因は、殆ど何時も自然災害による空腹であった。然し、ヨーロッパの影響を受けた“農地改革”が導入されてからは、新たな原因が登場した。人間である。大災害は人災となった。
 多くの歴史家は言う。それは進歩だと。プロレタリア意識に目覚めたのだ、と。
 もう誰も農民一揆等といわない。現代的にストライキという。驚くべき事は、大地主達が肥沃な農地を掌握してしまった日本では、短期間に全国各地で、実に多くの農民ストライキが燃え盛った事である。何千回あっただろうか。人々は、自然災害を除けば、鎖国時代よりも遙かに悪い条件の下で働かなければならなかった。
 初めは自然発生的に湧き起こったストライキも、後にはどんどん組織化される様になった。ストライキは、新しいシステムの非人間性に向けられたものだった。劣悪な労働条件に抗議し、人間の尊厳な黙殺に異議を唱えるものだった。新政府は全てにおいてヨーロッパの遣り方を横目で見て、出来る限り真似をした。ストライキは全て鎮圧された。屡々流血事件になる事もあり、軍隊が出動する事もあった。当時欧米でも、ストライキをする労働者にはその様に対応していたからである。
 二十世紀になり、ストライキの件数は年々増加した。同じ様に大土地所有も進んだ。大地主の数は持続的に増加し、彼らによって支配された農地は増大した。1930年代(満州事変の起こる一年前)には、事実上日本の全農地半分は大地主の手中にあった。
 こうして日本の農地改革の機は熟した。今度は「真の」農地改革であった。
 第二次世界大戦で日本は敗戦した。アメリカ進駐軍が主導するGHQ(連合国軍総司令部)は、この大地主制を古来からの日本社会の最大の悪だと弾劾した。
 道徳的な熱意とアメリカ人特有のエネルギーを投入して、彼らは日本の国民に、如何に日本は真の民主主義から掛け離れているかを認識させようとした。今日迄極端に不公平な土地の分配が続いているのは、日本人の意識の底に、封建制に対する根強い愛着がある事を示すものであり、日本人が御上の言い分を絶対視する性向を持っている証拠である、そしてそれは社会的正義に対する重罪である、と彼らは言った。それによれば、農村で働いている農民達を自立出来ない賃金労働者に格下げし、彼らからは人間としての尊厳を奪い取る事は、人道に対する犯罪行為であるという。
「日本の民主化を遂行する為にも最も重要な処置は、数世紀に渡って続いて来た傍若無人な大地主達による農民の搾取に止めを差し、社会正義の原則を日本に導入する為に、包括的な農地改革を断行する事である」と、GHQは公式に告示した文書に書いている。
 何千人という大地主の名前が記録された。農業に利用出来る土地を一定の広さ以上所有している者全員から農地が没収された。又農地を所有しているが、離れた所に住んでその農地を小作に出している、いわゆる不在地主からも農地が没収された。彼らは、所有地を国に提供させられ、幾何かの償が支払われた。そして、「自作農創設特別措置法」に基付きを没収する事を知する公式文書を受け取った。
 当時の記録の中で、又、その後の数え切れない著書や、記事、講演等において、1946年の日本の農地改革は、厳しいが必要不可欠な決断の一つであり、この農地改革によって日本の農民は、語句をその儘借用すれば、「何百年も続いた農奴的存在から救い出され、長い間認められなかった人間の尊厳を与えられた」と賞賛されている。
 この考え方は、今日も変わる事無く生きている。西欧的な進歩の代表として現れたアメリカ人の道徳的な憤激の嵐の下で、日本人は、1946年まで日本の津々浦々に悪名高い大地主制が存在していた事を大いに恥じ入り、その恥じ入った気持ちは日本人の心の奥深く刻み込まれた。そしてその恥じ入った気持ちの為に、嘗て全く違った時代があったのだという記憶は、完全に覆い隠されてしまったのである。
 案の定というべきだろうか、1946年の農地改革は、実は好い加減なものだった。改革では、所有の再配分はなされたが、絶対的占有権はその儘だった。今日再び日本に於ける農地の十分の一以上は、其処に住んでいないで、其処から利潤を得ている大地主と投資家の手の中にある。その傾向は増えている。

 天皇も奇妙な屈折した経緯から、大土地所有の罪を犯していた。
 開国される以前は、天皇は既に述べた様に、千町歩の農地の使用権しか持っていなかった。そこから上がる収益で、辛うじて宮中の慎ましい暮らしを維持していた。将軍は退位の際に、一族が持っていた僅かな世襲領地を除いて、広大な直轄領の所有権を放棄した。そして天皇もその僅かな農地を公式に放棄した。新たな国家君主である天皇は、当然自分の収入源を自分で工面する必要は無いという考え方である。
 然し、月日が経つと共に、日本人ヨーロッパの王侯貴族たちは皆、ロンドン、モスクワ、オスロ、ストックホルム、コペンハーゲン、アムステルダム、アテネ、ナポリ、ローマ、マドリッド、そしてリスボンでも、彼らが個人的に所有する広大な領地を誇らしげに眺めているという事を知った。世界広しといえども、広大な土地を所有していない君主等何処にもいない。世界の王侯貴族は皆大金持ちばかりなのに、天皇が無一文というのは物笑いではないか。
 其処で天皇の側近達は、天皇を無一文という格好の悪い状況から救い出す運動を、国民の間に盛り上げる様心を砕いた。
 状況を変える機会は、1889年の憲法発布の際に訪れた。日本政府は、ドイツ帝国の当時の憲法に準拠して、明治憲法を制定した。
 この憲法では、王権神授説によるヨーロッパの支配者の在り方に則って、天皇は神聖不可侵とされ、軍隊の最高司令官に任じられたばかりか、天皇に百四十万ヘクタールの国有林が、憲法上譲渡され事になった。
 それは、開国する以前に天皇と宮中の生活を支えていた農地の約千四百倍の広さである。然し今度は森林だけだった。農地ではなかった。というのは、嘗ての農地はかの農地改革の際に、其処に住んでいる農民に分配されてしまっていたからである。
 天皇は国際的に比較しても、もはや惨めな一文無しではなくなり、世界で一番沢山森林を持っている君主になったという訳である。
 所が第二次世界大戦が終わると、天皇は突然、日本最大の大地主として槍玉に挙げられることになった。GHQは、天皇の所有土地を凍結し、皇室が大土地所有に関して「数百年の昔から犯して来た憎むべき不公正」をそう簡単には見過ごす事は出来ないという結論に達した。そして正義の名において、天皇は土地所有税を遡って支払う事になった。その額は三十三億円であった。
 支払いが完了すると、天皇の森林は没収された。今後は象徴としての機能を果たすだけの者に、何の為にそんなに沢山の木が必要なのか、という事であった。
 注釈 明治時代の地租改正と秩禄処分
    地租改正(農民貢祖に代わる税制確立)
 @課税標準は土地の収穫ではなく土地価格とする
 A地租は地価の3%とする
 B米納を廃し金納とさせる
これによって政府の財政基盤は強化されていく
 地租改正論議を牽引した幕末・明治の官僚学者神田孝平は
 @市場取引を認め地価を明確にする
 Aその一定割合を納税させれば検地が不要になる
 B地価の過少申告による脱税を防ぐには、申告された地価を公示し、それより高く買う者が現れた場合には地主はその土地を売るか、売らないのであれば買い取り申し出価格に比例する地租を支払う
等を提案している。 
 驕れる白人と闘うための日本近代史 著者:松原 久子  第六回目 05/11/18 吉野 誠

 金と権力の分離
 サムライは官僚だった
 映画を盛り上げているサムライの物語や伝承は、日本が鎖国に入る前の古い時代の話で有る。鎖国時代には、その様な奔放な男達が登場する余地は無かった。この国では農民が毎年納めている米の石高が貨幣の基礎になっていたという事実を思い出して欲しい。
 サムライは金銭的物質的な価値を生み出す「物の生産」と言う事に何の関わりを持っていない。彼らは将軍に仕え様が、大名に仕え様が、手当を受け取る人で有る。彼らの役目は管理と事務以外の何物でもない。武士階級は凡そ二百万人いた。人口の約7%である。給与は米で支払われ、全体としてはほぼ一定に決められていた。サムライの給与は鎖国時代の初めから終わりまで固定されていたと言う事で有る。
 給与が唯一の収入源で有ったサムライにとって、その他の階級の人達、特に商人と比較すると、生活は苦しくなる一方だったので有る。当時の日本社会に於けるサムライの役割を理解する上で、この事を知っておく事は重要で有る。
 日本は開国する以前は未だ完全な封建制度の下に統治されていたという見解をよく耳にする。将軍は専制君主で、その手には独裁的な権力が握られていたと言う事になっている。大名は封建領主で有ると思われている。ヨーロッパ人は「封建的」という言葉から直ぐに否定的なものを連想する。封建支配の下で生きなければならなかった者は、暴政、圧制に苦しめられ、日夜恐怖と不安の中で過ごさなければならなかったと考えている。
 封建主義なるものはヨーロッパで中世の初期と後期に生じたある特定の社会形態であって、価値観を伴わない言葉である。当時国王やその他の上級君主が封臣達に広大な領地、都市や村を「封土」として与えた。封臣達は、その土地と其処に住んでいる人間とを借り受け、領主の名の下にその土地を管理した。
 ヨーロッパの封建制度は然し退廃していった。それは、封土や其処に住む人々が封臣貴族の世襲財産になって仕舞う事を防ぐ措置が、その制度の中に取り入られていなかったからで有る。領地を管理する権利は、やがて領地の所有権及び支配権の要求へと発展し、遂には、王ではなく、封臣貴族による支配こそ神の御意志で有ると解釈する迄に至った。それによって、権力の乱用を食い止める如何なる規定も崩壊して仕舞った。
 日本では事情は全く異なっていた。大名にとって君主は幕府の将軍で有った。大名は二百六十余人いた。彼らは領地に配属された管理者で有って、決してその土地に住む人間の所有者でなかった。彼らは領地を侵す事は許されなかった。売却する事も担保にする事も出来なかった。
 幕府は、大名達を何時でも任地から呼び戻したり、配置換えする権利を持っていた。実際、鎖国時代の最初の十数年には、それは暫し行われた。又大名が死亡し、その息子が後継者となる時は、将軍の同意を得なければならなかった。新しい将軍が政権に就いた時も、全ての大名は新将軍の承認を得なければならなかった。
 どの大名領地にも城下町が有った。大名は居城に住み、それを管理、維持する義務が有った。幕府の許可無く城を改築する事は許されなかった。
 大名はその領地のサムライの最高雇用主で有り、大名には裁判権の行使の義務が有った。然し領地内で起きた事件で有っても、全国的な重要性を持つもので有れば、直ちに幕府に報告しなければならなかった。大名は他の大名と、民事的な争いで有れ、経済の問題で有れ、直接に交渉してはならなかった。その様な場合には、将軍に報告し、将軍の判断を仰がなければならなかった。
 大名を厳密な監督下に置いておく為に、将軍は全ての大名に一定期間、江戸に居住する義務を課した。参勤交代と言う。
 日本人は世界史的に見て特殊な条件の下に生きていた。一方では、何代も引き継がれて鎖国によって、外からの脅威に対する警戒心は薄れていった。誰もが、取り敢えず暫くは外部から煩わされないでいられるだろうと漠然と考えていた。
 又一方では、閉鎖された国の内部に発生する全ての問題を出来る限り安穏に解決しなければならなかった。でないと内乱の連続となり、自滅への道を辿る事になる。だから幕府は、階級間の調和と長期的な展望の上で保とうとしていた。この課題に対処する為に、幕府は既に述べた通り、国民の大半を占める階級、即ち農民、職人、商人の自治権を十二分に認めたので有る。
 四民の下で社会の最下層に位置し、他の階級の人達から極めて差別的に扱われていた賤民(せんみん)にも自治権が与えられた。彼らは人口の1%を占め、屠畜や動物の皮を剥ぐ仕事、皮革(ひかく)の加工等の仕事が課せられた。或いは牢屋の番人で有り、埋葬人で有った。犯罪者が処刑される事になると、彼らの中から死刑執行人が選ばれた。彼らは都市の限られた区域に住まされたが、自分達だけの管理機構を持っていて、税金を納める必要はなかった。
 少なく共13世紀末から14世紀の初頭には、国民に出来る限り多くの自治に自由を与えた方が、国民を容易に操縦出来るという事に、日本の統治者は気が付いていたと考えられる。この認識に基付いて地方自治の彼の驚くべき民主的な制度が生まれたので有った。どの集団も地方での草の根民主政治の恩恵を享受し、自分が属している地域に対する責任感が大いに高められた。
 だから幕府は日常の歯車の中に介入する必要はなかった。地方自治の制度の基、色々の事が上から指示や命令を与えるより遙かに円滑に選ばれたので有る。
 1775年頃、スウェーデンの医師カール・トゥンベルクが、オランダの商館員の資格で長崎にやって来た。彼はオランダ使節として毎年行われる江戸参府旅行に参加した。「それはおそらくヨーロッパの多くの人には殆ど考えられない、信じがたい事と思われるだろう」彼は報告書に書いている。「然し、真実なのだ。日本という国は数千万という国民から愛されている。政府は、専制政治を行う事も、統治者の都合の良い様に勝手に法を曲げる事も出来ない様な体制の上に成り立っている。・・・正義は一個人の対面や専横に左右される事無く行われている」
 この幕府の遣り方は人間の本姓に対する深い理解から生まれたもので有る。雁字搦めの法律や上からの非常な命令で、国民を満足させ、幸せにする事は不可能で有る。日本人はそれを知っていた。
 其処で、日本の統治者は国民に自治を与える以外、一体何をしていたのだろうか。と言う疑問が生じる。
 その答えは次の通りで有る。日本の統治者は権力を実に巧みに分散したので有る。そして出来上がった統治体制は、欧米人が知っているどの政治体制とも、根本的に異なるものだった。
 将軍は最高支配者で有ったが、実際には発言は余りしなかった。これは賢明な事だった。将軍職は世襲だったからで有る。後継者が狡猾で有ろうが、愚妹で有ろうが、知的で有ろうが、その決定権は限られていた。無能な将軍が頻繁に愚考をしでかすのを防ぐ為に、将軍職には僅かな権力しか与えられていなかった。こういった将軍の在り方の上に前統治体制が成り立っていたので有る。将軍は、「老中」という幹部助言者の頭越しに、単独で物事を決定する事は出来なかった。少人数構成の幹部助言者達は、現代の言葉で言えば内閣の機能を果たしていたが、政治上のバランスを取る為のクッションで有った。
 老中は、世襲の譜代大名から成っていて、その中には、将軍と同じ様に、必ずしも有用な人材という訳にはいかない人達もいた。彼らの重要な任務は、幕府の統治政策の存続に腐心する事だった。
 もう一つの典型的に日本的な珍事は、内閣の全ての役職が二重に、三重に、場合によっては四重に占められていたという事で有る。そうする事によって、権力が一人の人間に集中しない様にしたので有る。愚考、悪行が行われない為でも有った。
 内閣での決定は全て満場一致でなければならなかった。この事は、統治という行為を極めて効率の悪い鈍重な仕事にして仕舞った。絶えず幹部助言者の中に派閥や会派を生み、それが又、他の派閥や会派と権力や影響力を巡って争うという状況が生じる。これは今日の日本の政治の世界では日常茶飯事となっている事でも有る。派閥や会派は役職の取り合いを、粘り強く手間を掛けて舞台裏で演じる。何時終わる共知れない折衝無しには何も動かない。コンセンサスが成立しなければ、何事も達成し得ない。だから折衝に際しては、相手に譲歩する準備が出来ていなければ、自分の意志を通す事は出来ないと言う事を承知していなければならない。勝者と敗者が明確になる迅速で冷酷な決定は、当時もそして今日も尚、日本人の趣味に合わないので有る。
 大名の中で、石高の多い領地を与えられ、財政的にも裕福な者には、権力の配分を少なくする。幕府はそういった調整に努めた。富と権力は同じ手に委ねられてならない、という配慮からで有ろう。
 鎖国時代の日本には、言う迄もない事だが、外務省はなかった。(幕末になって大急ぎで作られた)その代わりに強大な財務省(勘定奉行)が有った。それは、大名達が余りにも裕福になり過ぎない様に、かといって負債を抱え込み過ぎない様に、監視をする監督官庁で有った。大名の中には商人や銀行から多額の借金をする者がいたからで有る。幕府の財務省は、広大な幕府直割領の管理も行った。この直割領からの収入で、居城の警備費も含めた中央政府の総支出を賄っていたので有る。
 もう一つの官庁(町奉行所)は、法律と行政当局の指令を司る所だった。其処では全国的に法律が遵守されているか監視し、新しい法律の発布に際して将軍に助言した。
 更にもう一つの官庁(神社奉行)は、神社・仏閣の為の役所だった。其処では宗教団体を管轄し、その活動が精神の領域からはみ出ていないか監視した。拙著「日本の智恵 ヨーロッパの智恵」にも詳述したが、幕府は、嘗て日本で布教活動を行ったカトリック教団との苦い経験から、宗教団体が政治に介入しない様に細心の注意を払ったので有る。それは日本古来の多神教の神道で有れ、仏教の如何なる宗派で有れ同じで有った。大きな神社や仏寺が人心を洗脳し、政治に介入し、血みどろの勢力争いを展開する余地を与えなかった。
 当時のヨーロッパでは、カトリックで有れプロテスタントで有れ、政治に介入する事は当然で、彼方此方の教会領では大司教が領主で有った。その為各地の勢力争いは宗教をバネとして展開された。この種の血みどろな抗争は鎖国時代にの日本には皆無で有った。
 他にも複雑な社会に必要と思われる沢山の部局が有った。交通制度、橋梁建設、居城の警備、海辺の護衛、サムライの武装等に関する其れ其れの部局で有る。京都、大阪、堺、長崎といった大きな自治都市の責任者には、「職務上」内閣の閣僚と同等の権限が与えられていた。それによって幕府において重要な管理・行政の統一性を維持する事が出来た。
 サムライの序列は、上から下への細かい区分がなされていた。彼らは大名の領地で財政を管理した。財政計画の立案者、簿記係、文書係、会計検査人がいた。記録主任、公証人、裁判官、教科書や礼儀作法指南書や公報の著者と発行人もいた。親衛隊として、槍騎兵として、将校として勤務する者、主君の城や館の管理人、馬丁の役目のサムライもいた。海岸警備隊や港の入口の砲台に配備された守備隊もいた。
 長崎の出島でオランダ人や中国人と取引をする際の通訳を務めた者もいる。彼らは将軍の依頼を受けて外国の書籍を翻訳したり、外国人との商取引を監査する税関吏の助けをしたりした。
 この様なサムライの中から、学者、医者、技術者が育成され。多くは幕府に直接仕え、後に東京帝国大学となる幕府の学問所で教えていた。学問所では、鎖国時代の末期には、数学、天文学、測地学、歴史、地理、医学、鉱物、冶金、機械工学、造船、兵器学等が教えられた。大名に仕え、藩校というサムライの子弟の為の学校で教えていた者もいた。そういった学校は大名の居城の有る町には何処にでも有った。
 その他に江戸、大坂、京都といった大都市に独自の私塾を創設したサムライ達も相当数いた。授業内容は、中国と日本の古典に始まり、絵画から西洋医学に至るまで多彩であった。西洋医学はオランダ語から翻訳された教科書を使って授業が行われた。そういった学校には何百人という生徒が集まった。殆どがサムライ階級の子弟で有ったが、商人や職人達の町人階級からも沢山やって来た。芸術家として世に出たいと思うサムライは、大抵サムライの階級から離脱しなければならなかった。彼らは自由業になって生きたが、彼らの中には作家や詩人として名を成した人も少なくない。有名なのは近松門左衛門で、彼の作品の大部分は今日なお歌舞伎の代表的な演目として演じられている。その他にも松尾芭蕉等が知られている。
 サムライの地位は、果たしている機能ではなく、予め定められた位によって決められていると言って良い。家来の数も、位の高いサムライと位の低いサムライでは違っていた。その家来達も又自分達のに仕える家来を、その家来も又家来を持っていた。サムライの等級、序列を合計してみると、簡単に三十や四十になって仕舞う。等級と序列の多様性には、実は深い訳が有る。大抵のサムライは財政的に苦しかった。米の石高を基準にして決められた彼らの給与は、時代と共に貨幣経済化して行く社会において、賃上げが凍結されたと同然で有った。彼らの貧しさは、鎖国時代が続けば続く程、益々目に見えて深刻になった。
 社会の最上級の身分に位置し、人々の手本とならねばならない彼らは、倹約を旨として慎ましく生きなければならなかった、それは彼らの美学でも有ったが、多くはそうする以外生きて行けなかったので有る。倹約の美学は、確かにその様な生き方を容易にはしてくれた。「サムライは貧困等ものともしない、我々は学問と高い理想を持っている」と言える様に彼らの意識は教育されていたので、華美や贅沢に比較的無頓着でいられた。
 そして多くのサムライが時と共に最低の生活状況に落ち込んで行った。ユーモアに富んだ自嘲的な諺が生まれたのもこういった状況からだったのだろう。「武士は食わねど高楊枝」
 貧しいサムライの中には、サムライの威厳を損ねる事では有ったが、密かに内職をして生活費の足しにする者も少なからずいた。雨傘、提灯、凧、簪を片手間に作ったり、網み笠を編んだり、習字の筆や凝った煙草入れを手掛けたり、その他色々な品物を作って売ったので有る。リーンリーンと鳴く鈴虫を飼育し、籠に入れて売ったりした。
 庭で盆栽を作る者もいた。自然の大きな木と同じ様に極小に作り上げた木で小宇宙を表現する盆栽で有る。当時既に盆栽に大金を掛ける愛好家達がいた。家に近くに池を作る事が出来る事が出来れば、金魚を飼って、愛好家達に買ってもらった。
 こういった経済的に厳しい現実に直面して、サムライ達は、自分達の生活を「より高い価値」によって満たす事を考える様になった。それは肩書きであった。肩書きが美しい響きを持ち、肩書きによって家来を従えた自分達が社会で重要な役割を果たしている事を誇示出来ればよい。
 例えそれがより高額な給与を生むものではなくても、肩書きはサムライにとって価値あるものだった。響きの良い肩書きは、富にはないものを補って余り有るものだった。肩書きは世俗的な金銭の世界を社会的な威信で埋め合わせるものだった。「拙者は……でござる」と言えば、それを聞いた人達の間に尊敬と賞賛のどよめきが広がるのを眺める事が出来たのである。この心情は今も尚生きている様に思われる。立派な肩書きの書かれた名刺を渡すと、尊敬の念が呼び起こされ、他の人達には閉ざされていたドアがその名刺の主には開かれるといった光景は今日でも見掛けるもので有る。
 サムライ階級の内部で、昇進の可能性が限られていた事は、鎖国時代の末期において不穏な状況を引き起こす要因となった。自分達にはその能力が有ると信じていながら、役職への昇進が阻まれていると感じている下層身分のサムライ達が沢山いた。その様な若く、野心的な地方出身の身分の低いサムライ達が、鎖国時代の終わりに、率先して幕府に反抗し、将軍の退任を要求したのだった。彼らは将軍に代わって、数百年以上も政治の表に出る事もなかった天皇を新しい統治者に戴く様提案したので有る。

 注 紀州藩における武士の子弟の教育は、現代とは比べものにならないくらい厳格なものだったそうで有る。おそらく他藩でも同じで有っただろう。儒学は、幼児より、素読と習字の指南を受けた。武道は紀州藩の師家と講武所で、水泳、槍術、弓術、馬術、火縄銃を、其れ其れの師家に付いて学んだ。寒稽古は十歳からで、毎朝、師家の若先生が、道すがら誘いに来る。眠い目を擦りながら寒風をついて稽古所に通ったという。一つの国の支配階級が、二世紀の平和な期間にこれだけの厳格な規律貴族としての義務の気風を維持しえたという事は、世界の歴史にも例が少ないのではないだろうか。その故にこそ、維新後も、新しい社会制度の中で士族を如何に扱うかは大きな実質的な問題となり、西南戦争に迄になるので有る。

 驕れる白人闘うための日本近代史  著者:松原 久子  第四回目 05/11/06吉野  誠

 江戸の人口と町割り
 江戸の人口はその60%が武家屋敷で、後の20%が寺社地、20%が町地だった。
 江戸の人口は天保期に一番膨張している。天保五年の人口調査では町民は五十二万二千七百五十四人だが、これに武家屋敷に住む旗本や家人とその家族や諸大名所属の武士と家族、神社や僧侶等の人口を含めると、大体百四十万人前後だった。
 江戸の人口に付いて、幕末に江戸に行った一年間の米の量は百四十五万石だから、その消費量から見て約百四十万人と推定している。パリを追い越してロンドンの人口が八十五万人になったのが享和元年(1801)で、百四十七万人に達したのが天保二年(1831)だから、江戸は人口の上では世界一だったと言える。当時日本の総人口は二千七百六万三千九百七人(天保五年の調査)なので、約五%が江戸にいた事になる。
 所で、この五十万人の町民が江戸の20%の土地に住んでいたのだから、現在の一千万人のマンモス都市東京と同じ様に過密都市であった。同じ範囲に一割五分の人口なのに何故過密都市かと疑いを持たれる人も多いと思うが、それには江戸の切り絵図を見れば納得が行く。
 町地は今の中央区の日本橋、京橋等が主要部分だった。其処から外へ向かって鮹の足の様に伸びている。南の方は東海道沿いに、芝から高輪、品川へ、北は奥州道沿いに浅草橋から蔵前を通り浅草へ。中山道沿いに湯島から本郷へ、西の方は甲州街道に沿って麹町から四谷内藤新宿へと伸びている。
 然し街道沿いの町地は細長くあるだけで土地としては狭いものだったし、結局日本橋と京橋が町人の密集地帯だった。
 大名達は上屋敷と中屋敷、下屋敷、蔵屋敷、抱屋敷等市中に数カ所持っていた。上屋敷は主人の住む屋敷で、中屋敷は隠居した者や、世子(家を継ぐ子)の住居に用いた。むろん広さには規定があって、元文三年の規定では、
 一万石〜二万石は 二千五百坪
 二万石〜三万石は 二千七百坪
 三万石〜四万石は 三千五百坪
 五万石〜六万石は 五千坪
 六万石〜七万石は 五千五百坪
 八万石〜九万石は 六千五百坪
 十万石〜十五万石は七千坪
 御三家の一つ、水戸家の小石川屋敷(今の後楽園一帯)は十万八百八十七坪
        尾張家の市ヶ谷上屋敷(今の自衛隊)は七万五千二百五・三坪
        紀伊家の上屋敷(赤坂離宮)は十三万七千四百七十七坪
 百万石前田家の本郷上屋敷(東京大学敷地)は十万三千八百二十二坪
 井伊直弼の外桜田の上屋敷(今の尾崎記念館)は一万九千八百十五坪
町割り
 今の祝田橋の所から皇居前広場には幕府の老中や若年寄の屋敷があってこれは官邸的な性格だった。そうしてお堀を越した丸の内一帯の大名小路と外桜田(霞ヶ関、永田町)は全国の大名の屋敷が立ち並んでいた。大名屋敷にしても、旗本でも、町人の住む町地でも、移動は共通の条件で行われていた。江戸の土地は武家屋敷、町地を問わず幕府が所有権を持っていたので、大名も旗本も町人も、地上権をもつだけだった。
 寛永(1624〜43)の頃迄に江戸の町数は約三百町になった。これらの町はこの後江戸の発展で町に組み入れられた町とは区別して古町と呼ばれ、幕府からも別格に扱われていた。この古町の町人は、将軍が代わる時等江戸城中で催される能に招待を受ける権利を与えられていた。
 明暦大火の後、本所、深川が開拓され、築地が埋め立てられて江戸の町は広がったが、この結果、正徳(しょうとく)三年(1713)迄に江戸の町は六百七十四町になった。この正徳三年に深川、浅草、小石川、牛込、市ヶ谷、四谷、赤坂、麻布等代官支配地だった場所を町奉行支配地に編入して、江戸の町数は九百三十三町と増えた。俗に言う江戸八百八町はこの頃の町数を言うのだろう。
 その後延享(えんきょう)二年(1745)寺社奉行の支配地だった門前町と境内町を町奉行所支配に移し、町数は千六百七十八町と膨れ上がったが、幕末迄この状態であった。
 町人が住んでいた典型的な町だった日本橋辺りの町割りは一町が六十間(京間で約百二十メートル)四方で、縦、横二十間ずつ三条に割って、真ん中の二十間四方は空き地にしてあった。江戸の町人の税金は現在の様な営業税とも所得税とも違っていた。この町割りの間口によって決められていた。然しこの真ん中の二十間四方の空き地だけは税の対象にならなかった。
 所が、この空き地が次第に宅地化して来たのだ。この場所を裏店とか横町と呼んだが、落語に出て来る「横町の隠居」等も此処に住んでいた訳だ。そうして皆長屋だった。
 武家、町人と大きく分けられた階級の中で、町人の中でも更に上流、中流と下層階級が生まれて来ていたのだ。裏店や横町に住むのは商店への通い番頭とか、職人や行商、日雇い労務者等だった。こうした人たちが都心の裏店に犇めき合って住んでいたのは、場末では通勤時間も掛かるし、又仕事も少なかったからなのだ。表通りは大戸をあげた大商人の店が並んでいるのに、その裏側にはこう言う町があった訳である。

 江戸メモ2(幕府の財布)
 幕末期には旗本(御目見以上)は五千二百余、御家人(御目見以下)一万七千三百余で二万二千五百余家あった様だ。幕府の直轄領は七百万石で近く、全国で二千六百万石だから約四分の一が幕府の領土で、残りを二百数十の大小名が分割していた。この七百万石のうち旗本の知行地は二百六十万石、幕府直轄の収入は四百二十万石である。
 関八州に約百万石、甲信駿遠等に五十万石、近畿地方に五十万石、諸国の天領が二百万石で、これからの上納米を四公六民とみても約百六十万石が幕府の蔵に入る。これらの収入が武士の俸給や諸役の手当、将軍家の経営費、御三卿の御賄料、格式大名への支給に当てられていたが、こうした仕事を考えても幕臣の職種は何と一千種に近い。この一千種の職種は交代制でもあったし、同役は数人いた。これは一人でも多くお役に付けたと言う事もあったが、それよりも一人の独断専行を避ける為でもあった。

 江戸メモ3(勤めぶり)
 勤めは二日勤め一日休みの当番非番制で当宿直もあった。勤め方には朝晩、夕番、寝番の一日三交代制で、遠国(大阪とか京都)の在番は下番すると一ヶ月の休暇があった。在番と言うのは大阪城、二条城、駿府城等の警備に付く役職の事を言った。老中だの若年寄の要職は巳刻(午前十時)に出仕で、未刻(午後二時)退出して、四時間制。大変楽な様だが、土日曜は無い。一ヶ月交代で一ヶ月は出ずぱりである。非番の月は原則として登城しないが式日には、仕事に立ち会ったりした。勘定奉行は朝五時には下勘定所に出勤して事務の下調べをして午前九時には登城した。勤番武士は現代のサラリーマンと余り違わない。休日と言うのは武芸学問に励むのが普通だったが、江戸中期以後はそれもしない。出世の糸口を掴む為に猟官運動に専念している。表芸の武芸を遣ったのは失業浪士であった。

 江戸メモ4(家禄)
 家禄は世襲制で、御役御免になって役高はなくても、この家禄は貰えた。武士の収入の道が止まるのは改易の時だけである。改易とは侍の名称を除き、家禄、屋敷を没収し、平民とする、蟄居より重く、切腹より軽い。蟄居や閉門の時は家禄は没収されない。所でこの家禄も江戸時代を通じて一定の感覚では考えられない。社会の経済状態が違うからだ。江戸時代も初期、中期、末期では、偉く物価に変動があったし武士達の生活様式もすっかり変わっている。例えば元和(1615〜23)の頃米一石は銀二十匁(この頃銀五十匁が金一両)であったから、一両で米が二石五斗買えた。所が慶応元年(1865)には米一石は七両二分。これからみても幕政の三百年の生活は大きい変遷がある。然し、こうした米価の推移と武士の生活は離れがたいものがあった。

 幕末という時期はたかだか十五年間です。
 
 2006/02/08 吉野 誠  「幕末の日本」より

 草の根民主主義 江戸時代の農民は「農奴」ではなかった
 「この地球上で、素朴な農民や小売商人から成る国家が、短期間に、世界有数の工業先進国へと飛躍を遂げた例があるだろうか?」
 これは著者が最近読んだドイツの新聞記事の一節で、在日ドイツ人特派員が、日本について書いたものである。
 「素朴な農民」と言う言葉からヨーロッパ人が連想するのは、「農奴」である。貴族の主人や大地主から搾取され、殴打され、もっと収穫を上げろと何時も鞭で叩かれる農奴である。貧しく、反抗的で、常に暴動を企んでいる。顔に深い皺が刻まれた人達を彼らは思い浮かべる。藁の上に寝て、涙を流しながらパンを食べ、やっと一年に一度新しいズボンを、五年に一度一足の靴を手に入れる事の出来る人達を。生涯一度も風呂に入らず、自立する事を考えた事もなかったから、読む事も書く事も出来ない人達の事を頭に思い描くのである。
 これは、産業革命以前のヨーロッパの農民に関する資料を調べた時に、必ず出会う農民の姿、生活である。ヨーロッパにおける農民の決定的な特徴は、人々の食糧の生産をひとえに担っていたにも拘わらず、領主の横暴の犠牲者だったと言う事である。彼らは身を守る力も術もなかった為に、搾取され尽くした。農民はヨーロッパ社会の最大の集団であったが、同時に社会の最も弱い構成員だった。
 それでは、鎖国時代の日本の農民の状況はどうだったのだろうか。彼らも又、数から言えば日本社会の最大の集団であった。三千万の人間を養う食糧を確保する為には、多くの人手が必要であった。日本の農民も当然村に住み、田畑を耕した。ここ迄はヨーロッパの農民と同じである。
 然し、日本の農民は、庄屋や地主の横暴の犠牲になる心配は殆どなかった。それどころか、彼らは自立していたのである。これはヨーロッパの農民には生涯体験出来なかった。当時の日本の社会は、士農工商と言う四つの階級に分かれていたが、農民は武士に次いで第二番目の地位にあったのである。
 日本の至る所に自立した村落共同体が作られた。どの村にも議会である「寄り合い」があった。寄り合いでは、メンバーの中から代表者一人と、二人の委員が選ばれた。彼らの役目は対外的に村を代表する事だった。特に年貢、詰まり納税の問題について、村の人々の意見を代弁するのが彼らに任務であった。税の額は米で計算され、脱穀し俵に詰めた米が納められた。これは村事に毎年異なり、作柄に応じ、収穫を基準にして定めたので、同じ領内の隣り合わせた村でも異なり、年々の豊作凶作により加減された。
 税の問題はどの社会に置いても核心的な問題である。国には行政と言う仕事があり、それを遂行して行く為に、税と言ったものが必要であると言う事は、どの社会でも原則的には納得している。然し、その税額が何時も厳しい対決の火種になる。国が要求する額と住民が納得の行く額を調停する事は決して容易ではない。
 日本では、最大限の公正を期した税体系の整備が試みられた。土地の地味、日光の当たり具合、灌漑の効率等を考慮して全ての水田が測量された。米による納税額の算定基準の公正と公平が保たれる様智恵が絞られた。
 ここで特に強調したい重要な事がある。それは日本では、税の額は決して農民の頭越しにお上によって一方的に決定されたのでは無い、と言う事である。納税額を決める際に、農民は代表者を通して協議・決定に参加する権利を持っていたのである。
 日本の全住民を養って行く為に必要な米は一年に大体六百トンであった。豊作の時は納税の際に問題は殆ど起こらなかった。勿論二百数十年の長い間、全国に存在した約六万三千の村々が同様に上手く納税問題を解決した訳では無い。
 自然は気まぐれである。嵐が来たり、害虫が収穫を全滅させたりすれば、大災害になる事は免れなかった。不作の年は、収穫は農民自身が生きて行くにも足りない量になった。そんな時は実際問題としても大名に米を供出出来る様な状態でなかった。然し、大名にとっても町の人達にとっても米の供給は死活問題であった。
 夏の初めに長雨が続くと、水田には、害虫が発生しやすくなる。今日の様に害虫駆除剤等なかった当時は、全く手の打ち様がなかった。ナメクジ等の生き物は目の細かい篩いで取ったり、素手で拾い集めたりした。然し、バクテリアやウイルスによって侵された稲が生長する力を失い、萎れ、或いは茎が黒くなって腐って行くのを、完全に防ぐ事は出来なかった。
 夏の終わりから秋に掛けて爆発的な勢いで増殖するイナゴの被害も大きかった。更に日本の農民が一番恐れていたのは、現代も同じだが、台風である。中でも重要なのはほぼ五十年毎に起こった全国的な大災害であった。鎖国時代には少なくとも三回あり、三回とも全国的な飢饉をもたらした。大都市であった江戸は屡々疫病に見舞われた。何十万と言う人達の命が奪われた。江戸の飲料水は神田上水、玉川上水等の水道や井戸に頼っていたので、その水がチフス菌やコレラ菌に侵されると、疫病は瞬く間に蔓延してしまうのだ。
 最初の大災害は(享保の大飢饉)は、1730年から1732年迄続いた。二百五十万以上の人達が餓死した。
 二回目は(天明の大飢饉)は、1782年から1788年に掛けてであった。特に不運だったのは1783年に浅間山が噴火した事だった。それは分厚い層となって地域を覆い尽くした。凡そ三千人の命が失われた。然し、なんと言っても影響が大きいのはやはり収穫高の損失をもたらす災害である。1785年には一年だけで百万人が餓死した。
 三回目の大災害(天保の大飢饉)は、1833年から1837年に襲った。秋に異常に激しい台風が襲来し、それが直接の切っ掛けとなって、例年の30%から40%しか収穫が上がらない年が三年続いた。
 この様な大災害の時は、農民の代表と大名の代理人との間の税の交渉も暗礁に乗り上げ、相互の話し合いは決裂した。誰もが同じ運命を予測していた。飢えているのは農村の人間だけではなかった。町の人達は農村以上に、遙かに危機的な飢餓に直面していた。貧乏人も金持ちもなかった。この様な場合、お金はもはや何の助けにも成らなかった。
 当然の事として暴動と略奪が起こった。大阪には、巨大な米蔵があった。蔵には、全国から集まった年貢米が一旦納められ、又其処から綿密な計画に基づいて全国各地に配られる。これらの米蔵は頑丈な建物で、設備には細心の注意が払われ、黴(かび)に備えて換気が施されていた。火事の時には直ぐに火が消せる様、大抵川岸に建てられていた。この米蔵から米を取り返そうと、農民達が押し寄せたのである。
 大都市では、飢えた人たちの為に残っていた最後の米の炊き出しが行われた。1833年と1837年の間の最悪な時期には、幕府は百万都市江戸の全住民に無料で毎日一杯のお粥を振る舞った。にも拘わらず当時何百万人達が空腹の為に死んだのだった。
 飢饉は世界の他の場所でも頻繁に起きた。1789年のフランス革命前の数年は同じ様に天候不順の年だった。フランス革命を導いた暴動の要因は、湿気の多い年に、穀物に付く害虫や毒性のあるアルカロイドを持った麦角菌(ばくかくきん)が大量に発生した事にあると言われている。麦角菌を含んだ小麦粉を食べると麦角中毒症や幻覚症状をおこし、毒性が強い場合は死亡する事もある。
 悪名高いのが、1845年前後にヨーロッパ全土を襲い、二百万人近いアイルランド人が北米大陸へ移住する切っ掛けになった大飢饉(ジャガイモ飢饉)である。1845年は気象状況が悪く、ジャガイモがバクテリアに侵された為、収穫が壊滅状態になった。アイルランド人は少なくとも別の場所へ移住する事が出来たが、日本人にはその選択の余地はなかったのである。
 然し日本全国が被害を蒙った大災害の年を除けば、農民たちは、大体上手く行っていたと言える。年貢米を基にした租税制度と全国に於ける米の分配も至極円満に機能していた。
 日本では同時代のヨーロッパ諸国に比べて、公正と自治が高度に機能していた。農民たちは現存の統治システムに対して反抗しなければならないと言う感情に駆られる事が少なかったのである。大名の改易や幕府の解体を求め、市民による統治を叫ぶ革命的な試みは、その萌芽さえなかった。欧米でよく耳にする様な、日本人が卑屈な民族だったからではなく、又当時自由を求める努力や試みが情け容赦なく弾圧されたからでもなかったのである。
 当時日本には、凡そ六万三千の村があった。と言う事は毎年年貢米による納税額の決定が六万三千件ある事になる。二百年以上と言う年月の中で総計千五百回の争い、若しくは暴動があったとすれば、争いの起こった比率は一万件に一回と言う事である。
 ドイツの農民は、日本の農民より遙かに不安定な生活を送っていた事は確かである。彼らは日本と比較にならない程、お上の横暴の為すがままになっていた。納税額は一方的にお上から要求され、協議に加えて貰える等と想像すら出来なかった。
 ルター時代の農民たちの血生臭い暴動は、残酷な遣り方で無慈悲に打倒された。蜂起した農民の内凡そ十数万人が殺された。彼らの大半は、稚拙に組織された一揆が崩壊した後に、領主による裁きによって殺されたのだった。
 日本でも大飢饉の時には、農民の一団の指導者となって米蔵の襲撃や略奪を扇動する首謀者がいた。そう言った首謀者の多くは暴動が鎮圧されてから捕らえられ、死刑に処せられた。その中には、その苦悩と死を偲んで国民的英雄になった者もいる。例えば佐倉宗吾の運命は劇的な事件と言う余韻に包まれて芝居の演目となり、江戸やその他の大都市で公然と上演された。
 然し、農民たちが蜂起した事に対して、もし支配者がヨーロッパの様に唯復讐に燃えて大量処刑を行ったとしたら、その様な行為は日本では無慈悲の極致であると非難されるばかりでなく、政治的な愚考と見なされたであろう。
 日本の発展にとって決定的だったのは、農耕に使われている土地が全て課税された訳ではなかった事である。沿岸地域を干拓したり、沼地を排水したり、山腹を平らにしたりして得た新田には、ある一定の期間(大体8年から15年位迄)税金が掛からなかった。
 鎖国の始まる以前から全国的に導入されたこの取り決めは、農民に新しい土地の開拓を試みる意欲を与えた。河川の近くでは、堤防を築き、河川が直線に流れる様にして、農民達には新しい土地を得る事が出来た。辺鄙な谷間に棲んでいる農民達は、険しい山腹を平らにして段々畑を作った。時には個人が考えた開拓案が、一つの村の力ではいかんともしがたい事があった。その様な場合は幾つかの村が協力し、共同の計画が検討された。
 日本ではヨーロッパと違って、農民は自分達の村の総合的な案件について、原則として自主管理をするのがルールになっていた。どの村にも戸籍係りがあった。それは、ヨーロッパの農民の戸籍係りが教会の監督下にあるのと違って、村人や寺によって運営されていた。戸籍簿には誕生、結婚、死亡が全て記載された。自分達に運営が任せられていた為に、大名の代理人と交渉する際にも、手腕を発揮しようとする意欲を期待する事が出来た。
 農民は堤防工事や、測量技術、治水工事の技術等にも精通していなければならなかった。
 稲作には、綿密な灌漑システムが必要である。雨水を溜める貯水池やダムを作り、田圃に水を引く為の用水路を作らなければならない。小さな苗を植えてから三、四ヶ月は、水田に脹ら脛位迄の水が常に保たれていないと苗は育たない。その後、稲は乾いた田で生育するので、今度は水田から水を抜かなければならない。 
 稲作では、水田を作る際にも、病害虫の駆除、除草の際にも、文字通り共同作業と協調が要求される。田の手入れを怠り、害虫が付くと、隣の田迄が害虫が蔓延してしまう危険がある。稲作は個人で出来る仕事ではないのである。
 村に関する問題で、何か決定しなければならない様な時は、農民達の話し合いが持たれた。代表者達の寄り合いの前には、談合が為され、それとなく意見が纏められた。
 こう言った多方面に渡る課題が農民にあったので、日本の農民の多くは、読み書き算盤が出来た。ヨーロッパの農民が読み書きを出来る様になる、遙か以前の事である。殆どの村には、寺子屋と呼ばれる学校があった。男子も女子も授業を受けていた。先生は寺の坊さんだったり、近くの神社の神主さんだったり、或いは年を取ってもう畑仕事は出来なくなった農民が努めたりした。自分が田畑に出て働く必要のない裕福な農家の人達も「先生」と言う、村落では名望のある仕事に貢献出来た。
 日本の農民に課せられた最も重要な拘束は、他の土地で働く為に村を出る事が厳しく禁じられていた事だった。町へ引っ越す事も、他の村へ移り住む事も許されなかった。但し、結婚による移住は例外だった。この拘束は鎖国時代の間ずっと続いた。
 幕府が安定を確保する為に発令したこの厳しい規則から、旅も禁じられていたのではないかと推測するのは間違いである。全くその反対である。旅は非常に盛んだった。旅をしたい者は、単に村役人に届け通行手形を貰えば良かった。届け出は法律によって義務付けられていた。申請者の名前を書き、目的、旅の期間を公の登録簿に記入しなければならなかった。
 旅の殆どは有名な神社仏閣のある巡礼地への参詣であった。巡礼地は全国に何百とあった。知らない土地を見て回り、どの様な農業を営んでいるかを見学する為に旅をする農民も多かった。言うならば研修旅行である。
 保存されている村の記録によると、どの位の人数が毎年何処へ旅をしたか、かなり正確に知る事が出来る。豊作で、特に心配する問題の無い年には三百万から四百万人の人達が日本各地から伊勢神宮に「お伊勢参り」に出掛けた。約一千万人が、詰まり総人口の凡そ三分の一の人々が、何処かへ旅行していたと言う年もあるのである。
 この様に沢山の農民を旅に駆り立てた者は何だったのか。知らない土地で、日頃の羽目を外して遊びたい気持ちはあったに違いない。然し、同時に盛んだったのは学習意欲である。
 彼らは他の土地の農民はどの様に田を起こし、肥料を遣り耕しているか、どんな種類の米を選んでいるのか、どんな野菜類が良く採れているのか等知りたかった。どんな桑の木が蚕を育てるのに一番良いか、どんな蚕の種類が最高の生糸を作るか、綿花から最も柔らかい糸束が採れる地方は何処か、何処の茶が風味があるか、何処の蜜柑が甘いかを見聞したかったのである。農民達は何時も新しく改良された米、野菜、果物や蚕の品種を探し求めていた。
 旅の費用は大体何処の村でも全村を上げて積み立てが行われていて、其処からこの様な研修旅行の費用が出された。村人は全員、協議・議決権を持っていて、今度は誰が旅に参加するかを決めた。
 この驚く程民主的な遣り方は、どうしたらグル−プ旅行に必要な費用を出来るだけ負担少なく調達出来るかを考えた末の智恵である。こう言う遣り方によって村人達の連帯感が強化された。旅をする事が出来た者は、持ち切れない程のお土産を持って帰って来たのである。
 事実上、何の制約も無く全国を移動出来る自由は、日本を均質的な国にする事に大いに寄与した。
 農業の発展に繋がる情報は、旅をした農民達によって短期間の内に各地に広がり、試験的に実践された。どの農具がどう言う土質の土地に適しているとか、害虫駆除の一番良い方法とか、肥料の撒き方とか、綿や茶、桑の木はどう言う土地が適しているか、或いは当時日本で栽培されていた二百四十種以上の米にはそれぞれどう言う特徴があるか等、「農業全書」や「養蚕秘録」の様に詳しく記された古い書物が残っていて今でも読む事が出来る。
 漁師の為の本も沢山ある。そう言った本には、色々な種類の魚を捕る為の網の編み方について、蛸を捕る浮けの作り方について、鮎等の川魚を捕る為の鵜を飼い慣らす方法について、牡蠣などの貝類の養殖について、静かな入り江で海藻類を育てる方法について、その肉が日本人の栄養源になって来た鯨を捕る方法について、知っておかなければならない事が書かれている。
 病気について、それから病気を如何に予防するかについて書いてある本もあった。予防には毎日入浴するのが良いと書いてある。
 予防医学と言える療法が発達していたにも拘わらず、子供の病気は中々防ぐ事が出来なかった。産業革命以前のヨーロッパと同じ様に、日本でも以前は子供の半数は十五歳にならない内に死んでしまった。ジフテリア、天然痘、麻疹、百日咳、流行性耳下腺炎、それからこう言った伝染病によって誘発される合併症、特に肺炎が子供の達を死に追いやった。鎖国時代の人口がほぼ一定に保たれていたのは、飢饉に次いで子供達の死亡が人口を阻んだ為だと思われる。
 更に出生率を制限している意識的な傾向があったに違いない。幾つかの地方では女性の平均的な結婚年齢は24歳で男性は28歳だった。最初の子供が生まれのは結婚してから三年と言うのが平均的だった。結婚した夫婦の半数は子供二人以下で、後の半数は一夫婦当たり4人から5人の出生数だった。堕胎した女性の死亡率は高かった。
 多くの地方で、又多くの時代において、大名達は子沢山を奨励した。大名達は育児金さえ支払った。特に寒い北の地方では、飢饉の年には養育出来ないと言う理由で、産まれた子供を殺さなければならない母親が沢山いた。
 年を取って労働力として役に立たなくなった人間を、死んで貰う為に冬の山に連れて行って置いて来ると言う習慣が、日本では当たり前であった様に欧米人は信じている。然し、それ程一般的であったかどうか、十分な史料に出会った事が無いので不明である。1957年に出版された小説「楢山節考」を基にした映画の影響は大きい。
 鎖国時代の書物の中で、著者は何度も肥料の入手についての指摘にぶつかった。三千万人の人口を養って行く為には、あらゆる手段を尽くして土地が痩せるのを防がなければならなかった。数世紀のもの間ヨーロッパ中西部で行われた三圃式輪作農法では、痩せた土を回復する為に畑の三分の一を一年間休ませていたが、日本人には貴重な土地を無為に寝かせて置く事はしなかった。田畑を毎年、暖かい地方では年に二回耕作する為に、土地から引き出せる物は全て引き出さなければならなかった。耕地の酷使とも言えるこの条件の下で、土地が痩せるのを防ぐ為には、最大限に効果的な肥料の開発に掛けるしかなかった。
 肥料は、家畜の糞尿だけで無く、人間の排泄物が重要な供給源であった。人間の糞尿は、ヨーロッパの村でもそうであった様に、肥溜めに集められ、畑に運ばれたのだが、必要量の大部分は町に頼らなければならなかった。町の通り毎に、或決まった村がそれぞれ振り当てられていた。町には、月に一度定期的に、農民が肥桶を担いで遣って来て、それぞれの肥溜めから糞尿を運んでいた。
 百万都市の江戸でもこのシステムは円滑に遂行され、その他のゴミの回収もこれと連動していた。肥料として利用出来る物は、何であれ浪費することは許されなかったので、日本の道路には、汚物、ゴミ、くずの類は一切落ちていなかった。この事は当時日本を旅した数少ないヨーロッパ人の旅行記にも、驚嘆の念を以て記されている。人間と動物の排泄物やゴミが道路や裏庭に積まれたヨーロッパの町々と比べて、余りに清潔なので不思議に思ったのだった。動物の糞も直ぐに綺麗に取り除き再生リサイクルの循環の中に組み込まれていたのだ。それは、町の道路ばかりで無く、街道でも同様だった。街道には決まった間隔で厠が設置されていて、旅人達が利用した。糞尿は近くの村が取りに来た。厠は農民達によって何時も清潔になっていた。
 余り美味しくない魚や、人間の食べ物に適さない藻等も、漁村で高度に乾燥凝縮された肥料に加工された。かなり多くの海岸では藻は一年を通して相当量取る事が出来たので、漁民達は本格的な肥料加工場を作って、製品を船で遠く離れた地方へも送る様になった。
 大豆を発酵させて醤油を造る時に出る搾り滓も、大変良い肥料になった。菜種と亜麻の種子から油を搾り出す時にも、同じ様に滓が出た。搾り滓は良質な肥料として売れた。更に農民は自分の家の竈の灰を貯めて置いた。落ち葉や枯れ枝を燃やした後の灰等も他の肥料と混ぜ合わせて使用し、土壌に重要な無機塩類のバランスを取った。
 こう言った知識は当時の本の中で紹介されている。それらの本が何版を重ねている処から、この時代、実に多くの農民に読まれていた事が推察されるのである。
 日本の村がこの様に発達して行った理由は様々あるが、農民が村を出て町へ移住する事を禁じた例の幕府の法律による事が大であろう。この法は守られなかったと言われるが、もしこの法律がなかったなら、日本の社会機構はもっと早期に、大量の農民離村によって不安定になっていただろう。都市には貧民が溢れ、窒息状態になっていたに違いない。そうなればヨーロッパの都市と同じく広範囲に渡るスラム街が出来、犯罪の温床となり、一般人の生活を脅かしていただろう。
 日本が選択した方法は、将来の為に間違いなく良い発展をもたらした。地方には彼方此方に手工業の紡績工場が出来た。手工業の訓練を受け、紡績工場で働ける何百万と言う労働力が育成されて行った。既に18世紀の半ばから、農民の全収入の四分の三以上は、稲作やその他の農業生産によるものでなかった。この事からも手工業的な工業活動が、当時如何に大きな規模で行われていたか想像が付く。
 今日尚日本経済を特徴付けている。かの悪名高い日本独特な感覚、即ち集団主義的で排他的な共同作業に対する感覚と長期計画に対する感覚は、この様な農村地帯で培われ発展した。
 この章の冒頭に上げた、鎖国時代の日本の「素朴な農民」の姿とは、以上の様な物だったのである。
      
 感想:鎖国時代の農業と現代の農業では根本的に遣り方が違う。今の我々が鎖国時代の農業を遣れと言われれば、とても出来ないと思われる。村落共同体で農作業をしなければ出来ない。村落共同体と言う意識が現代人に芽生えるか疑問である。

 <驕れる白人と闘うための日本近代史 著者 松原 久子>   2005/11/1   吉野 誠

 「五百年の遅れと奇跡の近代化」という思い込み
 19世紀の中頃、日本は鎖国を解き、怖ず怖ずと扉を開いた。途端に西洋の波が怒濤のごとく流れ込んで来た。両者の相違は著しいものだった。此迄閉ざされた空間の中で、人間と自然の間の微妙なバランスを保つ事に心を砕いて来た日本社会に、根本的な精神が入って来たのである。
 即ち、全てを征服したい、征服した後の事はそれから考えるという拡張謳歌の精神である。
 開国したばかりの日本に西洋からやって来た人達は、この国は二百年以上も戦争がなかったばかりでなく、社会が安寧を保ち、人々は太平の世を謳歌している豊かな国である事を見抜けるだけの態勢になっていなかった。西洋人にとって重要な事は唯一つ、日本はキリスト教ヨーロッパ文化圏の外にあった。
 もし誰かが当時、あの遥か彼方の黄色い肌をした異教徒の住む島国が、一世紀も経たない内に、世界有数の工業国に発展するだろうと大胆な予言をしていたとしても、それは冗談だとさえ思われなかっただろう。
 ここで一人の証人にご登場願う事にする。ドイツ人の医師、エルブィン・ベルツである。彼は1876年に来日し、四半世紀以上、東京帝国大学医学部の教授として日本に滞在した。家族に宛てた最初の手紙に次の様に書いている。
 「お前たちは大体こんな風に想像すれば良いだろう。日本人は僅かか十年前迄、我々の中世の騎士時代の文化状況、つまり、教会、修道院、手工業者同業組合といった封建制度の中で生きていた。それが今、我々のヨーロッパ文明がたっぷり五百年を掛けて成し遂げた発展過程を一足飛びに跳び越えて、ヨーロッパがやっと19世紀になって勝ち取ったものを、一挙に横領しようとしている訳だ」
 これは手紙の一部分であるが、当時日本についてやって来た外国人が、見て、感じた事全てを要約している。この見方は、今日尚日本について聞いたり、読んだりする事の殆どに浸透している。この陳腐な発想の呪縛から自由になれる人は先ずいない。五百年先を走り続けた西洋文明に一気に追いついた民族が世界の片隅にいるという現実は、多くの人を興奮させた。白人たちは神経を苛立たせた。神秘を感じながら危険を感じた。その様な事を成し遂げる事が出来るのは、いったいどんな人間か。その黄色人種は、異常な力を駆使でき、ヨーロッパ世界の脅威となる天才的な超人か、はたまた悪魔か。
 このアンビァレントな想像は、ヨーロッパの人の心を深く惑わしている。好意的に考えるか、反感を持つかによって、日本は神秘と力に満ちた国になったり、暗黒の陰謀に満ちた帝国として描かれたりする。しかし、魅惑も恐怖も、誤解に基づいたものなのである。
 著者はこの問題を、何故他の国々は日本と同じ事を成し得なかったか、と、発想を転換して考えてみたいと思う。
 世界の至る所に、アジアにも、アフリカにも、中東、近東、南アメリカ、中央アメリカにも、今日なお開発途上国のグループに数え入れなければならない民族がいる。彼らは苛酷な植民地時代から解放されると、欧米の仲間入りをする為に力を尽くした。
 彼らは何十億ドルという開発援助金を貰った。工業化社会に円滑に移行できる様に特別な援助計画が立てられた。工業列国は道路、鉄道、空港を建設した。全てが完備された工場施設も建てた。その国々に適した独自の工業が始動出来る様に心を配った。エネルギーの供給を改善する為にダムと発電所も建設した。
 工業列国では今日、開発途上国の人達を実地指導する為に、多大な労力が費やされている。そして開発途上国の多くの留学生が、工業列国で様々な知識を学び、帰国している。にも拘わらず、その成果は、幾つかの途上国が半工業国のグループへと発展する事に成功したとはいえ、大半は期待の遥か彼方に留まった儘である。
 この状況を日本が19世紀の後半に置かれた状況と比較してみたい。当時は国際的な開発援助なかった。技術教育の助けも財政援助もなかった。学術、技術、文化の交流計画もなかった。工業先進国の費用で学ぶ事が出来る第三世界諸国からの留学制度もなかった。国際連盟も、国際連合もなかったし、世界銀行もなかった。
 あったのは苛酷で、情け容赦のない植民地主義だけだった。植民地妄想に取り憑かれた欧米列強にとって、自国の国境の向こう側、甘いお菓子以外の何物でもなかった。日本の様な、二百年以上の鎖国から顔を出したばかりの小国は、欧米の植民地保有国の豪華な食卓のデザートになって終わりを遂げてしまわない様注意しなければならなかった。
 西洋人が、「我々は日本人を援助した。我々の助けがなかったなら、日本の近代化は決して成らなかった」と言うのを暫し耳にする。
 事実こうである、日本政府は開国の後、「自国の費用で」何百人と言う日本の学生をヨーロッパの工業国に留学させた。そして日本政府は、同様に「自国の費用で」学者や技術者を日本へ招聘した。
 今日尚発展の遅れを引きずっている国々は、その原因が必ずしも植民地主義の後遺症だけとは言えない。
 例えばトルコは、嘗て一度も植民地になった事の無い国である。オスマン帝国は、ヨーロッパに隣接しているという地の利の為に、数世紀を通じてヨーロパの発展を直ぐ近くか追い掛け、学ぶ事が出来る状況にあった。財政的にも力のある強力な国であった。だが長期に渡って革命による混乱が生じ、20世紀の初めに、帝国の武力外交政治は崩壊した。ケマル・アタチュルクは中心部、所謂トルコを守り抜き、近代化を促進したが、成果は乏しかった。
 同様に不思議なのは、中南米の国々である。スペインやポルトガルの植民地支配が終わってから、常にヨーロッパとの交流を維持していたにも拘わらず、ヨーロッパ世界と歩調を合わせる事の出来た国は一つもなかった。
 当時の日本人が本当に、ヨーロッパに五百年の後れをとっていたのだとしたら、その後、驚異的な発展を遂げた日本人は奇跡を行う人達であり、世界に例をみない天才的な才能を持った超人だと言わなければならない。
 しかし現実には、工業化の為の前提条件は、当時既に十分に満たされていたのである。国を開いた19世紀半ばには、日本には貧富の極端な差はなく、富は広く分配されていた。また手工業の教育訓練を受け、学習意欲のある、と言うより学習塾に取り憑かれた若者が沢山いた。見事に運営された学校制度があった。総人口の比率で比較すると、殆ど全てのヨーロッパ諸国よりも多くの人た達が読み書きが出来た。
 数世紀前から国内市場が栄え、見事に張り巡らされた交通網と、それに付随する道路、運河、船の航路と言った産業基盤も完備していた。資金は、贅沢を第一に考える人達でなく、投資事業に意欲を持った人達の懐の中にあった。
 手工業から工業化された生産過程への切り替えを可能にする為には、教育・訓練を受けた人々が存在しなければならない。その際一番良いのは、国民が手工業の伝統を持っていて、技術的な手際の良さに対する高度な要求に応えられる事である。その様な環境の中にいた人たちは、従属するべく飼い慣らされ、貧困の中にいた人達よりも、遥かに向学心があり、学習能力にも優れている。
 工業化を成功させる為には、輸送も不可欠である。また十分な運搬手段も必要、旅館、倉庫といった下部施設も充実していなければならない。
 最後に、自力で工業化を成功させる為にに必要なのは、資金である。資金を貸し出す事の出来る金融機関、銀行がなければならない。
 此等の前提条件は、19世紀半ばの日本では、既にに十分に満たされていたのである。
 近代化を妨げる恐らく最大の問題は、富の不平等な分配である。一握りの上層階級が土地の大部分を所有し、其の土地から生み出される富の大部分を独占する限り、需要も偏ったものになる。経済活動の軌道は金持ちの要求する方向へ向けられる。金持ちの贅沢な要求を満足させるために、繊細で素晴らしい芸術作品が生み出される事も屡々ある。しかしその芸術作品を創作した民族の大部分は貧困に喘いでいた。彼らは僅かな上層階級の人達の豪華な生活の為に死ぬ程酷使される運命にあった。
 民族によっては、この構造が今も続いている。その様な社会には希望というものが生まれない。経済的な豊かさと購買力が広く行き渡っている事が、工業化の為の前提条件である。その条件を満たしている所で、初めて人間が何かを成し遂げ様と言う意欲を持つ。成し遂げた事が報いられた時き、更にに大きな希望が湧くのである。
 何故、天然資源の豊富な大国ロシアがあの様に遅れてやっと西ヨーロッパ諸国に追いつく事が出来たのか。嘗て計り知れない程豊かな国だったスペインが、貧しかった北部、西部ヨーロッパ諸国に遅れを取ってしまったのは何故か。
 その原因を一言で言うならば、貧富の差が余りにも大きかったと言う事である。その貧富の差の為に、広く全国民に利益を齎す工業化の芽が摘み取られてしまったのである。貧富の差が拡大する事を食い止める効果的なメカニズムが、経済の仕組みの中に組み込まれていなければ、その社会はあっと言う間に、破局へ雪崩れ込んで行くだろう。無産階級が破滅の淵へと追い込まれ、生きる望みを失った時、彼らは暴力へと手を伸ばす。貧困、嫉妬、そして社会の不正に対する怒りが、常に革命の最大の温床であった。
 日本には革命がなかった。何故か、と言う問いには沢山の答えが可能であるが、結局日本程、貧富の差、上層と下層の差が極端でない国は、世界の何処の国、何処の民族にもないと言う事である。
 フランス革命の必要性は何故生じたか?である。
 革命の原因は、数え上げればきっと沢山あるだろう。然し一つの指摘が全てを包括して説明していると思われる。革命以前フランスは、一日に一ルーブル稼ぐ事が出来れば有り難いと思わなければならなかった。年収およそ三百ルーブル。それに対してルイ十六世の妃マリー・アントワネットの衣装代は、年におよそ二十五万ルーブルだった。今日の金額に換算すると、少なくとも六千万フランである。民衆の心が煮え立ったのも不思議ではない。
 住民の間で個々の集団の格差が余りにも極端になると、その社会は不安定になると言うのは、古くから日本人の考え方に深く根差した言わば常識の様なものである。他の国々はこの事に気が付かなかったのか、理解に苦しむ。鎖国時代においては、この考え方が国の基本指針にさえなっていた。
 この影響は、現代の日本企業の給与体系にも見る事が出来る。欧米では、企業幹部がの給与が、一般労働者や一般社員の給与の百倍、千倍と言事も珍しくない。
 更に日本人は、狭い国土の中でパニックを避ける智恵を身に付けていた。幾ら善良な心の持ち主であっても、当時日本人が暮らさなければならなかった様な狭い環境の中で生きていれば、いざこざや争いが起きるのが当然である。
 ヨーロッパ人は隣国と戦争する事によって鬱積した苛立ちを発散させ、植民地で日頃の鬱積を晴らした。しかし日本人には、この何れの可能性も与えられていなかった。鎖国という状況の中で、社会が生き延びて行く為には、内部に溜まった不満のガスを抜き取る弁が無い以上、問題はあく迄で自己の中で完結させなければならなかった。
 今日でも日本へ遣って来る欧米人は、日本の人口密度の高さを実感して驚く。デパート、交通機関で、見渡せないほどの人間の群れがひしめいている。そしてこれ等の群衆が窮屈さに苛立ち、口論や殴り合いを始めない事に驚く。日本人は、見知らぬ人達の群衆の渦の中にあっても、何時でも目に見えない自分の繭に引き隠る事が出来る能力を身に付けているからである。どんな雑踏の中でも欧米人ほど苛立たずにいられるのは、歴史から得たものである。日本人は周囲と関わりたくなければ、周囲を超越する事が出来る。自分自身の世界に悠然と構え、まどろむ事さえ出来るのである。此等は皆鎖国時代の遺産である。
 また一方日本語は、断定的な表現を避け、暗示という綿のような柔らかい表現方法を発達させた。それによって人々の間でクッションの入った意思の疎通が可能となり、刺激的な物言いが和らげられ、過敏な反応も回避する事が出来た。日本人は自分とは反対意見の相手に、当たり障りの無い言い方で賛同する事さえ決して希ではない。そして自分の考えはそのまま腹にしまっておくか、とりあえず、自分が考えている事は、それ程重要ではない様な言い方をしておく。それは狭い社会で物理的に生き延びて行く為の方法だった。それは、詰まらない事で争う事を避けたいという人間の願望が生み出した智恵である。争いは、個々人の間であれ公的な世界であれ、無視されたとか、冷遇されたとか、侮辱されたとか言った詰まらない切っ掛けから起こるものである。
 其処で日本では、ヨーロッパの人達が良く過剰な儀礼の表現だと敬遠する礼儀作法が発達した。この作法は、要は、人間が空間的にお互いに離れる事の出来ない社会において、相手と人為的な距離を作る為の手段なのであった。
 今日も尚日本では、譲歩したり、相手や場の雰囲気に合わせたりする事が、美徳として高く評価される。譲歩して始めて何かが達成出来る。
 この一見矛盾した論理は、屈して折れないという「竹の智恵」である。この遣り方は日本では驚く程効果的に機能するのである。
 同じ事をドイツで試してみても、大方失敗に終わる。遠回しの言葉使いは通じない。譲歩すれば譲歩のままで終わる。沈黙は意見の無い証拠である。ドイツ人の遣り方は、必ずしも常に上手く行くとは限らない。
 所が先立って、チャールス・ピートリー卿が、英国紳士は如何にして生まれたかに付いて、示唆に富んだ考察をしている一文を読む機会に恵まれた。
 「自制心は英国紳士の特徴だと良く言われる。確かに英国人の自制心に対する愛着を国際社会で比較してみれば、その評価は正しいと言えよう。しかしイギリス人のこの成功も、その歴史を辿れば決して古いものではない。1300年から1750年迄の英国の歴史は、残忍な内乱の連続であった。征服された敵を、残酷を極めて虐待し迫害するのが伝統であった。英国の刑法はヨーロッパの中でずば抜けて情け容赦のないものだったし、また実際にその通り執行された。自制、それは18世紀から19世紀に掛けて英国の生活様式の中に取り組まれたものだが、それは決して英国人の国民性が善に目覚めた事によるのではなかった。あく迄国民経済の利益の為だったのである。人口が増え、人々が裕福になると、物事は極端に走るのは得策では無いと言う認識が定着し、次第に自制、抑制と言った伝統が育成される様になった。詰まり、自分自身と、文明の発展と、そして獲得した富を保守する為に自制の精神は生まれたのである。
 英国人は日本人と同じ様に島国に生きて来たが、日本人とは全く異なった状況にあった。彼らは、紳士に脱皮した時代には、既にほぼ全世界を支配していたのである。彼らは植民地を占有していた。植民地は、本国で規則に従おうとせず、紳士として振る舞おうとしない人達に、広い活動領域を提供したのである。
 日本人にはこういった選択の余地はなかった。日本人は社会で生じる一切合財を、自国の中で解決しなければならなかった。日本人の生活圏は、世界の端っこの島国で、それも山と海との狭い平地の部分だけだった。

 <驕れる白人と闘うための日本近代史 松原 久子著>  2005/10/22  吉野 誠

 世界の端で「日出ずる国」日本
 私達の国は、青い太平洋の端に浮かぶ小さな島国である。諸国との交流を避け、長い間、殆ど世界から関心を払われる事はなかった。
 この島国の住民は自分の国を日本、日出ずる国、と呼んでいる。
 日本は、四つの大きな島と四千以上の小さな島々から成っていて、アジア大陸の東側に弧を描く様に連なっている。列島は、冬には数メートルも雪が積もる寒い国から、椰子の木がサンゴ礁の浜辺に揺れる南国へと伸びている。北からの寒流とが沿岸で合流するので、海は魚介類の宝庫である。秋には毎年南東から台風がやって来て、海を荒らし、木々を倒し、豪雨を降らせて洪水を起こす。
 日本列島には現在、80以上もの活火山があり、数年毎に何処かで火山が動き出している。小さな地震は日常茶飯事である。又、火山地帯の為、日本中彼方此方で温泉が湧いている。
 列島の大部分は、岩と森林で覆われた山々である。今日尚日本の四分の一以上が原生林であるが、それは太古から極最近迄、この国の人々の心の中に大自然に対する畏敬の念が生き続けて来たからである。特に深山渓谷は神々が棲み賜う所として大切にされて来た。豊かな森林は稲作に欠かせない水をもたらせてくれるという事を、日本の人々は体験から学んでいたのである。
 農業に利用出来る土地は極僅かで、6万5千平方キロ足らずである。国土の総面積の約13%に過ぎない。
 海岸線は入り江が多く、美しい湾が彼方此方にある。湾が浅い所では、埋め立ても行われている。埋め立てによって土地を広げるという方法は、16世紀と17世紀には盛んに行われ、今日に至る迄続いている。
 さて、この日本という国は、ごく最近まで欧米人の頭の中で、殆ど未知の国であった。マルコ・ポーロ『東方見聞録』に出て来る黄金の国ジパングは13世紀以来のヨーロッパ人の夢をかき立て、後にコロンブスを始め多くの探検家に、大洋航海の動機を与えた。16世紀中頃からは、ポルトガル商人の種子島漂着を切っ掛けに、日本をキリスト教化しようという努力が1世紀近くにわたって続けられた。然しこれは鎖国によって未遂に終わり、島国は忘却の彼方に沈んでいった。
 アヘン戦争を仕掛けて中国を屈服させた欧米列強が、今度は、虎視眈々と日本を取り囲む様になった。日本は開国に踏み切った。此処で特筆されるべきは、日本が欧米の植民地にされなかった、当時の状況からして、はたまた欧米人の精神風土からして、可能ならば何処でも植民地化するのが当然だったからである。
 当時の欧米人は、日本人がどんな人間なのか、殆ど知らなかった。小柄で、黄色い肌をしていて、キリスト教徒ではない事くらいである。通商国とはいっても、欧米の工業国への単なる勤勉な原料納入者、欧米の工業製品の従順な買い手といった所である。
 然し日本人は彼らの期待を見事に裏切った。19世紀が終わりに近付いた頃には、日本人は、鎖国による技術分野での遅れを取り戻し、欧米水準に追い付く為も必死の努力をしている唯一の非白色人種である事が、誰の目にも明らかとなった。
 然しその後でも、日本人は長い間国際社会の、そして世界経済の端役だった。欧米人の目には、日本人は西洋風に仮装した奇妙な人達としてしか映らなかった。
 彼らの見方を変えたのは日露戦争である。日本人が20世紀の初頭、ヨーロッパの強国ロシア帝国を短期の陸戦と劇的な海戦で打ち破ってしまった事は世界を震撼させた。「白人は征服されない」という数世紀にわたって築かれた信仰が砕かれたのである。植民地支配に甘んじなけらばならなかった人々は喝采し、勇気を与えられた。一方、欧米人は警戒心を抱き始めた。日露講和条約を斡旋したアメリカも、「要注意」の目を日本に向ける様になった。「奇妙な黄色い人間がのさばって来た」という不快感が欧米に広がったのである。
 中でもドイツ帝国の皇帝ブィルヘルム二世は、黄禍論を唱えて日本を危険視した。この事は、日本人の心を深く傷付けた。何故なら当時、日本はドイツ帝国を高く評価していて、ドイツ経済、政治、そして精神文化の手本だと見なしていたからである。ドイツはヨーロッパの工業国の中では後進新興国だったので、日本人はドイツ人に親近感を抱いていたのである。
 当時ドイツ帝国は、イタリア、オーストリア同盟関係にあったが、アフリカやインドからアジアに掛けて植民地を持つイギリスやフランスと衝突する様になり、それはやがて第一次世界大戦で爆発した。
 第一次大戦で、日本は連合国側に就いた。日本はイギリスやフランスに、輸送船、軍艦、武器を大量に供給した。この時に磨かれた技術力が原動力となり、日本は大戦後、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、カナダに次ぐ世界の第六番目の輸出国へと進出したのである。
 1920年代になると、日本は、欧米の植民地保有国との通商上の抗争に巻き込まれていった。それは中国大陸と太平洋地域での市場の取り分の問題である。外交的な手段で解決しようと試みたが、それは日本にとって不慣れな作業であった。30年代になって、関東軍が政府の意向を無視して中国から満州を独立させ、清の最後の皇帝を元首とした傀儡政府を樹立すると、状況は先鋭化した。
 この頃、日本の軍部はドイツを感嘆と畏敬の念を持って見る様になっていた。ドイツは、ヒットラーの下で成功間違いなしの道を驀進している様に見えた。ヒットラーが、陶然とする様な傍若無人振りで、国際社会の抵抗を何ら意に介する事なく大ドイツ帝国の拡張を始めた事に、日本の軍部は魅了された。自分達もそれが出来ると彼らは考えた。そして国家社会主義のドイツとファシズムのイタリアの両国と手を結び、第二次世界大戦の「枢軸」国となったのである。
 第二次世界大戦の後、日本の周辺は暫く静けさを取り戻した。戦争の為に荒廃したドイツと同じ様に、日本も経済復興の為に全力を尽くしていた。
 何故欧米人は教育程度に関係なく、日本に付いてそう言った(「日本人らしく」あくまでも慎み深く遠慮がちに、然も微笑みつつ振る舞う様期待された)イメージを抱く様になったのかに興味が湧いた。多くの場合、旅行記や映画やテレビ報道から何となく受け取った印象であり、人から伝え聞いた先入観であり、何時の間にか出来上がった偏見である。偏見であるから執拗に続き、傍若無人に発散される。
 所が偏見の中味は時代と共に変わって行く。70年代後半から80年代になると、日本は異国情緒に包まれた不可思議な国ではなくなり、その代わり、とんでもない猿真似の国だと言われ始める。優秀な技術を我々から知らぬ間に盗み取り、世界市場制覇を目論む怪しからん国である・・・・・・。
 そうなると、日本人は慎ましやかに装いつつ実は図々しい狡猾な民族で、油断の成らない成り上がり者と言う事になる。何も発言せず、やたらにニヤニヤしているが、商売だけはぐんぐん拡張し、我々を脅かす嫌な奴だと言われる。
 欧米人は歴史というものを非常に大切にする人達である事が分かって来た。それは古代ギリシャから現代に至るヨーロッパの歴史であり、それこそが「世界史」だと彼らは認識している。特に大航海時代以降、欧米人が如何に華々しく世界に発展したかが重要で、科学技術、医学、経済学から法体系、社会思想の全てがヨーロッパから発信されたと彼らは考えている。 
 その間、日本等という島国は、寺を建て、米を作る意外殆ど眠り続けるている人間の如き存在であった。開国してからは、我々ヨーロッパ人から学び、瞬く間にのし上がったが、常に我々の猿真似をして偉くなっただけである。その後、幾らかかは自分なりの工夫も積み重ね、先端技術を駆使し経済大国となったが、これが何処迄続くかは疑問である。というのは、日本人には、自分達が拠って立つ歴史の蓄積がないからである・・・・・・。些か極端な言い方をすれば、大体こういった所が彼らの日本観なのだ。こうなる原因は何か。
 それは、自分たちの歴史を誇り、その蓄積に自信を抱く欧米人が、日本の歴史の水準を知らないからである。自分たち以外の文明がどうやって形成されたのか、真面目に考察しようとしないからである。
 欧米諸国が外へ外へと出ていった時は、日本は鎖国の中で何を蓄積していたのか。これに付いての認識が皆無であることが、欧米の日本に対する偏見の土台になっている。
 其処で鎖国以降の日本の歴史を辿ってみたい。
 第一点、鎖国時代に作り上げられた日本社会の仕組みを良く知っていれば、日本が開国後、迅速かつ徹底的に近代化を実現出来た事は全く驚くに足りない事。
 第二点、鎖国時代の日本社会を正確に考察すれば、今日の日本を理解する事が出来る事。というのは、今日、日本人を良きにしろ悪しきに付け、動かしている事の多くは、鎖国時代と一直線で繋がっているからである。
 第三点、 限られた資源の中で平和に暮らした鎖国時代の日本人の智恵は、21世紀の地球全体にとっても、大いに重要である事。鎖国時代の日本では、三千万人もの人々が限られた面積の国土で生きなければならなかった。にも拘わらず二百年以上もの間、驚く程穏やかに、平和に仲良く暮らす事に成功したのである。極端な貧富の差もなく、人々は概ね豊であった。今日、膨大な人口を抱える地球では、天然資源が如何に貴重であり、人間と環境の微妙なバランスは如何に簡単に崩されるてしまうかという意識が芽生えて来ている。だからこそ今、鎖国時代の日本に付いて知る意味があるのである。
 【訳者前書き】
 何故日本人は「日本の弁明」をしないのか。理由は色々考えられる。西洋崇拝、西洋人の歴史観に洗脳若しくは汚染されている。語学力が無い、日本人の美学、事なかれ主義等が上げられる。
 然し、それでは黒を白と迄言っても自己正当化を憚らない強かな白人に伍して厳しい国際社会を生き延びて行く事は出来ない。我々はまず、言葉で自国を防衛する事に死力を尽くさなければならない。
 松原氏は日本を言葉で防衛している貴重な日本人である。言うま迄も無いが、言葉で日本を防衛すると言う事は、日本民族の優越を主張する事ではない。事実を、例えば歴史的事実、詰まり事の「真実」を、きちんと伝える事である。
 <驕れる白人と闘うための日本近代史 文芸春秋 松原 久子  10/17 吉野誠>

 アメリカの鏡・日本 ヘレン・ミアーズ著 誰のための共栄圏か
 戦略の失敗
 第二次世界大戦は満州事変によって始まったといわれている。日本が満州事変を起こすのを阻止出来なかったから、イタリアにエチオピアへの、ナチスにヨーロッパへの更に日本の中国とアジアへの侵略を許してしまったというのである。この分析が正しければ満州事変に対する大国の政策が間違っていたという事になる。
 大国は戦略と倫理で失敗したという事が出来る。戦略面では、日本を止める事であった。然し、大国は日本を止める処か、事変後十年近く侵略事業に事実上手を貸していた。国際連盟加盟国とアメリカが満州国を承認しなかったのは事実だが、抗議はほんの形式に過ぎ無かった。
 日本との外交関係、或いは通商関係を断絶した国はない。何処の国も満州から自国民を引き揚げなかったし、投資も貿易もそのまま続けさせていた。むしろ事変後数年間は対満州貿易が増している。
 1931年から1932年にかけて、日本の立場は極めて弱かった。近代的軍事力に必要な資源を持たない島国の日本は、アメリカ、イギリス、フランスが支配している市場と物資に、軍需物資だけでなく生活必需品も依存していた。
 1941年に要約イギリス、オランダ、アメリカは対日貿易の断絶に踏み切ったが、もし1931年から1932年の時点でそうしていたら、日本は立ち往生していた筈だ。
 国際関係は複雑である。中国に於ける欧米列強の権益との兼ね合いで「程々の」範囲に日本を押し込めておく事だと考えていたのだ。一方で、日本をイギリスの安全保障体制の一部として利用しようと言う考えがあった。日本を混乱状態にある満州地域の警察官とする、中国とロシアの緩衝材として使う。中国で共産革命が起きた場合に日本の力を借りる。
 欧米列強はこの複雑な策に溺れてしまった。戦略が拙過ぎた。日本は連盟を脱退し、満州国を後押し、満州での治外法権を放棄し、大東亜「共栄圏」を推し進めて行く。そして、その積もりもなかったのに、アジアの民族革命の先頭に立ってしまった。

 倫理に失敗
 米英二大国が1931年に満州事変に懸念を表明した時、同時に治外法権を返していたら、不平等条約を放棄していたら、租借地と割譲地を返還していたら、自国の艦船と軍隊を撤退させていたら、満州事変を侵略であると厳しく断じる事が出来ただろう。
 日本は、合法的条約体制の下で民主主義諸国と分け合う「特権」に助けられて1931年から1935年に掛け満州に進出した。
 日華事変の初期、イギリスが日本と協力して、両国の「権益」を守ろうとした事も、日本の対中国行動を大いに助けた。
 満州での治外法権を最初に放棄し、中国本土に関して具体的な約束をしたのは日本だった。何故中国で民主主義諸国が「特権」を握りしめていたのか。
 米国国民は政府が満州事変で連盟に同調したのは、国際的平和機構に対するアメリカの方針が変わろうとしている徴(証)でないかと受け取っていた。日本は全く違う見方だった。アメリカは連盟加盟国では無いのだから、連盟の論評ないし批判の対象には成り得ない。例えば、日本か連盟がアメリカと中南米の関係に干渉するのを、アメリカは喜ばないだろうし、許さないだろうと日本は考える。
 アメリカは国際的制約を受けない立場について、他国を国際的に制約したいと思っている。
 満州事変が提起するもう一つの問題は、国民の感情と願望をどういう方法で制約化するかである。満州事変当時、アメリカの世論は日本を激しく非難し中国を指示した。
 もし情勢がはっきり見えていたら、国民の大多数は不平等条約と治外法権の放棄、海兵隊の撤退、対日批判の具体的行動としての貿易関係の断絶を指示したと思う。事実、国民は日本製品のボイコットした。民間の日貨排斥は、日本の経済不安を強め、返って日本に満州開発の必要性を感じさせただけだ。対日経済制裁は行われ無いというのがアメリカの政策だったから、アメリカは指導的役割を果たせなかった。

 日華事変からパールハーバーへ
 日米関係に関して言えば、国際情勢は悪化の一途を辿っている。日本には、過去五年間戦って来た相手は実は蒋介石でなく、米英だったという思いが、かつてなく高まっている。
 アメリカは今日、日本は「先ずアメリカを、そして世界を」征服するステップとして「中国を征服」しようとしたと非難している。
 日本は、中国征服の意図を否定し、逆に、中国人民を悪政しイギリスを始めとする西洋の支配から「解放」しようとした、(満州を「解放」した様に)のだと反論する。
 アメリカの征服の意図等全く無く、寧ろアメリカとの友好関係を維持する為にあらゆる努力を払って来たにも拘わらず、アメリカは経済的利益(殆ど想定上の)の防衛上の為に、或いは曖昧な戦略的理由から、又、時にはイギリスの為に、日本の死活問題に介入したと日本は主張するのだ。果たして日本の主張は荒唐無稽だろうか。
 日本は、何を考えていたのか。
 中国の情勢は混沌とし、錯綜していた。然し、日本から見れば問題は極めて簡単だった。
 満州に「合法的自衛」手段としての戦略的拠点を確保し、日本帝国圏(韓国と台湾)と満州、華北から成る経済ブロックを作って経済の安全保障を確立しようというのが日本の計画だった。そうすれば、これ迄の様に原材料物資と市場をアメリカ、イギリス、オランダに依存しなくても済む。日本は再び極東に進出してくる可能性のあるソ連に対する防衛手段として、もう一方では、イギリスの強力なポンド経済圏(貿易地域)とアメリカのドル経済圏に対抗する手段として、自分達の計画を考えていたのである。然し、イギリスとアメリカは日本の政策に反対した。
 日本から見れば、イギリスは中国の「中央政策」を経済的、政治的に支配し続けていたいから反対しているのだ。そして、アメリカは日本がアジアで指導的地位に付くのを望んでいないのだ。
 この政策の対立が日華事変に発展して行った。日華事変の交戦国は中国と日本ではなかった。日本とイギリス、アメリカとの対立だった。対立する双方に、中国人の将軍と政治家が付いていた。中国人民は、相も変わらず双方の犠牲者であり、飢えるか殺されるかの役回りしか与えられていなかった。
 1935年、日本は華北を蒋介石政権の「悪政」から殆ど「解放」していた。日本は華北三省を統治する将軍達(軍閥)の強力でこれを達成したのだ。将軍達は何れも華北の「自治」確立と、満州国と日本の緊密な経済関係を指示すると宣言していた。
 オゥ精衛(後に南京「傀儡」政府を率いる)も日本に付いていた。彼は1935年当時、蒋介石が率いる「南京政権」の行政院院長だった。この政権は列強が「中華民国」の「中央政府」として承認したものである。詰まり、日本は中国の統治グループの中に緊密な協調関係を作っていたのである。
 中国「国民政府」の中にさえ、政策の不一致があった。蒋介石は何方かといえば親英路線、オゥ精衛は何方かといえば親日路線だった。1935年、オゥ精衛は日本に協力して、蒋介石を国民党の指導的位置から外そうとしていた。
 この時点迄イギリスは蒋介石と日本の双方を牽制しつつ支援していたが、華北が独立を宣言し、日本と満州国が共同して関税同盟と経済ブロックを結成する可能性が強まって来ると、危機感を抱く様になった。イギリスは華北に大きな「権益」を持っていたから、支配的地位から降りようとしなかった。そこで、イギリスは通貨再編成の為に金融専門家フレデリックを送り込み、銀の国有化計画に成功させて、蒋介石を外交的にも財政的にも強化した。同じ頃、国民党大会初日の記念写真に収まろうとしていたオゥ精衛は、カメラに隠されていた銃に撃たれた。
 複雑極まり無い情勢の中で起きた一連の事件は、日本の計画にとって大きな障害となった。日本の良き理解者は入院し、蒋介石はイギリスの財政援助で威信を高めた。この為、日本は華北の「解放」計画を断念せざるを得なくなったのである。イギリスに代わって華北を包み込もうとした経済ブロック計画(日本が武力に寄らず「合法的に」達成寸前だった)は阻まれ、日本は一歩一歩、日華事変の泥沼に嵌り込んで行った。その過程で日本は、不正義で有ったが、「アジア解放」の旗手として台頭して来た。
 日本は限定目標の中国から、「欧米列強の支配から解放された」アジアの国々が「共栄圏」の中で友に手を携える汎アジアへと進撃を開始した。日本の説明に寄れば、それはアメリカ大陸の諸国が汎アメリカ同盟の中で協力し合っているのと同じものであった。
 一度日華事変が火を噴くと、日本は残虐非道に突き進んだ。蒋介石政権を重慶に追いやる事に成功した。1940年四月、日本はオゥ精衛を南京に担ぎ出し、同十一月政権を中国の正当な合法的「中央政府」として承認した。米英両国政府は直ちに蒋介石政権を正統な政府として承認すると発表した。双方共傀儡と見なした。
 米国政府は蒋介石に多額の借款を与えるだけでなく、日本に厳しい経済制裁をちらつかせる事で、日華事変(事実上、1939年の世界大戦に合流する)に参画していた。
 1939年六月、アメリカは日本との通商条約(1911年締結)を破棄した。これによって何時でも貿易を停止出来る事になった。アメリカは先ず武器、次いで戦略物資と徐々に輸出制限を拡大して行った。こうした動きは、親中国、反日の様であったが受け手側から見れば、態度は不鮮明だった。先ず第一に、米国の公式発言では、必ずしも中国国民に対する日本の非道に抗議するとか、日本の侵略行為を非難するもので無く、中国に於けるアメリカの「権益」と居留米国国民を保護する事に重点が置かれていた。第二に、戦時物資は輸出許可制度の導入で徐々に規制されていたが、石油等の必需物資は1941年中頃迄、日本に届いている。米国内では、ガソリンが配給制であるにも拘わらず、依然として対日石油輸出が続けられている事に、国民は納得しなかった。
 これに関してルーズベルト大統領は、我々(イギリス、オランダ)が日本に石油を売らなければ、日本はオランダ領インド諸島に南下して来て、武力で奪い取るであろう。そうすれば、「戦争になるだろう」。だから我々は日本に石油を売り続けなければならないと説明している。
 現実的に言えば、ヨーロッパでの戦争に目処が立ち、アメリカの「防衛」計画がもっと固まる迄、日中戦争を続けさせるのがアメリカの政策だった。日本は中国で忙殺されていた。蒋介石は日本に屈しないで、戦闘を続けられるだけの援助を受けていた。アメリカはこの政策を、イギリスの為だけでなく、米中両国民の為の最上のものと考えていた。米国民もどうやらこの方針に賛成していた様だ。戦争の為に爆撃や飢えで死んだ何百万の中国人がもし選択出来たら、果たして賛成していたかどうかという事には少しも考えが及ばなかった。
 1937年十一月、日本は独伊防共条約に加盟した。米英両国政府はこの条約を世界征服の為の侵略計画であると見た。日本が枢軸国同盟に加盟した理由は、紛れもなくソ連の脅威だった。ドイツがソ連との間で不可侵条約を結んだ時、日本はイギリス、アメリカと同じ様に大きな衝撃を受けた。その後、ドイツは再び態度を転換してソ連を攻撃したが、この時も日本が抱いた感情は米英と同じものだった。
 米国と英国は、日本が莫大な財政的損出を出し、アジアの前で威信を失う迄戦争を続けさせる考えだった。
 問題が日中間だけに留まるものなら、日本は寛容を装ってでも、大幅な戦略的撤退をしていただろう。然し、戦争の終結条件を決めているのが中国ではなく大国である以上、日本は行く処迄行くしかなかった。でなければ、生存の条件と教えられた大国の地位を失うしかなかった。
 1841年7月、アメリカ、イギリス、オランダは共同で各統治領内の日本資産を凍結し、貿易関係を全面的に中断した。これらの諸国の物質がなければ、日本はアメリカ、イギリス、オランダの言う条件で中国と満州から撤退するしかない。日本は戦うか、三国の条件を呑んで小国に身を落とすかの状態に迫られ事になった。凍結措置は戦争行為である。次に来るのは必然的にパールハーバーとシンガポールの攻撃である。
 日本に言わせれば、これは当然の自衛的行為であり、「帝国の存立」を掛けた攻撃だった。

 英語圏
 極東の歴史を日本の視点で見ると、今迄分からなかった事が明らかになって来る。
 アメリカの政策の中にある法的犠制がはっきりと見えるのだ。そして、政策立案者には、自国の政策が他国民にどの様に映ているか、良く見えないという事が分かるのだ。
 近代日本がアジアと公式接触する時に相手にしていたのは、その国の国民では無く、政府だった。そして、政府はアジア人で無く、ヨーロッパ人かアメリカ人だった。中国では、政府は中国人だったが、外国勢力に影響され過ぎていたし、「国際条約」に縛られていたから自分の意志で日本と交渉する事が出来なかった。
 問題は、アメリカが日本と中国の関係だけを考えていたのに対して、日本は中国を支配している欧米列強と日本の関係であると考えていた。
 国際関係を考える際、アメリカは植民地体制の持つ意味を無視しているが、これは日本の犯罪に対する態度より、遥かに広い意味で重大である。
 満州事変と日本の共栄圏構想を再検証すれば、何故旧国際連盟が平和を守れなかったかが浮かび上がってくる。そして、現在の国際連合の間違いが見えて来るのである。
 国際連盟には、アメリカもロシアも加盟しておらずイギリスが支配している。連盟に加盟しているヨーロッパ諸国は、アジアに植民地、中国に「権益」を持つ帝国主義列強である。従って、連盟はもう一つの法的犠制、詰まりイギリスに率いられた植民地主義国家が、支配体制を維持する為の装置に過ぎ無い。日本は近代化以来、イギリスの体制に組み込まれて来た。その体制の一部で有る日本は、イギリスに支配体制に異を唱えた事がない。然し、1921年日英同盟がアメリカの圧力で破棄されてから、情勢は変わった。日本から見ると、力の均衡はイギリス帝国とアメリカの関係を緊密化させ、日本の孤立化を深めるものに急変していた。極東に支配力を膨張させる英語圏出現した。それはイギリスとその支配圏、英連邦、アメリカ、共同で管理し支配する諸国と地域を統一戦線に組み入れた勢力圏だった。
 この英語圏は、解放、民主主義、協調を目的とする倫理的世界秩序のリーダーを自任していた。英語圏が自らの善意を真面目に信じていた事は確かだろう。自らを倫理的指導者とする英語圏の前提は、日本、アジア、植民地の人々には許し難いものだった。彼らにしてみれば、アジア・太平洋地域の英語圏は、アジアの独立達成に速く立ちそうも無い単なる支配者だった。
 日本とアジアの視点を理解するなら、中国問題の解決に支配的役割を果たそうとして来た九カ国条約調印国の顔ぶれを見てみる事だ。調印国は、イギリス、アメリカ、フランス、イタリア、オランダ、ベルギー、ポルトガル、日本、そして九番目が中国だった。中国には事実上発言権はなかった。中国は他の調印国が決定した事に署名するだけだった。調印国は日本を除き全てヨーロッパの国々だが、ヨーロッパ諸国はアジア・太平洋に問題を処理するのは自分達の権利であると考えていた。アジアの人々がこれを「民主主義諸国」の協議体ではなく、「白人」ブロックで有ると見なしても驚くに当たらない。
 新国際連合は旧国際連盟と比べて公正だろうか、極東委員会構成メンバーを見れば、答えは直ぐ分かるだろう。同委員会は極東の安定を図り対日平和条項を決定する機関とされているものだが、その構成国は、アメリカ、イギリス、ソ連、中国の四大国とオーストリア、ニュージランド、カナダ、インド、フランス、オランダ、フィリピンである。フィリピンは政治的に独立したが、「相互防衛」体制の下で米軍基地が残されている事。アメリカに通商上の特別待遇を保証する為、フィリピン憲法が改正された事を知るだろう。そこで、日本人は今日のフィリピンが嘗ての満州国と何ら変わらない存在である事に気付くのである。
 満州事変とインドネシア事変は驚く程似通っている。オランダは、日本が中国で行った事を、インドネシアで行っている。それは、嘗て中国が非難した行動なのだ。
 実際には、近代中国の政権は何れも傀儡だった。そして皮肉な事に、中国から見れば、日本の「傀儡」政権の方が、米英のものよりはましだった。アメリカは日本が精衛に貸した金額より圧倒的に多額の借款を蒋介石に与えた事は事実である。然し、日本は上海を含む中国の日本「解放区」にあった外国資産を、気前よくオゥ精衛政権に引き渡している。これに対して、日本の敗北後、蒋介石が最初にやった事は、その資産の一部をイギリスとアメリカの元の所有者に返還する事だった。

 誰の為の共栄圏か
 イギリス、フランス、オランダの同盟国として、アジア・太平洋地域で日本と戦うアメリカの国民は、面白く無い立場に置かれていた。ヨーロッパ友邦が「自分達の利益にしがみ付いて」華々しく戦っているのだから、日本はアジアを「奴隷にしようとしている」というアメリカの非難は、法的犠制の最たるものになってしまった。アメリカはフィリンピン独立の期限を設定していたが、ヨーロッパの諸国は同じ様な態度を取るどころか、抗日戦線への協力と引き換えに将来の独立を要求する現地指導者を投獄していた。
 1943年12月1日、カイロでチャーチル首相とルーズベルト大統領が、日本を「懲罰、拘束」し、日本が「暴力と貪欲」によって奪った領土を全て取り上げる決意を明らかにした時、米国国民は正義と民主主義の行動として歓迎した。然し、イギリス、フランス、オランダ(そのどの国も自分達の植民地に対しては独立を約束していなかった。)の植民地には、カイロは閉ざされていた。英領香港の中国への返還については、一言もなかった。
 アジアの政治活動家達が対日カイロ宣言を解釈するなら、日本の罪状は、日本が植民地住民に対して暴挙を振るった事ではなく、日本の暴挙でヨーロッパ諸国が確立した植民地体制の現状を揺さぶった事なのだ。
 日本が「白人ブロック」の「奴隷体制」から太平洋地域と「アジアを解放する」というスローガンの下に、日華事変と第二次世界大戦を戦っている事を見ようとしなかった。 
 歴史的に見てアジアの民衆を「奴隷にしていた」のは日本では無く、アメリカと同盟を結ぶヨーロッパの民主主義諸国である事を、ルーズベルト大統領は言わなかった。
 アジアを「解放」したいという日本の願いは「聡明な利己主義」即ち法的犠制から出たものであり、結局はその実現方法は野蛮であるという前提に立つにせよ、日本がその犠制を信用させる為に、アメリカと同じ処迄、そしてヨーロッパ友邦より遥かに先迄、行っていた事を認める必要がある。大戦中日本は、実際に占領した全ての地域に現地「独立」政府を樹立して行った。
 ヨーロッパ諸国とアメリカがアジアの植民地に戦争を持ち込まなかったら、現地独立政権は彼らの共栄圏の発展の為に、喜んで日本に協力しただろう。
 1943年11月、大東亜「解放」諸国会議が開かれ「共同宣言」を採択した。
太平洋憲章はこういう。「大東亜諸国は世界の国々との友好関係を培い、人種差別撤廃と文化交流の促進を図り、資源を広く世界の利用に供する為に、共に努力し、人類の進歩に貢献するものである」
 戦争中日本に協力した現地政権は全て傀儡であると、いとも簡単に決め付けて来た。戦争は日本と現地政府の間では無く、日本とヨーロッパの異民族支配者の間で戦われていたからである。
 アジア・太平洋地域の植民地問題は、政治的より経済的なのだ。植民地体制の最も良くない処は、工業先進国である本国が、植民地への投資と貿易を管理し、植民地経済を本国経済の従属物として発展させた事である。勿論、日本も植民地で同じ事をした。然し、日本の生活水準んがアジアの他の地域をそれ程上回っていない為に、日本は現地住民が購入可能な価格で物を作る事が出来た。然も、数カ国による所有体制は、アジア地域をそれぞれ隔絶した区域に分割した為に、移住、貿易、文化交流の自由が妨げられていた。
 何世紀もの間、アジア・太平洋地域はヨーロッパの、そして若干はアメリカの共栄圏だった。この状況を変えようとした日本の手段は、利己的であり、最後には野蛮だった。然し、問題は法的犠制では解決出来ないだろう。

 教育者たちの資質
 一連の「事変・事件」で日本を裁く民主主義諸国の「法的」立場は、国家間の紛争と不平等問題は平和的手段で解決すべきであり、解決出来るという事を前提にしている。然し、事実はこの前提を確認してくれない。例えば、米国も英国も対中国関係では、自分達の特権的地位を話し合いで放棄しようとしなかった。アメリカの将来構想は兎も角として、米英両国とも日本が武力で獲得した租借地と外国資産を中国行政府に引き渡す迄、不平等条約、治外法権、租借地を返上しなかったのである。
 列強は中国や「遅れた地域」の将来の指導者に、力は結局何ももたらさない事、或いは、国家間に生じた不平等は平和的手段で解決出来る事を教え様として、特権的地位を放棄したものでは無い事は明らかである。
 日本の本当の罪は、西洋文明の教えを守らなかった事では無く、良く守った事なのだ。それが良く分かっていたアジアの人々は、日本の進歩を非難と羨望の目で見ていた。日本は「有色」人種の中で唯一人、ほぼ完全平等の地位を与えられていた。
 国家としての日本は西洋の基準を良く守り、良く報われた。小さい日本が大国として認められ、中国では白人の特権を分け与えられた。不平等条約の恩恵にも預かっていた。そうでなければ、満州と華北で行動出来なかっただろう。大中国は西洋の基準が守れなかっ為に、自国の河川にいる外国の軍艦、主要貿易港に駐留する外国軍隊、自国政府と財政を握る外国権力に従わなければならなかった。
 政治意識を持つアジア人は日本の輝かしき成功から何を学ぶべきか、良く理解していた。
 取り分け民主主義大国と日本、中国の関係は優れた教材である。日本との関係では、西洋列強は、1894年から1899年に掛けて治外法権を相次ぎ放棄して行った。しかし、西洋列強は通商特権をなかなか放棄せず、日本が自分の手で関税を管理出来る様になったのは、やっと1911年である。中国の場合、教育は日本より早く始まった。然し、中国は西洋の厳しい要求水準を満足させる事が出来ず、教育の修了はずっと遅れた。日本は五十三年で関税の自主管理権を取り戻したが、中国は八十八年掛かっている。それでも完全に管理するには至らなかった。
 日本が治外法権を完全に外す迄に四十五年掛かったが、中国は実に百四年掛かっている。
 日本は中国に勝って(日清戦争)主権を取り戻した。中国は日本に勝って主権を取り戻した。日本が1894年から95年の戦争で、中国が1938年から45年の戦争で勝てたのは、それぞれイギリスとアメリカの直接、間接の支援があったから。

 韓国の解放
 今日、アメリカが日本の韓国「奴隷化」政策を非難するのは、要するに日本の植民地経営が著しく拙劣だったからである。然し、一般に「進歩」の基準とされている、病院、学校、官庁(徳に現地行政機関)に占める韓国人の割合、通信施設の整備、産業、資源開発等の分野で観ると、日本の経営は他の植民地主義諸国に比べて劣っていなかったばかりか、寧ろ勝っていたと言える。
 今日、日本の韓国経営を否定する人は、日本の主な目的が韓国国民の安寧福祉より自国の安全保障と経済的利益であった事を指摘する。然し、そういう状況はヨーロッパの植民地では当たり前の事だった。
 日本が韓国国民を「奴隷化」した事は、歴然たる事実である。然し、国際社会そのものが、アメリカの標榜する原理に合っていない。如何なる大国も日本を処断出来る程潔白では無いのだ。相互安全保障の為に日本に併合を要請した韓国皇帝の「請願」は、侵略を糊塗する為の法的犠制だったといえる。然し、アメリカも連合国も法的犠制をやっているのだ。アメリカがその現実に気付かなければ、自分達の侵略意図を正当化する為に日本を断罪しているとみられるだろう。
 アメリカの現在の政策は、実は日本軍国主義を免罪しているのだ。アメリカの「安全保障」の為に秩序を維持し、ソ連を押さえ込み「共産主義の脅威と戦う」為に、軍隊を駐留させる事の方が重要だった。アメリカは自分達の行為なら犯罪と思わない事で日本を有罪にしている。これは正義では無い。明らかにリンチだ。
 即ち、「独立」とは「解放」勢力としての大国ないし、時の連合国以外の国からの独立なのである。「解放された」地域住民の幸福と渇望は、十九世紀と同じ様に事実上考慮される事はない、「解放された」朝鮮は二つに引き裂かれた。そしてアメリカとソ連が若い国を「指導」し、「発展」させる主導権を巡って争っている。
 「解放された」台湾は、台湾人民の意思を測る何らの試みもされないまま、内戦で二つに割れた一方の勢力に引き渡された。「解放された」インドシナとインドネシアの人々は、平和愛好」民主主義国のフランスとオランダによって、再び奴隷状態に置かれ様としている。そして、現地住民に対する扱いは、アメリカが日本人だけの特性といってきたものだ。
 「解放した」どの島に置いても、現地住民の意思を問う住民投票の計画がなかった事は注目に値する。国民の間にも住民投票をすべきだという意見はなかった。アメリカは国連を通して「合法的に」太平洋諸島の支配権を得た。それも「どっち道、戴く」方式で取得したのだ。兎に角、「平和愛好」諸国の機関には、「原住民」代表がいないのである。
 米国政府は「平和愛好」民主主義国のフランスとオランダの「暴力と貪欲」を批判していない。「解放された」植民地住民を保護し、再解放する為に軍隊を送っていない。これも注目すべき事だ。「平和愛好」民主主義国のイギリスも、彼らの同盟国、あるいは彼ら自身の「暴力と貪欲」を見ようとしない。イギリスは何処であれ自分たちの植民地にしがみ付き、放棄を迫られれば時間を稼いでいる。
 ソ連は樺太、千島列島、満州を平然と占領し、全ての大国と同じ様に国家利益を主張している。極東に於ける「暴力と貪欲」は、日本の罪を問う時だけあから様になる。民主主義諸国が「凶暴で貪欲な」時は、「後れた地域に秩序と文明」をもたらそうとしているか、「共産主義の脅威」を排除しようとしている時なのである。

 逆向きのリーダーシップ
 第二次世界大戦後は、米ソ両大国が圧倒的な力を発揮して世界を逆戻りさせている。
 其処で、極東における国際法が改善されたかどうかを知る為に、在満鉄道と旅順を巡る争いを簡単に振り返ってみたい。
 1896年
 ロシアが満州とウラジオストクを結ぶ鉄道建設の為の租借地を清国から得た。日本を狙った秘密条約で合意が交わされた。八十年間で中国まで鉄道を延ばすというものである。中国は共同経営者だが、運営はロシアに一任する。これが、所謂中国東清鉄道である。
 1898年 
 ロシアは清国から中国東部と旅順港を結ぶ南満州鉄道(東清鉄道の内、長春と旅順の鉄道)の建設を得た。旅順港は、日清戦争後、ロシアが日本の介入を防ぐのを助けた見返りに、中国から得たものである。
 1905年 
 日本が日露戦争の「賠償」として、ロシアから南満州鉄道を獲得した。中国東清鉄道は引き続きロシアが保持した。
 1920年
 ロシア革命の後、ソ連は帝国主義政策を放棄し、次の様に宣言した。「ソ連政府は・・・・・・前ロシア帝国政府が占有していた中国東清鉄道を中国の主権の元に返還する。
 見返りは一セントも要求しない」。この間に、中国革命が起き、清国は倒された。中国は共和国を樹立しようとしたが、様々な外国勢力が様々な軍閥を支援し、国内は混乱状態が続く。満州は張作霖が支配していた。彼は武力で握った権力を、日本の支援で維持していた。この為、ソ連は鉄道を返還すべき相手が明確で無いとして、実際には返還しなかった。
 1926−27年
 張作霖はソ連将校を相次ぎ逮捕し鉄道を占拠しようとしたが、果たせなかった。
 1931年
 満州事変
 1932年
 満州各地区の代表が陽に集まり、「独立」国家満州の建国を宣言。日本に協力と保護を要請した。
 1932年
 ソ連が「事実の論理」を認め、日本の仲介で中国東清鉄道の権益を満州国へ売却する事を提案する。譲渡価格としてソ連が二億五千万ルーブル金貨を要求、これに対して満州国は五千万ルーブルを提示した。
 1935年
 ソ連が同鉄道を一億四千万日本円で満州国に売り渡した。
 1945年
 「三大国」首脳がヤルタで会談し、英国、米国、ソ連が秘密協定を結んだ。中国東清鉄道と南満州鉄道は「日ソ合弁会社が所有する事、ソ連に最大発言を保証する事、中国の主権が満州に及ぶ事を確認した」。この点についてルーズベルトが蒋介石の承諾を得る事になった。
 47年間の「進展」が、此等の戦略的鉄道の環境を1896年の状態に戻した。唯一の変化は、日本が注ぎ込んだ厖大な投資を、ソ連がアメリカとイギリスの協力で、自分のモノにした事である。米英両国代表団がこの取り決めから、何を日本に教えようと考えていたかは定かでない。然し、彼らがこの取り決めは民主主義と自由を愛する心の表れであると考えていたとしたら、その訳を知りたいモノである。
 ボツ海湾への入口と天津、北平への道を制する遼東半島先端の戦略的港湾、旅順港を巡る状況はどうだったろうか。
 1895年
 日清戦争。日本が勝つ。中国は旅順港と遼東半島の先端を割譲する事になったが、フランス、ドイツが後押しするロシアが抗議。日本は極東の平和の為に要求を撤回した。
 1898年
 ロシアが旅順と遼東半島約1300平方マイルについて25年間の租借権を得る。
 1945年
 再びヤルタ。ルーズベルト、チャーチル、スターリン三首脳が会談。
旅順は再度ソ連に移譲される事になった。この他、ヤルタは次の諸事項ををソ連に保証している。
 外モンゴルの現状維持
 ・・・・・・南樺太の割譲。大連港の国際化。「同港に於けるソ連の最大発言権・・・・・・」を保証する。
 千島列島(どうみても日本列島の一部である小島群)のソ連への割譲
 ヤルタ協定には次の様な文章が入っている。
 「三大国首脳は、ソ連の主張は日本の降伏後、異論なく完全に達成される事で合意した」、「外モンゴル、港湾、鉄道に関する合意には・・・・・・蒋介石総統の承認を求めるモノとする。米大統領はスターリン元帥に勧告を入れ、この承諾を得る為の措置を講じる。」
 アメリカの政治家達は未だにこうした事を「合法的に」やっている。
 国際問題を正しく理解するには、ヤルタ協定をもっと詳細に見る必要がある。ヤルタ協定を考える場合、
 満州の歴史
 アメリカがパワー・ポリティクスと、「暴力と貪欲」を否定するに際して、イギリスとアメリカの政策立案者が発した高邁な宣言、ヤルタの取り決めに於ける中国の立場、     国際関係に於ける「合法性」の概念、の諸点から見ると、西洋列強が「後れた」地域を「指導」する場合の教育システムの間違いが、実に鮮やかに浮かび上がって来る。
 例えば「合法性」についての考えた方である。在満鉄道の移譲を要求するソ連の法的根拠は何であろうか。彼らは中国東清を二回に渡って「法的に」手放したのだ。一回目は、中国の為に要求を放棄した。これは見事だった。二回目は満州国に売却した。従って、ソ連への割譲は、対日戦争に協力する見返りであった事は、一目瞭然である。米英両国は、「独立」国家としての満州国の現実を正式に認めなかった。そして満州は中国の「合法的」一部であると言って来た。イギリスとアメリカが満州の鉄道をソ連に引き渡した事実は、
 中国に関する限り、状況を此迄以上に「違法」なものにしてしまうのだ。この問題では、米英両国の外交政策担当者は、自らのルール通りに行動しょうとさえしていない。
 中国から見る在満鉄道移譲の「合法性」とは、弱い同盟国(中国)強い同盟国(イギリスとアメリカ)の圧力で、もう一つの強い同盟国(ソ連)の為に要求を下ろす正式手続きの事である。
 もう一つ「合法性」に関わる問題がある。ヤルタ会談の時点では、ソ連は日本と戦争していなかった。そればかりでなく、日本との間で不可侵条約を結んでいたのだ。イギリスとアメリカは、具体的条件を出して、ソ連が特定の期日を以て不可侵条約を破棄するお膳立てをしたのだが、両国代表団はそれを「違法」とは考えていないのだ。その結果として、アメリカは8月6日原爆を投下し、ソ連は8月8日宣戦を布告、翌9日に参戦した。
 ソ連はこの行為によって、英米両国政府から日本の領土と財産、満州、詰まり中国の財産を贈られた。イタリアがフランスに対して、全く同じ事をした時は、両国から「裏切り行為」として激しく非難された。
 アジア人は一連の出来事をパワー・ポリティクスの最も酷い見本と思っている。ソ連が日本等の領土財産を得る事が出来たのは何故か、詰まりソ連は偶々良い時に、良い国として友邦になっただけの事なのだ。
 第一次世界大戦が終わった時、アメリカは中国本土の外国資産を同盟国である日本に移譲する事に反対した。これは注目すべき事である。然し、ヤルタでは、ソ連の為に権利移譲に同意しただけで無く中国に圧力を掛ける労迄取った。
 日本は、アメリカの対中国政策は中国の権利を考えたもので無く、日本には西洋と肩を並ば狭いとする考えに立つものだと言って来た。ヤルタ協定で日本の見方は、はっきりとその重みを増した。
 第二次世界大戦中、ソ連は、イギリス、アメリカ中国との秘密条約で、敵国日本が租借権を持つ旅順の支配と、在満鉄道を中国と共同管理する事を約束されたが、ここでも中国は相談に預からなかった。二つの出来事の大きな違いを、アジア人の立場で見ると、ヤルタのアジアにはアジア人の擁護者がいないという事である。ヤルタ協定が調印されたとき、中国はまだ半植民地国家だった。そして、この取り決めについて、ルーズベルト大統領が蒋介石の同意を取り付けようとしていた。
 戦争後、ヤルタ協定を批准したソ連と中国の間で結ばれた条約は、日露戦争当時の極東の歴史を研究するモノに、ロシアが中国に持っていた権益が、もう一人のルーズベルト大統領(セオドア)の仲介で日本に与えられた時の事を思い起こさせる。主は与え給い、主は奪い給う。主の御名に祝福あれ。

 脅威とは何か
 日本の興亡を見直す事は重要な事である。
 この時代を通じて、支配的な世界管理体制とされて来たのは、常に、そして不思議にもイギリス型「安全保障」システムと呼ばれる力の均衡政策だった。イギリスは、仮想敵グループとの均衡を維持する為に、伝統的、かつあから様に、時の弱小国を傍に就けて来た。このシステムは、現実には、イギリス帝国の権益を伸ばし、イギリスの覇権に刃向かいそうな国の出現を阻む為に作られたものなのだ。
 力の均衡政策の失敗を最も鮮やかに浮かび上がらせるのは、日本の近代に於ける米英と日本、米英とロシアの関係である。イギリス型「安全保障」体制は正にロシアを倒す為に日本が立てられた。そして、日本が「信頼出来ない」と分かると、日本を倒す為ににソ連が立てられた。これがヤルタである。然し、ソ連も日本以上に「信頼出来ない」という事が分かったので、今度は中国を立て様としている。
 トリシャス記者の報告によると、「ソ連の中国征服によって、アメリカの影響力と利益は中国から完全に締め出されるだろう。これは、日本による征服以上に徹底したモノになろう。それだけでなく、アジア全域で共産主義の地滑りがおこり、人類の半分が我々の敵になる事を意味する」。そして、「中国を外国の支配に委ねようとする反乱勢力を断固粉砕し様としている」蒋介石総統を「指示する」事が解決の道だという。
 日本の指導部が満州と中国に於ける行動を説明するに使った言葉と今日アメリカの政策立案者や著名な評論家がアメリカの政策を説明するに使っている言葉は全く同じなのだ。
 日本は彼らの行動について、我々が満州と中国に軍隊と行政官と資金を送ったのは、我々の「条約上の権利」を強化し、「共産主義の脅威」を抑え、混乱状態に秩序をもたらし、国家の存立を保全し、外国勢力と国内の軍閥支配からこの地域を解放し、極東の平和と秩序を促進する為である、と言っていた。
 この主張は、日本が朝鮮占領と対中国政策を説明する時の論理と全く同じである。

 パワー・ポリティクスは逆噴射する
 国際関係は歴史と同様複雑である。事実を巡って何時も解釈が対立する。イギリスの安全保障システムは、多くの権威によって正当化され、褒めそやされている。然し、アメリカが掲げる平和と人類の幸福という目的に即してこのシステムを見ると、明らかに不利となる事実を二つ指摘する事が出来る。
 第一は、日本はイギリスとアメリカの全面的協力がなければ、軍事大国になる事が出来なかったという事である。
 第二は、ソ連に関する事実である。イギリスのパワー・ポリティクスの絶えざる刺激がなかったら、ソ連はどうだろうか。はっきりしているのは、平和を維持し、ソ連を抑止する目的でデザインされたイギリスのシステムは、その何れの目的も果たせなかったという事である。パワー・ポリティクスは、日本とソ連では明らかに逆噴射したのだ。
 アメリカ人がこの二つの事実から学ぶべき事は、「リーダー」は進路を示さなければならないという事である。
 西洋列強が日本に教えた最初の教科は「力は報われる」という事だった。これに対して、日本の近代史がアメリカ国民に教えているのは「パワー・ポリティクスは逆噴射する」という事かもしれない。もし私達が次の世代に「平和は報われる」という信念を教えたいのなら、やがて制動が利かなくなる「脅威」の創出を止めて、平和の可能性に対する確信を示すべきだ。
 日本人が最初に学んだ教訓は、国際関係に於ける「合法性」とは、即ちパワーポリティクスであるという事だった。これに対して、日本の歴史が西洋諸国に教えるのは、パワーポリティクスにおける「安全な」同盟国は何時迄も安全である訳ではないという事だろう。
 日本を近代的軍事・工業国家に育てる中で、幾つかの事が見落とされていた。詰まり、工業化はダイナミックなシステムに向かう事、力は更なる力の必要と渇望を生み出す事、そして「安全な」同盟国は力を強めるに従って安全でなくなる事パワーポリティスクが支配する競争世界で、一度覇権の拡大に向かうと、物資と市場を競争相手の国に依存しているという事実が不安感を醸成させ、より多くの物を求めずには置かない過剰「安全性」に駆り立てる事、西洋列強がコミットメントでアジアに深入りし、日本がコミットメントで満州と華北に深入りした様に、コミットメントというものは国家を追い込む物である事が見落とされている。

 訳者後書き
 近代日本は西洋列強が作り出した鏡であり、其処に映っているのは西洋自身の姿なのだ。詰まり、近代日本の犯罪は、それを裁こうとしている連合国の犯罪である。西洋の価値観が、西洋文明であり、日本の伝統的価値観を完全破壊しようとしている。それが日本占領だ、とミアーズはいうのである。この本の原書がアメリカで出版されたのは、日本の敗戦後3年目、1948年であった。その年、翻訳家、原 百代氏は原書の寄贈を受け日本での翻訳出版の許可を得た。連合国司令官(GHQ)マッカーサーによって出版不許可の決定が為された。要約占領が終了した翌年1953年(昭和28年)に「アメリカの反省」と題してやっと出版された。1945年9月2日、戦艦ミズーリ号において日本が降伏文書に調印した以後、それ迄営々として築いて来た日本人の歴史観はものの見事に打ち砕かれ、所謂戦後民主主義の時代に突入した。
 著者が気付かせてくれたものは何であるか。それは日本の「生き様」である。

 吉野 誠の感想
 戦後、60年間たったいま、満州事変を境に日貨排斥が激しく起こったのか、その当時の時代背景、西洋列強の動き、経済の視点から見る太平洋戦争が良く分かり、、日中戦争で手一杯なのに何故アメリカと戦わねばならなかったのか。又、何が悪かったのか、何が間違っていたのか、何が正しいのか、日本人として理解し、悪かった事は心から深く反省し、同時に間違っていなかった事を堂々と主張し、国際社会に訴えていかなければならない。そうしなければ日本の伝統的価値観が失われてしまう。

 アメリカの鏡・日本(ヘレン・ミアーズ著)
 何が日本を勝てない戦争に追い込んだのか
 アメリカは日本を裁けるほど公正でも潔白でもないことを主張した。
 ペリーによる門戸開放からマッカーサーによる占領までの92年間、なぜ日本は列強の二枚舌流儀(法的犠牲と権益確保)を学習せざるを得なかったのか、列強はいかに日本の権利を認めず孤立化させ戦争へと追い込んでいったのか。

 満州事変
 欧米列強は韓国問題では日本を無罪とし、満州事変では有罪とした。国際連盟もアメリカも、日本が満州を侵略したという非難はしていないのだ。日本は国際条約を破り、条約当事国の満州に於ける権利を侵したから有罪なのである。それだけでなく、中国も日本と並んで有罪とされた。
 中国に言わせば、日本と中国を非難している欧米列強も日本と同じくらい罪が重いのだ。日本を有罪とするアメリカの世論は、満州事変を明白な侵略行為と考えている。しかし、事実は全く違うのである。これこそ日本と欧米列強が合法性を装い合う伝統的なパワー・ポリティクスなのだ。
 米国政府と国際連盟は「九カ国条約」「門戸開放」政策、「パリ条約」を持ち出しし、一方、日本は「合法的自衛権」で対抗した。日本から言うのは「文明国家が……国民と海外の権益を守る」権利、「自決」の原則、弾圧的政府に対する革命の権利である。
 中国から見れば、欧米列強も日本も、これら全ての「原則」を使って、極東に於ける「権益」を守り、或いは拡大しようと言う本音を覆い隠しているのだ。
 "九カ国条約の締結国(英国、フランス、オランダ、ベルギー、アメリカ、イタリヤ、ポルトガル、日本、中国)自身が中国の「領土保全」を尊重していなかった。すなわち、条約当事国の殆どが中国の大都市に大租界をもち、軍隊を駐留させ、中国の河川に自国の砲艦を遊弋させていた。欧米列強(日本も含む)は治外法権と特権を主張し、中国の「領土保全」はまったく無視していたのだ。

 中国の歴史
 満州事変は複雑で混沌としていた中国情勢の所産である。こうした情勢をつくり出した責任は、全ての欧米列強が分担しなければならない。欧米の進出は日本と韓国に大きな変革をもたらした。
 居留外国人が享受しうる広範な特権が条約に明記された。中国に半植民地的地位を押し付けた事から、「不平等条約」と言う名前で呼ばれた条約である。外国の租界と割譲地では、外国人は完全に中国の法律の外にいた。
 欧米列強が輸入する製品には、条約で決められた低率の関税しかかからなかった。外国人は税金を払わず、罪を犯しても中国の裁判所で裁かれず、同国人の中から任命された判事によって裁かれた。
 各国はそれぞれ自国の銀行と郵便制度を持ち、中国国内に自国の軍隊を駐留させ、中国の河川や港に自国の軍艦を配備して、自国民の生命・財産を守っていた。
 中国の金融活動は殆ど外国人に握られていた。中国の産業の成長速度が緩かったのは、中国資本が外国資本と十分競争出来なかった事と、関税が外国に管理されていた為に、民族産業を保護できなかった事に大きな原因がある。外国資本と企業が支配体制を固め、拡大して言った事も原因である。
 1931年当時、中国の産業資本の四分の三は、中国の低賃金水準を利用する外国人に握られていた。僅かな鉄道も、中国人の為でなく、外国人の特殊権益の為に敷かれたものだった。
 イギリスが関税と塩税を管理していた。その収入の殆どが対外債務の利子返済に充てられ、政府の行政運営、近代化、福祉には使われなかった。
 1911年の中国(辛亥)革命で清朝が倒れ、中華民国の成立が宣告された。欧米列強はその内の一つ、1928年迄北京を本拠としていた政府だけを「中央政府」として承認したが、それでいながら、競って「地方軍閥」に金を貸し与え弾薬を与え、特権を得ようとしていた。
 中国に特権を持つ国は、ヨーロッパの殆どの国とブラジル、ペルー、メキシコを含め全部で13にのぼる。
 日本は活動の場を朝鮮半島と満州と限定していたから、イギリスを始めとする欧米列強は、中国本土を欲しい儘に振る舞う事が出来た。
 第一次世界大戦で力の均衡が崩れた。日本は大戦を利用して、強引に中国での権益を求めて行った。其れ以上に極東の「安定」を揺さぶったのは、共産主義革命という形をとって再び出現したロシアである。
 ソ連の既存体制否定と革命的スローガンが、中国の革命的大衆の感情に火を点けた。中国人にとって共産主義は、地方軍閥権利の圧制と欧米列強の支配から自らを解放する理想の象徴だった。
 満州事変は、その後の日華時変同様、この複雑な状況の論理的帰結だった。大きな問題は中国での「権益」を守り、拡大しうとする西洋列強同士の対立だった。争っているのは日本と欧米列強だったが、ロシア革命で状況が複雑になった。さらに問題を複雑にしたのは、アメリカの立場である。理想主義的政策を指示してきたアメリカが、今や即物的、国家主義的言葉でしか理想を語れなくなったことに苛立っていた。

 攻撃と反攻
 1931年9月18日、南満州鉄道の沿線で日中両軍兵士が衝突、満州事変が起きた。(真実は日本軍が爆破した。)南京政府は日本の暴力行為を非難し、国際連盟に提訴した。
 日本軍の行為は「正当防衛」であると言うのが日本の主張だった。日本の言い分は満州地方の軍司令官、張 学良の争いと思われる中国軍部隊が南満州鉄道の線路を爆破しようとしていたというものだった。
 日本にいわせれば、これは「法と秩序」を回復するための通常の「警察行為」であり、日本は欧米諸国から「後進」地域にかかれる大国の責任であると教えられた事をしたまでだ。いかなる意味でも国家間の武力攻撃ではなく、あくまで警察行為であり、したがって、他国には全く関わりのない事なのだ。
 しかし、中国は、日本の言い分は法的犠制で有ると非難した。日本は満州を占領し併合するための口実として、自分の手で鉄道を爆破したというのが、中国の主張だった。
 日本が満州併合を策しているなら事情は違って来る。この場合、大国は「法的」にも実際面でも強い立場で日本を告発出来る。
 中国に権益を持つ各国は、日本が満州の貿易と開発を握り、日本人居留民の立場を有利にする。この地域に於ける各国は、この地域に殆ど関心を持っていなかっが、将来はもつ事もありうる。これが欧米列強の現実的立場であった。 

 アメリカの役割
 アメリカは事件当初から、日本の行動を侵略として強く非難した事になっている。しかも、それを確認できる記録はない。事件発生から四ヶ月経つて、ようやくアメリカの公式見解が纏まった。1931年1月7日日中双方に伝えられた。
 アメリカの立場の基礎となったのは九カ国条約とパリ不戦条約である。アメリカは「合衆国の中国に於ける条約上の諸権利と『中華民国』の主権、独立、『領土的・行政的』にかかわるもの、あるいは門戸開放政策として知られるアメリカの対中国外交政策にかかわるものを含むアメリカ国民の条約上の諸権利を損なう」いかなる条約ないし合意も合法性も認めないと通告した。
 この見解は、日本を侵略者とする単純な非難とは明らかに違う。日本から見れば、国債関係法のルールをつかって、戦略、経済的、道義的に正当化する技術にすぎない。国際関係の上で「侵略」という言葉が満足に定義されたことは一度もない。
 パリ不戦条約は、外交手段としての戦争を「非合法」とした。アメリカは、戦争禁止条項からとくに「正当防衛」を除外している。アメリカがためらっているのは、この問題を裁定すれば自らを著しくするからだ、と日本は見た。
 第一に、アメリカは、1927年、中国で武力を行使「米戦艦が南京砲撃」したばかりである。理由は日本とまったく同じで、横行する中国人「盗賊」から自国民と財産を守るというものだった。今後も同じ手段に訴える事がないともかぎらない。だから、後で自分達に返って来る様なフォーミュラは打ち出せないのだ。
 第二に、将来ニカラグラやメキシコでの権益を守る為に、海兵隊を送らなければならない様な事態を考えると、外国の干渉を許す様な政策はとれないのだ。このジレンマを解いたのが、「門戸開放」政策と九カ国条約というフォーミュラである。
 1921年ワシントンで調印された九カ国条約である。中国に「権益」をもつ八カ国の間で取り交わされた条約で、これによって各国は「中華民国」の領土的・行政的保全を尊重し、全当事国に対中貿易の機会均等を保証する門戸開放を約束し合った。そして、九番目の当事国である中国は調印国の権利を尊重する事に同意したのだ。
 アメリカ政府は、この条約は中国の分割を阻止すると同時に、戦争を防止しようとする意思の表れであると解釈している。しかし、平和と国家間の安定の土台であるべきこの条約は、二つの相反する目的をもっていた。即ち、その内容と適用で明らかなように、不平等条約体制下でアメリカの特権を守り、同時に中国の主権と平和を維持しようとするかと言うのだが、不幸な事に第一の目的が第二の目的を殺してしまうのだ。
 中国から見れば、九カ国条約は、中国に於ける西洋列強(日本も含む)の特権的地位を保証する不平等条約体制を「固定化」し合法化する為の合意である。これらの条約は、中国にとって屈辱的であるばかりではなく、恒常的な不安定要因だった。だから、中国は反日行動への支援を求めながら、西洋列強を全て排斥しようとしていた。
 もしアメリカが対中国関係で本当に「公正無私」なら、アメリカは中国にもつていた特殊権益を放棄していた筈である。主権国家たるものはこのような権利を外国に与えはしないのだ。アメリカはどこの国の軍艦であろうとミシシッピー川に入るのを許さない。そうであるなら、西洋列強は揚子江に軍艦を配備する権利はないのだ。
 アメリカが常々、中国の主権を守る為だと言って来た門戸開放政策も、実際の行動では中国の主権を否定するものだった。本当の敵は日本ではなかった。敵は、日本に満州での「合法的」権利を与えている不平等条約体制だった。このような体制がなければ、日本は満州事変を起こせなかったのである。
 アメリカは満州事変非難の全ての根拠を、中国と日本が条約体制を危機に陥れた事に置いていた。
 日英同盟がアメリカの圧力で廃棄が決定された後でも、日本とイギリスは革命で揺れる中国の「法と秩序」を守るために協力しあっていた。日本は列強が必要なときにはとっている行動をとったにすぎない。それを犯罪と決めつけるのはいかにも下策であった。つい、2,3年前、イギリスを始めとする西洋列強は、中国国内あるいは中国へのルートに総勢2万人の軍隊を配置していた。他所の国が中国で軍隊や軍艦を使えるのに、何故日本は行けないのかが頗る理解出来なかった。
 アメリカと連盟がゆっくりと動いている間に満州の事態は急展開した。
 1932年2月29日、満州人が陽に集まり、中国からの独立と独立国家、満州国の樹立を宣言した。
 1932年9月25日、日本は満州国を承認した。 

 リットン報告
 日本は「独立国」満州という日本のフォーミュラは、主要関係国(イギリス・アメリカ)が認める法的犠制の様なものであると、信じていた。日本の立場は決して弱くない。パリ講和会議の五大国の一員にれせられた。つまり教育期間は終わったのだ。特に中国の様な「後進」地域との関係では、他の大国と同等の扱いを受けるだろう。
 満州に於ける日本の「法的」立場は、不平等条約体制が続くかぎり、問題にされないだろう。もし関係大国が日本の行動に反対すれば、不平等条約の全構造は弱体化し、極東に於ける力の均衡は崩れてしまう、というのが日本の理解だった。さらに、ロシア革命と中国内部の革命運動が満州「安定」の守護国としての日本の立場を強くする筈だった。しかし、日本は行き過ぎた様である。
 1931年1月、満州事変は抗日運動が盛り上がる上海に飛び火した。日中両国軍が衝突し、日本軍は上海の中国側の拠点を攻撃した。各国は共同租界の周辺で起きたこの衝突に強い懸念を抱き、アメリカとイギリスは日本政府に抗議文書を送った。5月まで事態は収拾されず、日本軍は撤退しなかった。上海事変に於ける日本側の狙いは、とくにイギリスに圧力を掛ける事だった。上海事変は拙劣だった。日本は指示を得るどころか、失ってしまった。
 1936年6月、日本は更に重大な過ちを犯した。新満州政権が税収と塩税収入の全面管理政策を発表し、イギリス人税務管理者を追放した。それまで中国の税収の三分の一は満州から来ていた。そして、イギリスの借款の大部分はその収入で保証されていた。イギリスは日本の真意を疑い始めた。
 報告は日中双方に責任があるとする。中国側の責任は、国内を混乱させている事である。それが日本を挑発したのである。満州の独立を認める事は出来ないとし、満州は中国の主権の下に留まるよう勧告した。同時に、報告は、満州の情勢は明らかに監視体制が必要で有ると勧告した。
 一読する限りでは、正しい事をいっている様に聞こえる。しかし、「国際管理」には、現実的には、中国にいる日本のライバルが当たる事になる。全ての関係は、自分たち自身の勢力圏はあくまで自分たちで管理しょうとしているのだから、日本に言わせれば、差別だった。
 報告書は主要な点で、極めてて中国に厳しい。まず「共産主義犯罪集団」が混乱要因となっている事。第一に、国民党(欧米列強が合法的中央政府として承認した南京政府の指導者蒋介石の党)は「反外国」感情に侵されている事。中国には中央政府というべきものが存在せず、「拝外思想」が「建設的改革」を遅らせ、「犯罪集団」が「本物の軍隊」と化し「飢餓地帯」を苦しめている、と次の様に指摘している。
 1911年の革命以来、中央政府が弱体であるために、政事動乱、内線、社会・経済不安が続いているのが中国の特徴である。こうした諸条件が中国と接触する全ての国々に悪影響を及ぼしている。これが改まない限り、中国は世界平和を脅かし、世界不況を助長し続ける。
 又、リットン調査団は、蒋介石は不平等条約と治外法権を否定しようとしていると言って非難する。
 報告は、「中華民国」の「中央政府」という考え方は、法的犠制にすぎない事を認めている。報告に寄れば「軍閥」の政権の多くは、南京政府を中央政府と認めておらず、単に「たまたま外国勢力から中央政府として認めてくれているに過ぎ無い」と考えているのである。もしある「軍閥」の政権が外国勢力に認められたと言うだけで「中央政府」になれるなら、大国である日本が自分の勢力圏内にある望ましい政権を中央政府として認めて成らない理由はないのだ。もし、中国の中央政府が報告で明確にされているように法的犠制なら、日本の満州政府も同じである、と日本は考えたのである。


 日本は合法的に行動している
 日本はこの報告に対して、満州事変を通じて日本は法的問題には非常な注意を払ったし、「法を守る」努力を怠らなかった、と答えている。
 中国が連盟に提訴し、問題は国際事件となった。アメリカは事実上、日本軍によって満州から追われた中国軍の現状復帰を求めて居るとも受け取れるような厳しい態度を打ち出した。
 日本は大国が満州の併合を認めない事を悟った。日本は見事なフォーミュラを見つけた。満州は併合したのではない「解放」というフォーミュラである。日本は満州がかって中国の一部だった事はない。全く逆で、中国の方が満州帝国の一部だった。
 1911年清国は倒れた。これによって中国と満州の法的関係は切れたにも関わらず、欧米列強は、満州は中国の一部であるという犠制を続けていると、日本は言う。これに対して、不平等 条約は清国との間で結んだのだから、外国に付与された特権は当然満州にも及ぶ、だから中国に対して、満州まで主権を及ぼすよう求める現実的理由があるというのが列強側の主張だった。しかし、中国は確信をもって主権を主張する事が出来なかった。
 満州は1928年まで、張作霖によって支配されていた。彼は満州を自分の私領と考えており、二度満州の独立を宣言しているのだ。新国家は満州支配の皇族を継ぐ満州王朝の王位継承者、溥儀に父祖の地に戻って、新しい国を治めて欲しいと「請願」する。そして、日本には満州と日本の相互防衛のために軍隊の駐留を続けて欲しいと請願する。これ以上「合法的」な事はないではないか。
 報告は、連盟加盟国は満州国を承認すべきではない、と勧告した。日本がリットン報告にびっくりしたのは当然である。
 アジアの大国としての地位を根底から脅かすものだった。心理的衝撃は、日本は西側先進国でないとされた事である。日本は五大国の高い席から、アジアの後進民族と同じ地位に引きずり下ろされたのである。欧米は特権の保持を問題提起の土台にしている。非難の根拠は、中国国民に対する憂慮ではない。欧米列強は中国に於ける自分達の地位を心配しているのだ。
 国際連盟とアメリカが経済措置に踏み切れば、日本は満州から完全に撤退せざるを得なくなると言う事だった。
 
報告が提示したこのフォーミュラは、民主主義諸国の世論には、平和を促進し侵略に反対する為の国際協力の第一歩として受けられた様だ。しかし、日本は裏切られたと感じ、一方中国は報告が信じられなかった。アジアと中国に覇権と勢力圏を維持し続ける連盟加盟大国が、日本を非難するのは、自分の利益がからんでいるからだ、と日本は考えた。こうした非難は日本の行動に対してではなく、人種に向けられたものだという結論に行き着く。中国人もリットン報告書を子細に読めば、同じ結論に達しただろう。

 確立された満州の秩序
 経済界は欧米列強が連盟の決定にこめている意味を怖れた。帝国主義列強(イギリス・フランス・オランダ・アメリカ)は日本製品のボイコットあるいは経済封鎖の制裁措置に出るのではないかと言う怖れである。
 日本は最悪の事態を予測し、連盟脱退と同時に「非常事態」を宣言する詔勅が発せられた。しかし、なにも起こらなかった。力こそ欧米が尊重する唯一のものなのだ。満州国を承認させるのは、華北と上海の情勢を揺さぶり続ければ良いのだと軍部は考えた。
 経済界の考えは違った。欧米諸国が尊重しているのは「法と秩序」利益の上がる貿易と利子払いの良いローンである。満州国の承認を獲得する道は、満州を「近代化」して、健全な経済基盤を整える事だ。
 外務省の官僚達は、満州国の承認を得るためには、不平等条約に刃向かったり、欧米諸国の特権を問題にしては成らないと言う意見だった。
 満州国では、新政府が「法を順守して」行動しょうとしていた。新政府は旧体制の債務を引き受けた。不平等条約を受け入れ、外国人にももとの特別待遇を保証した。中央銀行を設立し、統一通貨をつくた。中国では何年間も無駄に努力して来た改革のすべてに、満州国は乗り出した。貿易は改善され始めた。遂にイギリスを動かした。
 1934年末、貿易と投資の可能性を調査するため使節団が日本と満州を訪れ、好印象を持って帰国した。
 調査団は次の様に報告した。
 満州国住民は治安対策の向上と秩序ある政府を与えられていて、軍による略奪と搾取はなくなった。
 課税制度は妥当なもので、公正に運営されている。
 安定通貨を持つ事が出来た。
 満州国の工業製品市場として規模と将来性は容易に想像する事が出来る。
 近代国家が建設されつつある。満州国と他の国々の利益のために、経済繁栄が徐々に達成されるものと期待される。
 それでも欧米列強は「事実の論理を理解する」事ができず、新国家を承認しなかった。日本は新国家に於ける特別な地位、治外法権を放棄し新国家が在留日本人に課税する権利を認めた。日本は満州国政府の要請に基づき、引き続き軍隊を駐留させているが、重要な鉄道沿線の防衛だけでなく、共産主義に対する「相互防衛」手段なのだ。しかし、欧米列強にとって穏やかでなかったのは、日本軍の駐留より、一連の権益放棄だった。
 極東の国がたまたま、一時的な緊急措置として、或いは「聡明な利己主義」なるものにならって進歩的行動をとっても、欧米民主主義諸国はそれを進歩とは認めない。
 日本が満州で治外法権を放棄した事に対してもそうだ。欧米諸国が日本の行動に拍手をおくって後に続けば、むしろ日本の侵略を非難しうる堅固で正当な倫理的基盤を作れた筈だった。
 所が、満州には欧米諸国の特権的地位を奪う権利はないと激しく攻撃したのである。
 日本の治外法権と特権的地位の放棄を新たな法的犠制と見なす事は出来るだろう。
 歴史の事実を見れば分かる事だが、満州事変に於ける日本の犯罪は、アメリカが思っている程の単純なものではない。民主主義諸国は自分たち自身と自分たちの同盟国の為には、法的犠制の論理を広く認めている。日本の指導部もこの論理をつかえば、自分たちの行動を説明出来るし、正当化出来る。
 中国に於ける「特殊権益」の主張を基本にして、1921年に調印された「九カ国条約」の中国以外のと当事国は、イギリス、フランス、オランダ、ベルギー、アメリカ、イタリヤ、ポルトガル、日本の八カ国である。

 1.イデオロギーか貿易か
 戦争原因を考えるにあたって、アメリカは人種、思想的側面に拘りすぎ、経済的要因を無視している。日本の視点から言えば、この戦争はアジア民族がアジアの支配勢力として台頭するのを阻止し、米英企業の為に日本の貿易競争を圧殺しょうとする米英の政策が引き起こしたものだ。
 それが、米国政府の意図だったという見方は、アメリカ人なら誰も認めないだろうが、実際に行われた政策と米国政府の公式説明は、正に日本の解釈を裏付けていると言わざるを得ない。
 2.誰の為の門戸開放か
 アメリカの極東政策は「門戸開放」で二つの原因から成っている。
 1.対中国貿易に於ける全ての国の機会均等。

 2.その為に必要な中国領土と行政の保全である。
 日露戦争当時、諸外国の対中国投資に占めるアメリカの割合0.1%1931年(満州事変)アメリカの日中両国による権益侵害を公式に非難したときには、アメリカの対中国投資総額一億九千百八十万ドル(空母四隻分)アメリカの投資の殆どはアジアではなく欧州と南米に向けられていたのである。1937年の総輸出額の内中国向けは1.5%にすぎない。
 日本とアメリカの歴史、資源、需要を比較すると、アメリカより日本の方がずっと拡張を必要としているのに、アメリカは何故理解してくれないのか。アメリカは豊かすぎて、日本の経済問題の実相が分からないのではないか。

 日本の実情
  日本は小さな島国。
  農地にも原材料にも恵まれていない。
  近代に入ってから80年足らずで、日本の人口は二倍以上に膨れ上がった
  食料生産従事者は人口の80%・・・1853年
             52%・・・1931年
  食料の自給体制を採る事が出来ないのだ
  欧州諸国とアメリカはアジア地域からの移民を法律で規制
  中国は人口過剰で出て行けなかった
  1931年当時、満州の人口は比較的少なく、資源は未開発現地の情勢が安定すれば、移住者に生活の場を、そして近代型産業を育てる事が出来る、と日本は考えていた。持てる国アメリカが、その時点では誰も欲しがっていないものを、貰おうとする日本を許さないのか、日本には分からなかった。
  日本は第一次世界大戦を契機に、中国への進出攻勢をかけ始めた。
  外国の対中国投資・・・投資額
  イギリス36.7%・・・20億ドル
  ソ連   8.4%・・・2.7億ドル
  日本  35.1%・・・11億3千万ドル
  アメリカ 6.1%・・・2億ドル
  日本の対中国、対満州投資は、対外コミットメントのかなり大きな部分を占めていた。アメリカ、イギリスの対中国投資は、国家経済のほんの一部にすぎなかった。
 満州が開発されなかったのは、日本とロシアの対立、そして満州の状況が余りにも不安定だった為に、既に他の地域で十分事足りている各国には魅力がなかった。

 誰の為の自由貿易か
 アメリカの政策の基本は、自由経済と貿易の機会均等で有る事を強調し、日本がアメリカを締めだそうとしている事に抗議している。
 日本に言わせると、全く逆である。欧州列強がアジア・太平洋地域で諸外国の貿易と投資に大幅な制限を加えている事実がある。もう一つ、欧米列強は日本製品を締め出すか、事実上の規制をしている。
 アメリカの課税構造は全ての加工製品にきわめて高い輸入関税掛かる様になっていたから、日本製品が米国市場で競争するのは非常に難しかった。
 日本製品と関税率の代表的なものをあげると
 無装飾の陶磁製食器、容器、道具類・・・・・・111%
 装飾付きの同製品・・・・・・・・・・・・・・・95%
 乾燥豆類・・・・・・・・・・・・・・・・・・163%
 セルロイド製ブラシ・・・・・・・・・・・・・139%
 真珠製ボタン・・・・・・・・・・・・・・・・152%
 セルロイド製おもちゃ・・・・・・・・・・・・129%
 ブラント名の刻印つきエンピツ・・・・・・・・255%
 魔法瓶・・・・・・・・・・・・・・・・・・・192%
 日本は関税政策のなんたるかを承知していた。日本側が完全締め出しを回避するために、輸出の自主規制に応じなければならない事もあった。日本は又、非差別政策を標榜するアメリカが「友好国」と取引しながら、実際には巧みに日本を友好国から外している事を知っていた。
 アメリカの「自由経済」も日本から見れば法的犠制なのだ。
 アメリカの「自由経済」とは、自国製品を「遅れた地域」に無関税、或いはアメリカが決めた税率で持ち込む事なのだ。その一方でアメリカは、本国だけでなく、日本製品が歓迎されるかもしれないハワイ、フィリピンの様な遠隔地でも、外国製品の輸入を制限している。日本は当然そう考えただろう。

 誰の不公正競争か
 アメリカが日本を非難するもう一つの問題点は不公正競争である。
 日本の実質賃金はアメリカと比べて著しく低い。だから米国企業は労使とも日本製品から不公正競争を仕掛けられているというのだ。
 日本から見れば、不公正競争をしているのはアメリカの方なのだが、アメリカはそうは見なかった。日本は海外から原材料を購入する事によって、外国人に雇用と利潤をもたらしている。
 アメリカは大量生産手段をもつているから、日本より速く、安く、質の良いものを作る子とが出来る。これは賃金格差を遙かにに超える利点である。
 アメリカ経済にとって対外貿易は需要不可欠ではないが、日本にとっては死活問題なのだ。アメリカは作り過ぎた製品を輸出して来たのだ。工業製品と農作物を僅かにに輸出していたにすぎない。
 日本は近代国家になる過程で、国家の自給自足体制を決定的に失ってしまった。日本は食糧だけでなく、生活して行く為に必要なものは事実上全て輸入しなければならなかった。日本は輸出しなければ、多くの人が食べて行けなかった。
 日本経済は対外貿易に依存していた為に、アメリカの不況は、日本人にとってアメリカと同様深刻な問題だった。
 アメリカにとって対日貿易は重要だったし、利益も大きかった。戦前日本はアメリカの三番目の取引相手だった。日本にとって対米貿易は死活問題だった。
 大恐慌以後、日本は巧みに不況を乗り切り、景気は回復した。米英に続いて金本位制を離れた日本は、アジアと植民地市場、更にアメリカ・中南米に激しい輸出攻勢をかけていった。他の「自由経済」貿易国から非難の声が挙がったが、日本としては拡張を止める訳には行かなかった。止めたら日本経済全体が停滞してしまう。しかし輸出拡大を続ける事は出来なかった。諸外国が日本製品に対障壁を設け始めたのだ。
 日本は生きる為に海外で売らなければならなかった。日本人は生活水準を引き上げて行こうとしていたのではない。ただ生きる事を求めていたのだ。日本から見れば、アメリカがもっている基礎資源と原料物資の豊かさこそ、不公正競争をもたらしているものだが、アメリカ人はそんな見方がある事さえ知らない。
 日本の政策立案グールプは、日本民族は「白色」民族に差別されていると本気で信じていた様だ。そこで日本は中国に激しい進出攻勢をかけ南進政策を強力に推し進めて行くのである。

 天皇と武家
 平安時代の末頃から、王位継承は武家の圧迫を受けて度々支障を来す様になった。
 寿永二年の折りは、木曾 義仲の上洛とこれに伴なう平家の都落ちが原因だった。平家が自らの血を引く安徳天皇を連れて都落ちし、取り分け三種の神器を持ち去った事で、朝廷は激しく動揺した。その為に、後鳥羽は異例の神器無しの天皇になってしまった。
 後嵯峨天皇の即位は、承久の乱(1221年)が原因である。これにより後鳥羽、土御門、順徳の三上皇が廃流、仲恭天皇も廃位された為に、皇族が激減する結果と成った。この事が、乱の二十一年後の皇族断絶の危機を将来したのである。後嵯峨の即位は、幕府の意志によるものであったが朝廷は、幕府の同意を得る為、鎌倉からの使者の上洛を待って後嵯峨の即位を実行した。その為先帝の崩御から十一日間の空位が生じる事となった。この事は、当時の公卿の間では大変悲しむべき事として捉えられた様である。幕府の同意がなければ即位も行えない程に、朝廷の権威は失意してしまったのだ。
 観応の擾乱によって実現した後光厳天皇の即位も行えない程に、朝廷の権威は失墜してしまった。
 南北朝の動乱が更に混迷した観応の擾乱の頃(1351年)正平六年である。弟足利直義と戦っていた足利尊氏は、この年一旦南朝に降伏する。その結果、北朝のその弟直仁親王は廃され、所持していた神器も南朝に譲り渡してしまった。翌年、南朝方が上洛すると、更に崇光の父の光厳上皇、その弟の光明上皇迄も南朝の本拠である大和のに連行される。南朝は北朝の上皇や天皇、皇子の命脈を完全に断とうとしたのだった。その後再び北朝は勢力を回復し京都を取り戻したけれども、即位させる天皇に窮してしまう。かろうじて光厳上皇の皇子で崇光天皇の弟にあたる王の即位を図った。これが後光厳天皇である。ただ問題は、上皇、天皇すべて南朝に拘束されてしまっている為に後光厳天皇に即位を命じる人物がいない事である。かつての後鳥羽の即位は、後白河法皇の意思によるものであった。しかし、今日はこの様な立場の者がいない。全く足利氏の意による即位なのである。
 これでは天皇としての正当性に陰りがでてしまう。光厳、光明の母で崇光、後光厳の祖母の広義門院が幕府から院政を行い、そのうえで後光厳に譲位する様求められる。然し、高齢の広義門院は院政を断り、後光厳の即位だけは渋々承認した。
 継体と中世以後の天皇
 継体の即位は、どれ程王統が危機に瀕しようとも王族以外の人物が天皇に即位してはならないと言う理念をその後に残す事になった。長い歴史の中で、天皇制度存続の危機が前述の例を含めて何度かあったのは事実である。道鏡や足利義満など、王族でない人物が天皇になる可能性は幾度もあった。しかし、この理念は、その都度息を吹き返し、近代迄命脈を保持して来た。その背景には、天皇家の血を引かない人物が即位するよりは、たとえ遠い傍系の出身であっても王族が即位するのが正当であると言う理念があった。継体の即位はその先例として重視されたのである。しかし、其の一方で継体の即位は、臣下によるを無原則に何処迄も許す先例伴った。
 江戸時代に至ると、天皇は幕府の同意無しには退位も出来ず、新帝の人選も許されなくなってしまう。慈円は『愚管抄』において、日本では天皇家の人物しか国王(天皇)になってはなら無いが、その代わり能力ある臣下が大臣となって天皇を補佐するのが最上の体制であると言った。継体の先例が少なからぬ役割を果たしたと言う事になるのかもしれない。
 謎の大王 継体天皇  (文春新書)著者 水谷 千秋
 注釈
 武烈天皇が跡継ぎを残さずに死んだ後,畿内を遠く離れた近江・越前を拠点とし、「応神天皇の五世の孫」と称する人物が即位した。継体天皇である。この天皇にまつわる様々な謎―血統、即位の事情、蘇我・物部・葛城等の大氏族との関係、「百済本記」に記載された奇怪の崩御の有様等、更に中世の皇位継承にその存在が与えた影響が大であった。
 朝廷では、摂関制度が十世紀以来、九百年以上続いていた。その中心となるのは関白で、「万機(よろずの政事)をあず(関)かりもう(白)す」のである。貴族たちから「一の人」または「殿下」とも呼ばれ、貴族の代表である。天皇は「おかみ」、「主上」と称され、江戸時代には幕府の強い抑圧を受けていた。そして、関白は、天皇の行動が逸脱しないよう規制する役割を幕府から求められ、その為に幕府から贈られる役料は実に千石、勢いは天皇に拮抗したと言われている。しかも、幕府や大名からの、何かの際(贈位等)の「お手伝い」(贈与)もあり、それは役料を遙かに上まわった。
 幕末の公家集団には、、、大臣家,其れ以下のと言う家格の序列があり、、九条、二条、一条、の五家が「摂家」である。関白に就けるのはこの五摂家だけ、摂家が圧倒的な力を持っていた。関白に次ぐ三公(左、右、内大臣)も、左右の大臣になれるのは五摂家の当主に限られ、唯一、清華家だけは、内大臣に就く事があった。幕末には百二十八家に増えていた平公家は、五摂家の「門流」として、何れかの摂家に臣従していた。江戸時代には、親王家(宮家、天皇の一族)の伏見、桂、の四家すらも、席次は1615年(元和元)に幕府の定めによって、「三公の下、親王」と決められ、摂家の下であった。
 この様な摂家が有力武家と血縁関係を結んでいた。この関係を縁家という。特に知られた縁家としては、近衛家と島津家、鷹司家と水戸徳川家、三条家と山内家等があげられる。
 多彩な世界
 元々近世における朝廷の朝議は、活発な議論が展開していた。朝議は、二日二晩に及ぶ事も希ではなかった。
 活発に議論が展開した江戸時代の朝議の様子、そえはしばしば、因循な公家というマイナスイメージで描かれるが、偏見ではなかろうか。江戸時代の京都の御所空間のなかの九門から禁裏に繋がる空間――――「内裏空間」は、京都の庶民に通行自由で観光スポットにもなっていた事。そこに煮売り屋等が店を出し、九門内の公家門前の「コシカケ」で、一杯やりながら公家を見物する庶民がみられた事。
 即位式でも、庶民拝観の模様は「御即位行幸図屏風」に描かれた様に、「がを奏しているにもかかわらず、その周りでざわめく人々、胸をはだけて赤子に乳を含ます婦人、酒を酌み交わす男たち、と言った猥雑で活気ある風景である。しかも、観衆は紫宸殿の直ぐ横や、宣命使の直ぐ後ろ迄溢れている」と紹介されている。江戸時代日本では、朝廷ですら「多彩な世界」が展開していたのである。幕末の九門の諸藩兵警衛から、内裏空間が近代の「閉ざされた空間」になって行く。
 こうした多彩な世界が「消えた物語」になって行く、そうした側面が近代にあるのである。

 百姓一揆の実像
 私達が江戸時代の百姓一揆をイメージする時、映画やテレビ時代劇による藩主・悪代官による圧政により「竹やり」と「むしろ旗」をもった暴力的な蜂起である。
 私達が抱いている「竹やり」と「むしろ旗」の一揆イメージは、じつは近代になって創られた、一揆の「虚像」に過ぎません。
 百姓一揆で参加者が持つものは、日常農耕に使う鎌等であった。「秩父領一揆」に記されている様に、一揆参加者が「敢えて人命を損なう得物は持たず」と言う明快な認識を持っていた事。農具を持った、「百姓」としての自負、誇りが一揆参加者の原点だった。
 膨大な一揆史料検索の結果によれば竹やりを持って「殺害」事件に及んだのは、江戸時代一揆史上3200件程の一揆の中で1820年前後(文政年間)の二例だけである。1818年(文政元)、大和国竜門騒動で、百姓16人が百姓を斬った代官所役人一人を突き殺した事件、1823年(文政六)、紀伊国こぶち騒動で、炊き出しの米に土足で踏み込んだ百姓を突き殺した事件の二つである。
 百姓が、一揆時に鎌や棒などの「得物」を持つ事が「百姓らしさ」を強調するものとはっきり意識されるようになったのは18世紀中頃からである。農具の中でも鎌が、江戸時代後期に起きた一揆の得物の主流であった。
 19世紀前半期の一揆の流れと、特徴について紹介する。
 19世紀には一揆発生の二つの大きなピークが見られる。前のピークは1832年(天保三)から38(天保九)に掛けて天保の飢饉の年であり、後のピークは1866年(慶応二)、慶応期の動乱と凶作の年に当たっている。
 「7年ケカチ」と呼ばれた天保の飢饉の中でも最大の凶作は(巳年のケカチ)に当たる1833年、百姓一揆発生件数は70件以上に上った。同じ天保の飢饉の最後の年、1838年の百件に迫る発生件数であった。
 1866年、慶応の動乱と凶作年には百件を超す一揆が続き、何れも18世紀とは段違いである。
 世界的な小氷河期が引き起こした気候不順を切っ掛けとする天保の飢饉と文政貨幣改鋳によるインフレーションが、打ち壊し、一揆続発の引き金を引いたのは言う迄も無い。諸藩が国産専売や産物政策を始めた事も一揆の要因となった。
 19世紀初めの長州藩の産物専売制が百姓から指弾された様に、百姓の生産物を「悉く価安く買い上げ」(長州藩「御書付控」35)る様な圧制もあり、国産専売制や産物政策に反対する百姓一揆揉めだった。大きな一例が1831年(天保二)、参加者6万人とも10万人共言われる長州藩全域に広がった長州藩天保二年大一揆である。
 一揆は7月下旬から九月下旬迄郡部で相次いで起きた。長州藩の専売制に関わった御用達商人、村役人そして米穀を買い占めた米商人等、750軒程打ち壊した。藩に対して年貢の軽減、専売制の廃止、村政の民主化等を求めて、中農や中農以下の経営規模の百姓、小商人、米穀を買う貧農、諸職人が多数参加した。下級村役人も一揆に加わっている。一揆の打ち壊しの際には、脇差をもち、顔に墨を塗って面を隠した異形姿の貧農、諸職人が指導者になった。又、長州藩天保二年大一揆の特徴的な事の一つに、被差別部落襲撃がある。江戸時代日本では、他に1823年の紀伊国こぶち騒動の例が知られるだけである。民衆運動の持っている弱点、問題点である。
 長州藩は専売制を撤回し、村役人を全て入れ替えたが、一揆の「発頭人」の役割をした十三人の下級村役人は獄門、永牢、永遠島と言うもっとも厳しい罪科に処せられた。
 1836年(天保七)には、全国で90件以上の一揆や騒動が起きた。中でも甲斐国と三河国で、大きな打ち壊し一揆が発生している。
 織物業で絹を生産し、それを売った代金で米穀を購入していた郡内地方(現 都留郡)の百姓は、米価高騰と絹価格下落の為生活苦に追い込まれる。8月下旬に下山田村(現 大月市)の森次左右衛門、別名武七と犬目宿(現 上原町)の兵助らを指導者として、一揆を起こした。百姓たちは米国商人がいる甲府盆地の地方一帯へ向かって進み、米の「押し売り」(強制的借用)をする。国中地方では貧農、小作、無宿人が加わった結果、一揆の勢いは一段と激しくなり、数日間に300軒以上の家を打ち壊した。参加人数は、599カ村から数万人以上「郡内騒動」と称される。
 次左右衛門と兵助は、一揆が指導を離れて激化した為途中から村へ帰った。次左右衛門は存命ならば獄門という罪を受け、獄死。兵助は次左右衛門と相談の上他国へ逃げ、四国、中国地方で巡礼に姿を変えて逃亡生活を送る。やはり存命ならば獄門で「」(永久手配)とされた。兵助は一揆の頭取として立つに当たって、妻子を庇う為に「離縁状」を記し、逃亡中は「兵助日記」を残した。
 一方、三河国加茂郡は、大名領や旗本領が入り交じって言う所である。一帯の百姓は綿作等の商品生産や、薪炭生産、街道諸稼ぎで暮らし、米穀を買っており、米価高騰の直撃を受けた。9月下旬、兼ねて一帯の「口利き」と知られた下河内村辰蔵を指導者として、米穀値下げ等を求めて一揆を起こす。役人との「交渉」で値下げ等を決め様とした指導者辰蔵は、一揆勢の不信を買い、家を打ち壊される。其れ以後、一揆は打ち壊し一揆となった。当時の記録「鴨の」によれば一揆は盗みをしない等厳しい規律を持っており、「猫の椀でも残すな」と、激しく打ち壊しをする。一揆勢は自らを「世直し神々」と呼び、蜂起には五日間、一万数千人が参加し、二十四軒を打ち壊した。
 大塩平八郎の乱
 1837年(天保八)2月上旬、密告があった為蜂起予定の前日に天満の自宅から急遽蜂起する。「救民」の大旗を掲げて大筒を引き、天満一帯を焼き払いながら大阪の中央部船場に進み、屋など豪商を焼き討ちして金穀を窮民に散じた。この勢力は300名に達した。夕刻には鎮圧兵の前に壊滅する。この乱と此迄の一揆との大きな違いは、武士が農民や町民を蜂起に向けて組織する「兵乱」がここに芽生えた事である。翌日夜迄燃え続けた大火災により、大阪市中の1/5、3300軒余りが焼失した。
 被差別部落民が百姓一揆に参加する事例は、18世紀後半から和泉や大和、加賀の一揆に見られ、特に1833年(天保四)の播州一揆では部落民が中心的な役割を果たした。又藩から等の衣装着用を命じられた事に対し、逃散等の運動によって撤回させた事例が、豊後藩や丹波篠山藩、岡山藩等にある。
 1856年(安政三)、岡山藩の「渋染め一揆」である。無紋渋染め藍染め着用などの藩の差別強化に対して千数百人の部落民が立ち上がり、要求を認めさせた部落史上、画期的な一揆である。
 天保の改革と一揆
 天保の改革直前に当たる1840年(天保十一)、三方領地替え反対の一揆が出羽庄内藩で起きた。幕府は庄内藩酒井氏を長岡に、越後長岡藩を川越に、武州川越藩松平氏を庄内に「転封」する事を命じた。転封は国替え共言う。1840年の転封は、三つの藩を順送りに入れ替えるもので三方領地替えと言われる。藩から転封費用負担を命じられた庄内藩の農民は、この三方領地替え反対の一揆を始めた。
 大庄屋や村役人が纏まり、各所で数万人規模の大集会を開き、十数人から数十人の代表が江戸へ出て、幕府要人や諸藩主へ直訴(かご訴)した。この藩内での大集会と江戸での直訴は、繰り返し行われた。の死去が有利に働き、翌年7月に三方領地替え令は撤回された。一揆勢には軽い処分だけであった。
 『夢の浮橋』の絵は約80シーン、一揆指導部の密談、大集会、かご訴の有様等「一揆の作法」を絵画で知る事が出来る貴重な記録である。私も貴重な記録である絵画を見てみたい。
 1841年(天保十二)、天保の改革が始まると、幕府の年貢増徴に対する近江国甲賀、野洲、栗田郡の幕領の名主300余人を集めて再検地の実施を申し渡した。大幅な年貢の増大を意図していたから、検地の竿を短く変えて使用する等、凡そ前例の無い事が行われた。
 300余村の反対大一揆が翌42年(天保十三)に起こる。指導者は村役人で、事前に検地反対出訴を庄屋大集会で決めていた。一揆は庄屋の指導を超えて激化し、検地役人の宿泊している三上山の本陣を襲って検地帳等を破棄し、逃亡して連れ戻された幕府役人に、「検地十万日日延べ」と言う証文を書かせた。この大一揆は三上山騒動とも甲賀騒動とも言われて、百姓一揆が幕府の天保の改革を撤回させた例である。幕府の弾圧は凄まじく、指導者数十人は全て獄死する。又、大津代官所で獄死する農民は、百数十人に達したと言われている。
 19世紀前半、幕府や藩の政治に無視でき無い程の圧力を百姓が加え始めた。幕府の予想を遙かに超えた社会変動を日本各地で引き起こしたのである。
 「一揆の作法」
 最近、解って来たのが、一揆への呼び掛け、百姓の「出で立ち」、手にした道具、規律等、「一揆の有様」である。江戸時代には地域による若干の偏差は有るものの、共通する一揆のスタイルが出来ていた。
 一揆の作法は1730年代に成立し、19世紀にはいる前後に変質し始める。一揆を起こす時に、一揆勢によって作られる。或いは、一揆の発議者を隠す役割を持つと同時に、参加者全員の一揆に対する共同責任を示したものであった。
 一揆の後「頭取」(指導者)や「発頭人」(一揆を企てた者)が重罪(獄門)に処せられる事は幕末迄変わらなかった原則である。
 1811年(文化八)の出羽庄内藩の川内村の騒動では、頭取の逮捕を知って「誰先と申す儀これなく」参加者の平等な連帯責任を百姓たちは主張した。幕末の一揆では頭取の獄門を想定して、死罪の場合の子女の養育料や、或いは義民として顕彰する事を保証している事例もある。
 18世紀の百姓一揆では村から村へと回状を送って、一揆を始める呼び掛けがされた。次いで、19世紀になると(ポスター)や(チラシ)が一揆の呼び掛けの主流になる。然も、これらの張札や落文は、筆跡を隠す為に殆ど仮名文字で、わざと稚拙に書かれた場合もあった。
 武州では1830年代、木版で刷り物に作られた張札もあったと言う。村に対して参加を強制する文言も、「もし不参加の村方これありそうらはば、大勢乱入、仇つかまるべし」(御天馬騒動記)等記されるのが普通である。
 旗、のぼり、打ち物、鳴り物
 一揆では、村の旗を立てる事が18世紀中頃に一般化した。百姓は村の旗の元に集まり、村毎に参加した。1830年代、40年代(天保期)になると、村旗に加えて一揆のスローガンを書いた旗が出現する。旗の材料は、多くは木綿や紙であった。組の旗は統一されており、郷や村毎に思い思いの旗、或いは幟をもって集まった。良く見ると大篝火の右に一際高い棒が立っており、先端に瓢箪を逆さに付けてある。これが一揆の「目印の旗」と呼ばれていた。
 「目印の旗」が動く時は、「惣蕾」で、一揆勢は真ん中へ集まって纏まる。「北晨の旗」が動くと、「人数繰り出し」で一揆勢が広がって行く。法螺貝が鳴る時は、最初の場所に纏まる。大太鼓が鳴ると「鬨の声」、「ヤーヤー」を上げる。又列を正している時は、組組の旗の元に「村々切輪」を掛けて纏まる。又村々の印が周りから判る様にする。真ん中の広場は「大評議」(全体会議)をする所だから入らな無い様にする。大評議には村々から代表者一人か二人が大旗の所へ集まる等、百姓一揆の行動は此処でも極めて組織的である。
 百姓の規律
 百姓が一揆の時に蓑と笠の「出で立ち」で参加する「作法」が18世紀中頃に定着した。鎌を中心とする百姓一揆の「得物」そして、村を示す村旗の何れも18世紀中頃に「作法」が出来上がった。この様に「百姓一揆の作法」は、全て最初から出来上がったのでは無く、英智によって創りだされたのである。三河国加茂郡の一揆が「鍬のひら一枚」を盗んだものを捕らえて、村役人に差し出している。
 かご訴の作法
 駕籠訴とは、近世の訴訟法の一つで、老中や奉行、藩主等の駕籠に縋って訴状を提出する事を言う。百姓達は、江戸では訴訟を世話する有名な「公事宿」紀伊国屋を頼る。江戸での駕籠訴は、其其領主へ直訴して採り上げられなかった時に行うのを筋とし、老中や大目付に訴願する場合は、領主への嘆願が再度に及んでいないと受け付けられなかった。寺社奉行や町奉行、勘定奉行は毎日登城するので、百姓は門前で待ち受けていて下城して来た所に駕籠脇の近習衆に「お願いがござります」と願書を渡す。老中に駕籠訴した場合は、訴え出た日に屋敷に拘束されて食事を与えられ、訴状は翌日に担当の奉行所に回される。これが百姓の駕籠訴の「作法」であった。
 老中らへの駕籠訴は「」の一つであった。越訴とは、其其の藩主へ訴えるのではなく、上級の幕府に藩主を超えて訴える事を言う。越訴には、駕籠訴のほかに幕府評定所や奉行所へ駆け込んで訴える、「駆け込み訴え」と呼ばれるものがある。
 駕籠訴は重罪か
 1741年(寛保元)から1807年(文化四)迄の越訴に付いて幕府の判決80余件を調べた結果、獄門にされた越訴が一例だけだと言う事である。その一例は越訴の罪で獄門にされたのでは無く、謀書(にせ文書)を使って銀子を取ろうとしたとして獄門にされていた。江戸時代、謀書は大罪であった。1797年(寛政九)の勘定奉行根岸鎮衛の判決に明示される様に、「駕籠訴いたしそうろう段は、までにござそうろう」と言うのが幕府の考えであった。
 理のある事からをしかるべき手続きで越訴した場合、罰則は極軽徴であるか、それとも、罪を問われなかった。
 江戸時代の支配の強さは、訴訟も厳禁し、百姓を力で圧倒した所にあるのではなかった。
 越訴を含めて訴訟を行う事を認める柔軟性のある支配の強さの秘密があった。江戸時代、百姓の訴訟が如何に多かったか、又、百姓の訴願する実力が活発であった事を物語っている。百姓一揆についての最新の研究は、能動的な、アクティブな百姓像を蘇らせている。
 一揆のオージー(高揚)
 百姓達ちにとって、一揆は命掛けの一回限りのもである。一回限りにものであれば、其処には一揆と言う場にこそ見られる、非日常的な「高揚」、オージーがあった。詰まり、一揆は地域社会の日常性の基盤に立つ面と、もう一面では、日常性に還元出来ない、あやういけれども「高揚」した面があったのである。
   <開国と幕末変革   講談社  日本の歴史18より>

 美しい日本の創造
 工業技術を含む広義の日本文化を培って来た農業を再生し、「美しい日本」を
創造しなければならない。進歩に次ぐ進歩、発展に次ぐ発展の20世紀「異常な時代」が終わり、「当たり前の時代」が1970年代の第一次石油危機の頃から始まっている。何時迄かと言えば、石油に基づく技術文明から脱却しうる日が来る迄である。独立独歩、唯我独尊の生き方では無く、世間様と行き合う感覚である。例え嫌な相手であろうとも共生しようとする、コミュニケーション・外交能力・空間感覚の拡大が、これからの時代には求められる。「農の再生」に基づく日本文化の強化、文化立国への道であり、「美しい日本の創造」である。
 「当たり前の時代」には何よりも先ず土地にしっかりと足を着け、土と生きる誇りと自信、安心と力を取り戻さねばならない。如何に技術革新が進もうとも、人間の「土地に生きる」定住本能はなくならない。大地を耕し、土地の物を土地で口にする「地産地消」の美味しさ、幸せは大きくなるばかりである。「住んで良し、訪れて良しの地域造り」を作る。今何よりも先ず、農の再生と農村の活性化を、国家的課題として早急に図らねばならない。それによって農に生きる自信と安心、そして、誇りを取り戻す。日本の出生率も高くなり、皆元気になる。家族の連帯と愛情が、農には不可欠だからである。園芸と言うべき肌理の細かさで世界に冠たる日本の工業技術を支えているのは、農業に培われた日本文化その儘である事を忘れてはならない。工業技術に限らず、日本の食と酒、祭り、山村の美しい佇まい、漆器や焼き物その他の工業品、芸術活動の全てが、土に発し、自然との愛と共生の中に磨き抜かれて来た。もう一度私達は農に立ち返り、五感を鋭く、日本の文化力を高め、これを日本外交の柱に据える必要がある。前後、機能性、経済性、効率性の名の下に欧米の技術を次々に導入し、山も川も海も、町も村も汚くしてしまった。日本の国土を全力を挙げて美しい日本に創造する。それは先祖に対する私達の義務である。先ず手の付けやすい中山間地域や古都から、美しさの復元ないし創造を図る。
 
木村 尚三郎(静岡文化芸術大学学長)

 日本の選択
 アメリカは戦略を作った上で外交を進める国であり、日本はもともと外へ出て行く積もりがなかった国であり、外へ出て行くと、白村江以来失敗ばかり。アメリカは200年前に自由と民主主義の理念のもとに作られた。振り返って日本は3000年前にどういう理念のもとに作られたか?何も無い。日本の対症療法的戦略です。台風に襲われたらこうする。元軍が攻めて来たらこうする。中国から漢字という凄い文明が入って来たら、それをねじ伏せて仮名を作る。国家の成り立ちが日米で全く違う。それが外交戦略にも影響している。それでもペリー来航の時も、日本なりの決断をして、開国を選び取った訳です。
 <第三の開国と日米関係より抜粋>

 今こそ歴史を
 今私達が日本と日本人の将来について、或いは世界との関わりを考える為には、長い期間に積み重ねて来た日本と日本人の歴史と心の本質を見極める必要があると思います。日本と日本人の特徴、それは「風土」と「人物」があります。風土において、第一にアジア・モンスーン地帯に属し、気候が比較的温暖かつ湿潤であり、これが米を作るのに向いていました。従って米作農業が大いに発展しました。日本の歴史を紐解くと、縄文といわれる採取漁労時代があり、直ぐに米作農耕時代が現れました。世界の歴史で重要な地位を占めている「遊牧・牧畜時代」が日本になかった。何故ならば急峻な山と狭い平野の日本の国土は動物の群れを追って遊牧するには適していなかった。
 第二に、日本国土を形成する四っの島は、他の国々からは「狭くない海」で隔てられていました。従って、大量の人々が集団的組織的に軍事目的や政治目的を持って渡海することは非常に難しかった。然し、この海は古代の技術でも渡れない程広くはなかった。幸いな事に、この狭くないが広過ぎもしない海の向こうの朝鮮半島や中国大陸は、人類の文明史の中で最も早く開けた先進地域の一つでありました。日本と似た様な距離で大陸と離れている国というと、キューバやマダカスカルが挙げられるが、対岸のアメリカ大陸やアフリカ大陸には、古代文明がそれ程発達していなかった。そういう意味で大量の軍隊が渡来出来ない程離れていて、文化が渡来で出来る程近かった日本の地理的位置は、世界唯一のものといえると思います。
 第三に、日本国土の主要な四っの島は非常に纏まりが良い。北海道の開発はずっと遅れましたが、九州、四国、本州は一体の国となって育つ自然条件を持っていました。その為、同一文化が育ち、何処かに中核的な政治勢力が出来ると、全体が一つの国家に成りやすかった。少なくとも文字に残っている歴史の時代約千四百年間の間、様々な政争があり、内戦が行われて来たが自らが「我々は日本とは別の国だ」と宣言したケースは見当たらないし、長期間に渡って外国に支配された事もなく、又、国家として分裂した事もありません。
 第四に、日本社会の創りあげて来た根源に「人物」があります。どいう人物がいたかは、次回に話したいと思います。

 肥前佐賀藩
 打倒徳川の第一戦である鳥羽・伏見の戦いの時は、むろん肥前佐賀藩は参加していませんでした。佐賀藩は伝統的に二重鎖国でした。日本という国家的鎖国の大桶の中にもうーつの藩という小桶の鎖国があって、佐賀藩士は他藩士と付き合うという事をしませんでした。幕末、京都に各藩の外交役(正称は周旋方)が集まって大いに論じ、大いに情報を探りあったのですが、その時期も佐賀藩は藩是として人を出さず、それを禁じていました。薩長の方から佐賀藩を誘ったのです。というより懇請したのです。佐賀藩を誘わなかったら、全国規模に広がるであろう革命戦に勝つ事が難しかったのです。何故かといえば、佐賀藩が、日本で唯一つの重工業をもつ藩だったからです。それは藩主鍋島閑そうのモノマニヤックな程の情熱によるものでした。封建割拠・・・つまり自治・・・・・というものの面白さは、意外な花を咲かせるものです。佐賀藩は、科学技術と言う点で、輝く様な藩でした。この藩は、幕府から長崎警備を任され早くから藩を洋式化していました。多くの藩士に物理や化学、機械学、或いは造船、航海術を学ばせ、語学としてオランダ語、その後は英語といった様なものを習得させていました。理科系の書物を読ませる為でした。幾隻かの英国製軍艦を購入していましたし、それらを修理したり、小さな船舶を建造したりするドックを持っていました。英国製のアームストロング砲も持っていましたし、陸軍は旋条銃(ライフル)で装備していました。
 鳥羽・伏見の戦いの後鍋島閑そうは藩の洋式軍隊を率いて京に上りましたが、或る日長州の木戸孝允に懇願されて、新政府軍に参加します。薩長土肥になった訳です。もうーつの特徴は、人材でした。この藩は異様な程藩の子弟に勉強させる藩でした。小学段階から大学段階迄設け、各級の節目節目の進級試験に落ちると、役目が貰えないばかりか家禄迄減らされます。薩摩は、物事の本質を押さえて大掴みに事を行う政治家や総司令官タイプを多く出しました。長州は、権力の操作が上手なので、官僚機構を作り、動かしました。土佐は、官に長く居らず、野に下って自由民権運動を広げました。佐賀は、その中にあって、着実に物事をやって行く人材(行政・事務官)を新政府に提供します。この多様さは、明治国家初期が江戸日本から引き継いだ最大の財産だったといえるのでしょう。色々な史料を読むと薩摩、長州、佐賀は、幕末迄に経済改革に成功しかなりの蓄えがあったという事です。
 「明治という国家」より抜粋       著      司馬   遼太郎

 土佐藩
 土佐藩もまた野党・・・・・つまり外様・・・・・でした。薩長と違うのは、徳川家から大きな恩顧を蒙っていた事です。土佐には戦国から豊臣期にかけて長曾我部氏という地生の大名がいましたが関ヶ原合戦後、遠州掛川にいた山内氏と言う小さな大名が、土佐に入りました。4から5倍領地が増えたので、それに見合うだけの家来を増やしました。これが失敗でした。というより特異な藩になりました。長曾我部氏は戦国末期、天下を狙ったのです。この点、長州も薩摩もうまく行きませんでしたが、三藩とも風土として志しが天下にあり、それが土にしみついていたのでしょう。戦国末期の土佐長曾我部氏は、先ず四国平定をしようとしました。とても昔からの侍では人数が足りないものですから、自作農を武士にしました。平素は田を耕している。いざとなれば具足を着て出て行く。これを”土佐の一領具足”と言いました。一種の国民皆兵でした。”一領具足”達は、戦争にも強く、更には、厳格な階級社会を突き崩して出て来た人々ですから、何か平等意識というものを持っていました。徳川幕府が始まると同時に、余所から来た無縁の山内氏と見知らぬ武士達によって土佐は支配されました。時が経つにつれて、土佐の全農民は長曾我部の遺臣だと思う様になったのです。土佐は、大袈裟に言えば二つの民族が存在する様になりました。土佐の農民達は、同じ人間で、何故こんなに差別があるかという事を、他藩の人間なら或いは考えない事を日常的に考える様になりました。山内家は、この調整と、農民層から不満のガスを抜く為に彼らの中から富裕なもの、山野を開拓した者等を”郷士”という下級藩士に取り立てました。数百人の郷士が出来ました。土佐の郷士・庄屋達は。上に付かず下に付くと言われました。未だ徳川幕府体制が安泰な頃、土佐の一割の庄屋達が密かに同盟を結び、内密で申し合わせました。”天朝”というものを仮説したのです。その事によって、重苦しい幕藩封建制の階級制というものを、思想という架空性の中で撥ね付け様という気分が伺えます。幕末、藩の上層をなす山内侍は佐幕でした。郷士、庄屋階級が当時の言葉で言う勤王派になったのも、右によって当然な事でした。序でながら、当時の郷士の一人が”勤王と言うのは革命を伴う観念で、したがってその頃の土佐の保守層では、火付け、強盗と同じ匂いの言葉だった”という意味の事を回想しています。幕末のギリギリになりますと上士も下士の熱意に煽られて、時勢の炎の中に土佐藩を投じ様とします。この頃、独裁的だった藩主山内容堂は、自分の思想が時代に合わない気付き、自ら藩政指導の局面から身を引き、政治面は後藤象二郎という家老にやらせ、藩の軍事面は板垣退助にやらせます。鳥羽、伏見の戦いから、土佐藩は薩長の戦列に加わるのです。
 「明治という国家」より抜粋       著      司馬   遼太郎

 明治維新前夜の薩摩藩
 江戸時代では270藩の中でもっとも雄大豪華というが大藩であるとともに雄藩といった印象をうける藩でした。雄藩というのは英雄的な気概をもつ藩と言う意味でしょう。
 加賀百万石は大藩であつて雄藩とはいいがたい。雄藩とは、まずその自負心のつよさからくる印象だったと思います。藩主以下ー卒にいたるまで薩人といえばみずからら恃(たの)むところが大きく、他藩に対していささかの卑下心ももちませんでした。そのことは、戦国末期から江戸期いっぱいつづいた藩士教育によるもので、つまり藩文化によるものと言えるでしょう。薩摩は独特の方言をもち、藩士の青少年のことを「兵児」(へこ)と言いました。兵児教育は兵児だけの結社をつくての相互教育でしたが、じつに徹底したもので、敵を見て死をおそれるな弱者いじめをするなといったたぐいの教えは骨髄にしみこむほどのものでした。いわゆる薩摩隼人とよばれるいかにも武士らしいこの藩の風は、自然に存したものではなく、くりかえしますが、300年間の教育によるものでした。雄藩であるために他を酷い目にあわせたということは見のがせません。琉球等に対してひどい搾取をしていたからです。このことによって、この藩の経済力を大きくし、雄大豪華という印象のー要素をなしていました。あるいは、島津家が12世紀にさかのぼりうる名家であるということも、豪華であるということの要素のーつだったでしょう。将軍である徳川家より歴史がふるく、はるかに筋のいい家でした。

 江戸時代の日本
 儒教度20%、あと80%は、武士道とよばれる美学的な倫理の国でした。江戸時代の幕末のころ中国の思想が江戸幕府を毒していました。とくに朱子学がどくでした。その害は、日本は皮膚ぐらい侵されている程度でしたが、清朝、あるいは李氏朝鮮は、骨髄まで侵されていました。自分の文化と他の文化という問題では、毒薬のような思想でした。破滅的なばかりに自己中心的な考え方で、当然ながら外国は蔑視すべきものでした。この両国は同じ東アジアにありながら封建制の江戸期日本とちがい、模範的なほどの儒教的中央集権制で、官僚によつて国家が運営されていました。その官僚たちは、科挙の試験によって採用され、試験採用による一代大名でした。「それが文明という物だ。」とこの二つの国の官僚たちは思っていました。江戸期の日本も其れ以前の日本も、そいう文明ではありません。日本人たちは7,8世紀以来、儒教の書物は読んでいましたが、社会そのものが儒教という制度をもつていませんでした。
 日本では、親戚や姻戚同士の結婚というのは、古代からごく最近までありました。中国・朝鮮という20世紀初頭までの儒教国家では、絶対ありません。いまなおありません。かれらは何を想像するのでしょう、動物の世界を思うらしく、やはり日本は野蛮だということであります。中国・朝鮮の科挙の試験はまつたくのところ神学的なものでした。受験は朱子学という神学から一歩もでてはいけない。神学を丸暗記する。其の上で、上手い作文を書きます。その作文にまで型があつて(八股分)・・・・私にはどいう文章かわかりません。その型の通りに書かなければなりません。李氏朝鮮などは、精密な儒教国家だつたものですから、江戸期日本を野蛮国だと思いこんでいました。江戸期日本は、封建制ということです。世襲制。しかし、学問、芸術、医術、武術に秀でた者は、たとえ百姓の出であつても、幕府であると諸藩であるとを問わず、相当な身分に登用されるという特例つきの封建制度であつた。江戸日本の重要な特徴は、日本が圧倒的な商品経済(貨幣経済)のまっただ中にあつたということです。@農村の商品生産者たる富農層A問屋制によつてステロタイプに等質に高い商品をつくりだす町人層Bそれらを日本列島のすみずみまで流通させる海運業者と言う三つの大きな柱は、その面だけから見れば、町人(ブルジョワジー)の革命であるフランス革命が江戸日本におこつてもふしぎがないほどでした。貨幣経済は、モノというものを見つめます。モノを数量で見ます。質で見ます。さらに社会と自分とのかかわりでみます。当然そこからひきだされるものは、封建道徳でなく合理主義であり、個人の自由というものです。合理主義と個人の自由は、とくに後者はヨーロッパの同時期に比べて、一俵の米のまえの一椀のめしほどでしかありませんでしたが、それでも徐々に蓄積されていたことは、江戸中期以後の思想書や文芸において見ることが出来ます。
 江戸日本は、朝鮮官僚のような高度の学識をもつ人はまれであるにしても、読み書きする人口は、中国・朝鮮にくらべて圧倒的におおかつたのです。国民の7%程度を占める武士階級は平均して中学卒程度の教養をもち、他の多くの層にとつて商業従事のために必要でありました。江戸日本は精神面で言えば、二つの民族にわかれていました。一つは、武士という貧しくても誇り高く、形而上的に物を考え、喜んで死ぬわけでないにしても、いつでも必要とあらば死ぬということを人生の大前提にして代々その精神を世襲して来た人々と、もう一つは、町人的合理主義をもつ人々です。前者もその存在が必要とするために書物を必要とするが、後者は存在よりも目的のために文字を必要とします。農村の次男・三男は都市にでて商家に奉公したり船乗りになつたりしますが、文字が読み書きできなければ、手代、番頭にもなれず、船乗りならば船頭にもなれないのです。いわば貨幣経済がかれらに文字を習わせたのです。江戸期の都市における識字率は、おそらく7,80%はあつたとおもわれます。江戸時代、日本で書かれた政治、経済、法制の文書の多さはおそらく中国・朝鮮を遙かに凌ぐでしょう。更に、文芸、家伝、随筆のたぐいにかぎつていつても恐らく中国・朝鮮をしのぎます。
 < 明治という国家>より抜粋

 

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最終更新日: 2007年 03月 06日 火曜日